20話
次の週も、その次の週も、サクはアサヒとともに『喫茶 クロード』で働いた。
アサヒは趣味に熱中するように料理にのめりこみ、ぐんぐん腕を上げていた。
特にオムライスは絶品だった。大通りにある、そこそこ人気店の味を完全再現したのち、卵のふわふわレベルをアップし、子どもも喜びそうな味に改良した。
『モモのほっぺ』と名付けたそのオムライスはたちまち評判を呼び、客足はかなり戻っていた。
サクはとうとう店主に直談判した。
「チラシの裏に、従業員募集って書いてもいいですか? それで、休日に配ってきてもいいですか? その分の給料はいらないので」
店主は苦笑いした。
「ごめんごめん。そうだよね。いつまでもここにいてもらうわけにはいかないもんね。実は、モモのことを見てくれる人が見つかってね。明日から来てもらうことになったんだ」
「えっ。そうなんですか? ……店はどうするんですか?」
せっかく看板メニューが出来たというのに、店を畳んでしまうのはもったいない気がした。
店主は優しげな笑みを浮かべて言った。
「この店は続けることにしたよ。料理を担当してくれる人は引き続き探すけど、自分でもやってみようと思ってね。お昼のメニューはシンプルにカレーとオムライスだけ。
まぁ狭い店とはいえ、一人で調理も接客もやるのはさすがに無理だから、せめて接客だけでもやってくれそうな人が見つかるまではここにいてほしいんだけど……いいかな?」
サクはそれならいいかと思い、「はい」と答えた。
「ありがとう。……そうだ。チラシを配ってくるなら、ついでにアートフェスに行っておいでよ」
「アートフェス?」
「カントで半年に一回開かれるお祭りだよ。芸術家たちが街中でいっせいに作品を発表するんだ。
街の内外からたくさんの人が訪れるから、無名の芸術家にとっては自分の作品を売り込む絶好の機会なんだよ」
「そうなんですか……」
あまり興味が湧かず、感情そのままに応答した。
店主は変わらずにこやかに言った。
「もしかしたら、あの絵みたいに不思議な作品があるかもしれないよ」
「それは是非とも行ってみないと」
サクはいかにも興味ありげな顔をして言った。内心、そんなものないだろうと思いながら。
休日の午後。サクはアサヒと一緒に、裏に「従業員募集中! 調理・接客どちらでも可」と書いたチラシを配り終えると、大通りに向かった。
通りは敷き詰められた石畳がほとんど見えなくなるほど、人で賑わっていた。
アコーディオンの音が幾重にも重なって響いている。普段は優雅な雰囲気を醸しているカフェのオープンテラスには、謎のオブジェがいくつも置かれ、人がひしめいていた。
「来てみたはいいけど、すごい人だかりだな……。適当に歩いて、本屋のあたりで引き返そう」
「なんで? せっかくのお祭りなのに」
アサヒはそう言うと、ウキウキした表情であたりを見回した。
はぁ、とサクはため息をついた。本当に欲しい絵はここではなく、店にある。それなのに何を見るというのか。
「……あの人、どこかで見たような」
突然、アサヒがそう言いながら、首を六十度傾けた。
サクはアサヒの視線をたどった。斜め前方に、やせ細った気難しそうな男がいた。
男はビニールシートの上に並べた数枚の絵の後ろで、腕を組み、あぐらをかいていた。
「あんな人見覚えないけどな。それにあの人、絵を売る気あるのか? あんな態度じゃ誰も寄りつかないだろ」
「わたし、ちょっと行ってみる」
「えっ」
サクは全く気乗りしないまま、アサヒについていった。
「こんにちは!」
男は睨みつけるように目線を上に動かすと、がなり声で言った。
「なんだお前ら。金持ってねーガキはお呼びじゃねーんだ。引っ込め」
げっ。予想通り最悪なおっさんだ。サクは「行こう」とアサヒに目で合図した。
ところが、アサヒは膝を屈めて、男の前に並んだ絵を端からじっくりと見始めた。
「素敵な絵ですね。板に描かれているんですか?」
男は眉をひそめてアサヒを見た。しばらくして、呟くように言った。
「そこらに売ってる安物の板さ。画材買う金ねーからな、絵の具も安物よ。左の二つは昨日雨に濡らしちまったから、少しだけ安くしてやる。少しだけな」
「……濡れた形跡なんて見当たらないですけど」
「そりゃ、そういう性質の絵の具だからな。けど、濡らしちまったことには変わりねぇから」
アサヒはまだ絵を眺めていた。男はそんなアサヒを黙ったままじっと見ていた。
サクは焦った。ケチ(仮)な彼女が絵を買うはずがない。早いとこ去らないと、厄介なことになりそうだ。
男が痺れを切らした様子で訊いた。
「買うのか?」
アサヒは即座に答えた。
「いいえ、買いません」
その言葉に、サクは身をこわばらせた。怒号が飛んでくる。そう覚悟したが、
「……そうか」
意外にも、男は小さく呟いただけだった。サクはほっと胸をなでおろした。
アサヒは肩にかけたポシェットを開けると、畳んだチラシをひらいて男に渡した。
「よかったら、来てください。サービスします!」
「……タダなら行ってやる」
「はいっ。お待ちしてますね」
アサヒはそう言うと、立ち上がってサクの方を向いた。
「行こっ」
再び人ごみの中へ入る。アサヒがなぜあの男にあんなことを言ったのか、サクにはだいたい見当がついていた。
「店に飾ってた絵、あの人が描いたっていう確証はないだろ? 確かに、店の額縁にぴったりはまりそうなサイズの板に、コースターとして使うのに問題ない、水濡れに強い絵の具を使っていたけど。それだけじゃ証拠にならない。
……それに、もしあの人が作者だったとして、タダで料理を振る舞う理由がどこにあるんだよ」
「なんとなくじゃだめ?」
サクはしばらく黙ったあと、「まぁ、いいか」と呟いた。咎める理由もないし、こんなことで彼女との関係を悪くしては元も子もない。
アサヒはそのあとも、興味津々といった様子で色々な芸術作品を見ては、目を輝かせていた。サクは流れに身を任すように、アサヒのあとをついて歩いた。
数日後。昼の来客のピークを過ぎ、落ち着いてきた頃。
サクは店の前で突っ立っている、怪しい男の姿に気がついた。
ドアを開けると、やせ細った男が睨みつけてきた。男は来てやったとでも言わんばかりの態度で、ズカズカと店の中へ入った。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
聞こえていないのか、男は何の反応も見せずに店内をうろうろ歩き回った。
しばらくして、
「おい、絵はどこだ」
ぶっきらぼうに言った。
この人も、この店に飾られていた不思議な絵のことを知っていたのか。おもての貼り紙はもう不要と思い、剥がしてしまっていた。
サクは落ち着いた口調で答えた。
「絵はもうないんです」
「なんだと?」
「すみません。誰かのいたずらで、ぐちゃぐちゃのバラバラになってしまったんです」
すると、男はため息をつきながら肩を落とした。
「……そうか。無名の画家が描いた、『人を引き寄せる絵』というのがどんなモンか見てやろうと思ってたんだがな。前に一度だけこの店の前を通ったんだが、人がうじゃうじゃいて、外からじゃ全然見えねーし。
それにコーヒー一杯飲む金が惜しくてな、結局中には入らなかったんだ。ったく、つくづく運がわりぃな」
男はそう言うと、ソファにどかっと腰掛けた。
サクはテーブルに水の入ったグラスを置いて、尋ねた。
「ご注文はお決まりですか?」
「あ? タダじゃねーのか?」
「お支払いはいいんですけど、お昼のメニューが二つあるので……。カレーとオムライス、どちらがいいですか?」
モモのほっぺとは言わなかった。いや、言えなかった。
「……オムライス」
「かしこまりました」
しばらく経って、サクは店主が作ったオムライスを男の元に運んだ。
男は湯気の立つ黄色い丘に、ためらう様子なくスプーンを突き刺すと、ガツガツと口に入れていた。
アートフェスのあった日。
店に戻ったサクたちは、店主に絵の作者かもしれない人と会ったことを話した。その人を店に誘ったことも、タダで料理を振る舞うと言ったことも話した。
アサヒが自分の給料からその人の飲食代を引くように申し出ると、店主は首を横に振った。
「あの絵には、たくさん救われたからね」そう言っていた。
男がちょうど食べ終えたタイミングで、サクは店主に呼ばれた。
「サク君。あの人にこれを」
アイスコーヒーの載ったトレー。グラスの横に、例のコースターが添えられている。
「コースターは別のものにした方がいいんじゃないですか? もしあの絵の作者本人だったら……」
「大丈夫だよ。これを見て、誰が描いた絵か分かる人なんていないと思うから。たとえ本人でもね」
それもそうかと思った。サクはアイスコーヒーを男の元へ運んだ。
「どうぞ。こちらは食後のサービスです」
テーブルにコースターを置く。その上にグラスを置こうとした。
「ん? なんだこれ?」
男が置いたばかりのコースターを手に取って言った。
「……実はそれ、飾ってあった絵なんです。バラバラになってしまった絵を、コースターとして再利用しようと店主が思いつきまして」
サクはそう言って、「とはいえ、もうすぐそのコースターは絵に戻るんですが」と心の中で続けた。
男は眉間に深いしわを作って、コースターを観察していた。角度を変え、顔に近づけたり離したり。
この人も画家なのだから、そりゃ気になるよな……。サクはトレーを持ったまま、男の様子を眺めた。
男がコースターを裏返した。また鋭い目つきで見ていたかと思うと、急に驚いた表情で声をあげた。
「おい! これ、俺の描いた絵じゃねーか!」
サクの顔に緊張が走った。やはり絵の作者本人だった。……というより、なぜバレたんだ?
男は立ち上がって、サクにコースターの裏側を見せた。
「見ろよ。ここに俺のサインがあるだろ?」
店主とアサヒがカウンターの内側から出てきて、サクの元へ近寄った。サクたち三人は目を細めて、男の持つコースターを見た。
右下に、それはそれは小さな文字で「ルゥ」と書いてあった。
たとえ作者本人の口から告げられたとしても、それがサインであるとは信じがたかった。
サクは男の顔を見た。
ルゥ。本名かどうかはわからないが、どう見てもルゥという名前の風貌ではない。と思った。
ルゥ――という名前らしき男は、コースターをまた少し観察した。それから、怪訝な顔をして言った。
「これ、飾っていた絵というのは嘘だな」
「えっ?」
サクは驚いて聞き返した。
「だってよ。この絵は俺が、自分の手でぐっちゃぐちゃのバッキバキにして捨てちまった絵なんだからよ」
ルゥは手に持ったコースターを扇ぐようにゆっくりと揺らしながら、真顔で続けた。
「クソみてーな奴に頼まれて描いたんだけどよ、そいつが金を払わねぇでどっかに行っちまって。マジでブチギレてな。
ぐっちゃぐちゃに絵の具を塗りたくって、それでもまだ怒りがおさまらなくてよ。どっかの路地裏でバッキバキに割って、壁に投げつけたのさ」
――なん……だと?
アサヒがパンッと両手を打ち合わせた。
「思い出した! あなたのこと、ずっとどこかで見たような気がしてたんです。今はっきりと思い出しました。
わたしたちがこの街に来た日、怒鳴り声をあげて路地裏から出てきた人だ!」
怒鳴り声をあげて路地裏から出てきた……?
サクはセッカからここ、カントに来た日のことを思い返した。「チクショーッ!!」という男の怒鳴り声が脳裏に響く。直後、「あっ」と声が口からこぼれ落ちた。
ルゥが眉間にしわを寄せた。
「ん? っつーことはよ? 誰かがあれを拾って、ここに飾ってあった絵の代わりに置いたってことになるな。
それなら、どっかにその絵はあるかもしれねーな……。いつか見てみてーなぁ……」
サクの隣で、店主が静かに頷いた。
ルゥは再び腰掛けると、アイスコーヒーを飲みながらアサヒを見て言った。
「あんた、ありがとな。ご馳走してくれて。……なんで俺なんかに?」
「なんとなくです。強いて言えば、どこかで会った気がしたから?」
路地裏から出てきた男が、強烈な印象を彼女の脳に植えつけた……というだけだったが。
「奇遇だな。俺もどこかであんたに会ったことがあるような気がしてたんだ」
こっちも、路地裏から出てきて――。
「あぁ、そうだ。思い出した。あんた、何年か前に俺が描いた絵の女に似てるんだ。
昔、北部出身の絵描きに『アリエス』とやらの話を聞いてよ。想像で描いてみたのさ。……その絵をえらく気に入ってくれた奴がいてな」
ルゥは言葉を切って、アイスコーヒーをずずっと飲んだ。
「でもそいつ、全然買おうとしなくてよ。めちゃくちゃまけてやって、なんとか買わせたんだ。
けど、あろうことか財布を忘れていきやがってよ。急いで駅まで行ったんだが、探しても探しても見つからなくてな。結局、近くの交番に届けて帰ったのさ。……ホント、迷惑な客だったな」
ルゥはそう言いながら、かすかに目を細めた。
それからアイスコーヒーを飲み干して「ごちそうさん」と言い、帰っていった。
ルゥが帰ると、店内に客は誰もいなくなった。
店主がグラスを拭きながら、「今日はもうおしまいにしよう」と言った。
サクはカーテンを閉めてから、店主に訊いた。
「初めから分かってたんですか? そのコースターが飾ってあった絵じゃないってこと」
「ごめんね」
店主は申し訳なさそうな顔をしてから、少しだけ口元を緩めて言った。
「そりゃあね。板を割る音なんて聞こえなかったし。……それに、誰がどうしてこんなことをしたのか、すぐに想像がついたからね」
誰がどうして……。「あぁ」と思い、サクはアサヒを見た。その表情から察するに、彼女も分かっているようだった。




