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魔法使ひは時計回りに旅をする  作者: 箱いりこ
第一章 東の空に陽が昇る
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1話

 嫌な夢を見た。退屈な夢ならよく見たが、吐き気を催すような夢を見たのは初めてだ。

 何かが胸に引っかかる。それが何か分からないから、余計に気分が悪くなる。


 ――夢のことなんて忘れよう。


 サクはベッドから起き上がると、部屋を出て洗面台へ向かった。手を洗い、顔を洗う。

 正面を向くと、左頬にあざのある顔が鏡に映った。

 血の気のない肌に浮かぶ、赤紫色のあざ。へたった黒髪に、真っ暗闇のような瞳も手伝って、なんとも生気のない顔に見えた。


 部屋へ戻り、無地のTシャツとズボンに着替える。

 机の上から腕時計を手に取り、ズボンのポケットにつっこむ。

 ずしりと重い帆布のショルダーバッグを肩にかけると、ダイニングへ入った。


 薄いカーテンをすり抜ける陽光が、室内の光景を照らし出す。

 八畳ほどの空間に、白を基調とした家具や家電がきっちりと無駄なく配置されている。


 サクはふと、テーブルの上に、手紙らしきものが小さな包みと一緒に置かれているのを見つけた。


『サクへ

 十五歳の誕生日、おめでとう。毎日元気に過ごしていますか?

 おばあちゃんはいつでも見守っていますからね。』


 一筆箋に、インクで一文字一文字丁寧に書かれていた。

 今日が自分の誕生日であることに、手紙を読んで気づく。

 この家に越してきて一週間。新しい環境に早く慣れようと、糸をピンと張ったような心持ちで過ごしていたせいで、サクは自分の誕生日をすっかり忘れていた。


 手紙の下にあった、両手ほどの大きさの直方体を手に取り、包みを解く。出てきた箱を開ける。

 中に入っていたのは、革製の二つ折り財布だった。

 黒く、わずかに光沢がある。持ってみると手に吸いつくような感触があった。

 見たところそれほど高い物ではなさそうだが、自分の年齢で持つには十分高級品だと思った。


 ――ばあちゃん、いつの間にこんなもの用意してたんだよ。


 亡くなった祖母の、元気だった頃の姿を思い浮かべる。

 物静かで優しく、聡明な人だった。

 あきれるほどに用意周到だなと、サクは口元を緩めた。


 古い財布の中身を、この黒い財布に入れ替えようかと思った時。


「あっ」

 

 思い出して呟いた。


「早くユカリさんに渡さないと」


 ボロくなった古い方の財布には、一万エルン紙幣が五枚入っていた。それは昨日、銀行で引き出してもらったお金だった。


 サクは父と祖母から相続した財産を、保護者である従姉のユカリに管理してもらっていた。

 昼食代、文房具代、交通費……。ひと月にどれくらいお金が必要だろうか。何度も銀行へ行くことになっては迷惑がかかる。かといって、あまりに多いと怪しまれるし、防犯上よくないだろう。

 あれこれ考えて金額を指定した。

 ユカリは何も言わずに、指定通りの金額を引き出して渡してくれた。

 受け取ったお金のうち、いくらかを生活費として渡そう。そう考えていたのだが、タイミングを逃して今に至る。


 いっそのことテーブルに置こうかと思ったが、やめておいた。


 ――帰ってから、ちゃんと手渡そう。


 サクは箱に収めた新しい財布と手紙を、失くさないようカバンの内側の隠しポケットに入れた。

 そのカバンを肩にかけ直すと、家を出た。



 外は暖かく、やや強い風が吹いていた。直射日光を受けたコンクリートの斜面が白っぽく見える。

 坂を少し下ってわき道に入り、人気のない林を通る。木漏れ日が揺れる道を歩いて進み、石の階段に差し掛かった時。下から子どもが上ってくるのが見えた。

 このあたりで人とすれ違ったことは、これまで一度もなかった。珍しいなと思いながら階段を下りる。

 十段ほど下りたところで、その子どもに呼び止められた。


「すみません。道をききたいんですけど、『れいいき』に行くには、どうしたらいいですか?」


 見たところ、七、八歳くらいだろうか。男の子はリュックを背負い、片手に地図らしきメモを持っていた。


 この子はどこから来たのだろう。一人で来たのだろうか。「零域」がどういう場所か知っているのだろうか……。

 サクは少し考えて、男の子に質問した。


「零域がどんなところか、知ってる?」


「うん。人間が消えていなくなるところだって、学校で習いました。死んじゃうってことでしょ? ぼく、どうしてもそこに行きたいんです」


 男の子は真剣な顔つきでスラスラと答えた。一直線に見つめてくるその瞳に、サクは男の子の固い決意を感じた。


 ――仕方ない。嘘をついても、どうせすぐにばれるだろう。


 右を指差して告げる。


「あっちへ行けば、零域に着くよ。道なんて気にしなくても、方向さえ間違わなければたどり着けるから」


 ありがとうございますと言って、男の子は勢いよく階段を下りていった。

 その姿が見えなくなるまで、サクは立ち止まった。


 大陸の中央に、およそ五百年前から存在する「死の領域」。それを東の地では「零域」と呼ぶ。

 人は決してそこでは生きられない。入れば倒れ、死に、跡形もなく消え失せる。

 人が存在しない、ゼロの領域――。


 なぜ他の生物は生きられるのに、人間だけが死に、消えてしまうのか。科学技術が発展した現代でも依然として謎のままだ。

 昔の人はこの領域を、人が実体をなくし、霊的なものとなって住まう、いわば死後世界であると考えた。

 零域に行けば死者に会えると信じている人間は今でも大勢いる。

 零域は別世界への入り口だとか、零域で死ねば人生を一からやり直せるだとか、出どころのわからない俗信もある。


 零域に接するこの町・ロクには、しばしばそういう類のものを信じる人間がやってくる。


 ――きっと止めるべきだったんだろうな。


 口の中にじわじわと苦味が広がる。

 説得の言葉なんて思いつかないし、説得したって無意味だと思った。

 それに、零域へ向かったところで、きっと観測塔の大人たちに制止される。だから無理に引き止める必要はない。そう思った。

 

 ……最悪な気分だ。

 瞬間的に、何もかもどうでもよくなった。


 別に死にたいわけじゃない。だけど今すぐ死んだって構わない。

 そんな思いが、心の底からぷかりと浮かんできた。


 なんとなく踏み出した足は、地面に触れることなく宙に浮いた。

 重いカバンに引っ張られ、バランスを崩した体は、ゴロゴロと階段を転がり落ちた。




「うっ」


 死んではいなかった。

 後頭部に強い衝撃を感じたあと、激しい痛みが素早く点滅しながら頭を駆け巡った。その痛みと気持ち悪さを堪えるのに必死で、あちこちぶつけたはずの体の痛みどころか、両手両足の感覚さえ、まるでなかった。


 気を失うか、いっそ死んでしまったらよかった。


 口に入った空気がすぐさま逃げていく。浅い呼吸を繰り返しながら、サクは薄目を開けて空を見ていた。


「……ねぇ、大丈夫?」


 ふいにどこからか声がした。


 だんだんと足音が近づく。

 空を遮って、青い瞳がこちらを覗き込んだ。


「わたしが、治してあげる」


 白く細い手が伸びてきて、左頬に触れた。

 サクはその手の温もりの中で、意識が遠のいていくのを感じた。


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