19話
明くる日。この日、店は休みだった。サクはカウンターの内側に立ち、店主にコーヒーの淹れ方を教わっていた。
「粉をならして。……うん。それから、お湯を少しだけ注いで、二十秒くらい蒸らすんだよ」
黒い液体がぽたぽたと落ちる。
「……そろそろかな。中心から、渦を描くようにお湯を注いで――」
サクは言われた通りにお湯を注いだ。
店主は出来上がったコーヒーを一口飲んで、眉を寄せた。
「これは……私が淹れたコーヒーよりも美味しい」
お世辞――というわけではなさそうだった。店主は二口、三口と飲んで、ため息をこぼした。
サクは口元を引きつらせた。なんだか罪悪感を覚える。店主を尻目に見ながらコーヒーを飲んだ。確かに、以前この店で飲んだコーヒーよりも香りが強く、すっきりとした味わいだった。
「何してるの?」
アサヒが二階から下りてきて言った。ヒロとモモも一緒だった。
「コーヒーの淹れ方を教わってた。早く目が覚めて、暇だったから」
本当は目的があって朝早く一階へ下りた。休みの日だから誰もいないだろうと思って、コースターをじっくり観察しようと考えていたのだ。
ところが、予想外なことに店主がいた。店主はカウンターの内側に置いた椅子に腰掛け、神妙な面持ちで手紙のようなものを読んでいた。「おはようございます」と声をかけると、その紙をさっと畳んでどこかにしまっていた。
ヒロがサクの正面に座って言った。
「僕にも一杯ちょうだいよ」
「モモも!」
「じゃあ、わたしも!」
モモはヒロの隣の椅子に手をついて、わざとらしくピョンピョン跳ねた。小声で「ママー」と呟く。アサヒがモモを後ろから抱き上げて、椅子に座らせた。
そのあいだに店主が冷蔵庫からオレンジジュースを出して、コップに注いだ。
「はい。モモはこれね」
「えー」
目の前に置かれたオレンジジュースを見て、モモは不満そうにほっぺを膨らませた。ヒロがそのほっぺを、横からぷにぃと指で押す。
「モモにはまだ早いの。大人の飲み物なんだから」
店主が棚からカップを二つ取り出した。サクはそのカップにコーヒーを注いで、ヒロとアサヒの前に置いた。
二人は口をつけるなり、
「げー」
と言った。
サクは呆れた表情でアサヒに言った。
「なんで苦手なのに飲もうとするんだよ」
アサヒは頬を膨らませた。
「だって、美味しそうって思ったんだもん」
「意味が分からない」
サクはアサヒの前に、丸いガラスの容器を置いた。
「砂糖入れたら?」
「うん」
アサヒは砂糖をスプーン山盛り五杯も入れた。
――おえ。ゲロ甘そう。
ヒロの方を見ると、眉間に十歳の子どもとは思えない深いしわを作って、ちびちびすすっていた。
「そこまでして飲まなくても……」
ヒロはカップを置いて、「はぁ」と大きく息を吐いた。それから眉間を指で押さえ、呟くように言った。
「だめだ。僕はまだ子どもだ」
店主がハハハと笑った。
「ヒロはたまにコーヒーを飲んでは、毎度同じことを言うんだよなぁ。飲めない大人だっているんだよ? 無理して飲む必要なんてないのに」
「いーや。挑戦することに意味があるんだ。何事にも果敢に挑む。そういう男に僕はなりたいの」
「へぇ~。お父さんも見習わなきゃなぁ……」
「別に見習わなくていいよ。お父さんはお父さん。僕は僕。これは僕の美学なんだから」
ヒロはそう言うと、アサヒの前からガラスの容器を取って、カップに砂糖をスプーン三杯入れた。
「潔く諦めることも大事……げっ、にがー。もっと入れよ」
さらに二杯入れていた。
店主がサクとアサヒに向かって言った。
「そうだ。二人に今週分のお給料を渡さないと……。今日はお休みだから、どこかへ出かけるなり、うちでゴロゴロするなり、好きに過ごしていいからね」
「ありがとうございます」
サクたちは店主から、飛んでいきそうなほど薄っぺらい茶封筒を受け取った。
それでも十分……どころか、受け取ってよかったのかと思った。客足はまだ戻っていない。その状況で、寝る場所から食事や風呂まで何もかも世話になっているのだから、むしろこちらが支払うべきなのではと思った。
店主がヒロの方を向いて言った。
「ヒロは、友達と遊ぶんだっけ?」
「うん。学校の近くで遊ぶ約束してる」
「そっか。あまり遅くならないうちに帰るんだよ。……じゃあ、モモはお父さんと遊ぼっか」
「いや! ママとあそぶ!」
そう言いながら、モモはきれいに編まれた三つ編みをブンブン振った。
ヒロがモモに冷たい視線を投げた。
「いい加減、アサヒさんのことをママって呼ぶのやめなよ」
その声に、モモはビクッとした様子で動作を止めた。
低く、氷のように冷たい声だった。十歳の少年が発したとは思えない声音に、サクまでビクッとした。
モモが泣き出しそうになる。ヒロはカウンターに片手をつくと、一転して気迫に満ちた声で畳みかけた。
「ちゃんと思い出せよ! お母さんの髪は茶色で真っ直ぐで短いし、腕も脚ももっと太いし、胸ももっとでかいし、どこからどう見たって、アサヒさんはママじゃない!」
その瞬間、耳をつんざくような泣き声が狭い店内に響いた。ガラスが割れてしまうのではないかと心配するほどだった。
ヒロはそのまま、ドアを開けて出て行ってしまった。
泣き続けるモモに、アサヒが声をかけようとした。が、店主がモモを抱き上げてアサヒから遠ざけた。やがて、モモは泣き疲れて寝てしまった。
「すみません」
店主が深々と頭を下げた。
サクは何と言えばよいか分からなかった。アサヒも同じように口を閉ざしていた。
店主はいつもののんびりとした口調ではなく、客を相手にしている時のような口調で話し始めた。
「この店は元々、夫婦で営んでいたんです。妻――といっても元ですけど。妻が料理担当、私が配膳・接客担当で。そもそも私は喫茶店に興味なんかなくて、妻がやりたいって言い出して仕方なくですけどね……。
その妻が三年前に出て行ってから、幼いモモは毎日泣いて大変で、料理を担当してくれる人もすぐには見つからなくて。そんな時、お財布をなくしたというお客さんが、代金の代わりにと絵をくださったんです」
店主は壁に設置された、透明なガラス板に視線を向けた。
「泣き出したモモにその絵を見せると、不思議なことに必ずぴたりと泣き止みました。見入るような感じで、何時間も絵の前にいることもあったんです。徐々に泣く回数も減ったのですが、それでも、時々は『ママ』と言って泣き出して……。
ある日、料理を担当してくれる人が見つかって、歓迎会のつもりで、その人とここでお酒を飲み交わしていたんです。酔った私は、その時、絵をじっと見ているモモについ、『その人が本当のママだよ』って言っちゃったんです。それからモモは、絵の中に自分の母親がいると思い込んでしまったみたいで……」
アサヒが静かに言った。
「モモちゃん、わたしのことを絵の中から出てきたお母さんだと思ったんですね」
「はい。本当にすみません」
サクはうつむく店主を見た。酒に酔った勢いで、隠していた本音が出てしまったのだろうか。浮気したあげく、子どもを置いて出ていった妻を「母親ではない」と否定する気持ちが。
料理担当の従業員がいなくなり、絵もなくなってしまった。きっと、彼女をそばに置いておくことで、娘の機嫌を保とうとしたのだろう。
店主が自分たちに、ここで働かないかと提案してきた本当の理由が分かった気がした。
店主に気を遣って、サクとアサヒは出かけることにした。絵を手に入れようとしただけなのに、他人の家の複雑な家庭事情に踏み入ることになるとは思いもよらなかった。
店の前の路上に立つ。
アサヒは最初、いつになく暗い顔をしていたが、すぐに微笑を浮かべて言った。
「ねぇ、どこに行く?」
サクは大通りの方面に顔を向けた。
「あっちに行けば買い物ができるし、昼食も食べられる」
アサヒが海の方面に顔を向けた。
「あっちに行けば魚がいるよ。釣って、お昼ご飯にしようよ」
「釣りの道具なんてないけど」
「……そうだね」
商店も何もない田舎ならまだしも、こんな都会で自給自足する意味はない。
お金に困っているわけでもないのに、なぜそんなに倹約しようとするのだろうか。不可解だったが、単にそういう性格かもしれないと思って言及しないことにした。
二人は大通りの店をあれこれ見てまわったあと、まあまあ人気店らしきレストランで昼食をとることにした。
席に案内される。サクの座った場所から、厨房が見えた。
「あそこで働いてる人、誰かうちの店に来てくれないかな……」
「う〜ん。今の状況じゃお客さんが少なすぎて、来てくれたとしても料理を作る機会がないかも。わたしもほとんど自分たちで食べるものしか作ってないし」
「そうだな。こんなんじゃ、そのうち潰れるだろうな……。マスターは店を続ける気があるのかないのかわからないし、モモちゃんのことを見てくれる人も全然見つかる気配ないし。本当は探してないんじゃないか?」
アサヒが神妙な顔をした。サクはしまったと思った。こっちの方向に話を持っていくんじゃなかった。
何か別の話題をと思っていると、ちょうどいいタイミングでオムライスが二つ運ばれてきた。
サクは柔らかそうな黄色い卵の丘を、無意識にスプーンの裏で押した。それを見て、アサヒがふふふと笑った。
「モモちゃんのほっぺみたい」
サクはぴたりと手を止めた。
「食べにくくなった」
「温かいうちに食べなきゃもったいないよ」
アサヒが湯気の立つオムライスに、スプーンでそっと切れ込みを入れた。中からとろとろと卵が溢れだした。
サクもすぐに頬張った。卵の優しい甘味とライスのほのかな塩味が口いっぱいに広がった。
アサヒが空になった皿に、スプーンを置いて言った。
「あーおいしかった。来週あたり、お店で作ってみようかな」
サクは水を飲みながら、少しだけ考えた。来週も再来週も、自分たちはあの店にいるんだろうか。早く絵を手に入れたいという気持ちもあったが、それ以上に、このままあの店に居続けてよいのだろうかという不安があった。
レストランを出た二人は、青果店と精肉店で買い物をして帰ることにした。
一日休みだからと言って、夕食まで外で食べようとは思わなかった。あの家族はどうするか分からないが、とりあえず五人分の夕食の材料を買って帰り、いつものように店のキッチンを使わせてもらおうということになった。
いちいち割り勘するのも面倒なので、青果店ではアサヒが、精肉店ではサクが支払うことにした。
「はい。八百エルンね」
サクは財布を開いて、「あっ」と声を漏らしかけた。
暑くなってきたので半袖の服を調達し、暇つぶしに読書をしようと本を買い、レストランで昼食代を支払った。財布の中には、わずかな小銭があるだけだった。だが、足りない――わけではなかった。
この財布は魔法の財布。二本の指でアレコレすれば……。人の財布の中をまじまじと見る人間などいないだろう。特にまわりを警戒することもなく、札をすっと取り出して支払った。
帰り道。広場を通りかかると、一人、頬杖をついてベンチに座り込んでいるヒロの姿があった。
サクとアサヒが近寄る。ヒロは顔をあげると、
「デートしてたの?」
とおちゃらけた。サクは「なわけないだろ」と答えた。
少しの間をおいて、アサヒが落ち着いた口調で言った。
「ヒロ君は、お母さんのことが好きなんだね」
「……うん。それにお母さんも僕のことが好きだよ。お父さんのことは愛していなくても、僕のことは現在進行形で愛してくれてる。モモのことも……」
ヒロはサクの手荷物に目をやると、「もしかしてそれ、生肉? 早く帰らないと腐っちゃうじゃん」と言って立ち上がった。
自転車を押しながら、ヒロが言った。
「実はさっきまで、お母さんと会ってたんだ。お母さん、たまに手紙を送ってくれて、お父さんはその手紙を隠しちゃうんだけど、バレバレでさ。その手紙にいつも、お母さんが近くに来る日の時間と場所が書いてあるんだ。本当はモモも連れていきたかったんだけどね」
サクはヒロを見下ろした。
「それで、モモちゃんに母親のことを思い出させようとしたのか……。あれからしばらく泣き続けて大変だったんだけど」
「僕が悪いの?」
「んー」
サクはなんとも言えず、口をつぐんだ。元はといえば、絵に描かれた女性を母親と偽った店主に原因がある。が、そんなことをしてしまった原因は浮気したヒロの母親だ。だがその母親のことをヒロは……。
「やっぱり浮気する人間って最低だよねー。お母さんみたいな女の人に引っかからないようにしなきゃ。まぁ、それに僕。お母さんみたいなグラマーな人より、アサヒさんみたいなスレンダーな人の方がタイプなんだよね」
そう言って、ヒロはアサヒに白い歯を見せた。アサヒははにかみながら「ありがとう」と言っていた。
食えないやつだ。サクは冷めた目で、自転車を押す少年を眺めた。
店へ戻ると、店主がいつもの調子で「おかえり」と出迎えてくれた。モモが一目散にアサヒに寄ってきて、「ママー」と抱きついた。
ヒロはそれを見て、何も言わなかった。
賢い少年のことだ。すぐには無理だと判断したのだろう。時が経てば、絵の中から母親が出てくることなどあり得ないと、自然に考えるようになるはずだ。
本当の母親を思い出させるのは、もう少しあとでもいいんじゃないかと、サクは思った。




