18話
サクは店主から手渡された、白のシャツと黒のズボンに着替えた。その上に、店の外壁と同じ青緑色のエプロンをつける。
これで準備はほぼ整った。あとは――。
左腕にはめた時計を見る。このまま着けていたら、濡れたり汚れたりするかもしれない。
そう考え、外してズボンのポケットに入れることにした。
一階へ下りると、アサヒがいた。自分と同じ色のシャツとスカートに、エプロンをつけて、髪をポニーテールにしている。束ねた位置に、いつもと同じ青い花の髪飾りがあった。
アサヒはその髪をゆらゆらと揺らしながら、テーブルを拭いていた。
隣で、アサヒと全く同じ髪型をしたモモが、同じようにテーブルを拭いている。手伝いをしているらしかった。
サクはぐるりと店内を見回した。変わらず、客の姿はない。
店主が近づいてきて、肩をすくめた。
「絵がなくなった影響がこれほどとはね」
サクは苦笑いした。大丈夫だろうか。絵がなくなったというだけで、客足が途絶えるんじゃ、人を雇ったところで意味がないのではないか……?
そんな心配をよそに、店主はのんびりとした口調で言った。
「とりあえず、今のうちに色々と覚えてもらおうかな。アサヒさんが主に調理担当で、サク君は主に接客担当ということにしてるけど、一応二人とも一緒に説明を聞いてくれるかな」
サクはアサヒと同時に「はい」と返事をすると、店主のあとに続いた。モモもついてきた。
「ここに、スプーン、フォーク、ナイフがあって……伝票はここね」
サクは相槌を打ちながら、説明を聞いた。コーヒーカップや調理道具は、カウンターの内側の高い棚に。それ以外は客席側の低い棚に――。
「それと……あぁ、客席について説明しないとね。入口近くのカウンターの席から順番に番号が振ってあって、注文を受けたらその番号を伝票に記すんだよ。……ここが一番、二番、三番……」
店主は椅子の背もたれをぽん、ぽん、と叩きながら店内を回った。その後ろを歩きながら、サクはメモを取る。
最後は一番奥の客席。サクは数字をメモに書きこむと、近くの壁に目を向けた。
一面クリーム色の壁に、ボコッと一箇所、透明なガラス板のような物が張り出している。
「これはなんですか?」
「あぁ。これは元々、メニューを書いた紙を入れておくものだったんだよ。ちょうどそこにあの絵がすっぽりはまってね。額縁の代わりにしていたんだ」
「なるほど……」
サクはそのガラス板に近づいた。
縦四十、横五十センチくらいの大きさ。板は二重になっていて、横から見ると七ミリほどの隙間があった。
これなら、中に入っていた絵はスライドさせるだけで簡単に取り外せただろう。誰が何のためにこんなことをしたのか。やっと目的地にたどり着いたというのに、捕まえようとした獲物に寸前で逃げられたような感じがして、苛立ちが湧いた。
店主が不思議そうに言った。
「二人とも、よほどあの絵に関心があるみたいだね。修復するって言ってたけど、本気?」
サクはギクッとしてアサヒを見た。同じくギクッとした顔をしていた。
――まったく、自分で言っておいて。
サクは作り笑いを浮かべて口を開いた。
「その、人を引き寄せる絵というものに興味が湧いたんです。たとえ修復できなくても、手元に現物があれば、その謎を探ることができるかもと思って……。ただの探究心です」
頭の中で模索しながら、なんとか無難な回答をひねり出した。
「へぇ~、探究心かぁ……。放浪者というより、冒険家みたいだね」
店主はそう呟いただけで、それ以上は聞いてこなかった。
サクはひとまずほっとした。と同時に、こちらも絵があんな状態になってしまったことについて、あれこれ詮索するのはやめておこうと思った。
自分たちの目的はあくまで、時計の針が指していたもの。すなわち、人を引き寄せる絵。その絵さえ手に入ればいいのだから。
店主の説明が一通り終わると、全くもって暇になった。
ソファにだらんと座ったモモが、退屈そうに足をバタつかせている。
サクの不安は増すばかりだった。このまま誰も来なければ、数日で潰れるんじゃないか……と、ガランとした店内から窓の外を眺めた。
すると突然、アサヒが思い出したように店主に訊いた。
「そういえば、夕食はカレーですか?」
「うん。そのつもりなんだけどね……。実は一週間ずっとカレーで……」
店主は気まずそうにポリポリと頭をかいた。
モモが不満そうに足をバタバタして言った。
「カレーあきたー」
「よかったら、わたしが何か別のものを作りましょうか? お店のキッチンにも慣れておきたいので」
すると店主は、待ってましたと言わんばかりに、目を輝かせた。
「ぜひお願いします! あっ、ここにある食材は何でも使ってくれていいよ」
アサヒは「はいっ」と答えると、カウンターの内側にまわった。冷蔵庫を開け、物色する。棚を開け、物色する。
その様子を、サクたち三人は少し離れたところから黙って見ていた。
しばらくして――。アサヒがじゃがいもと玉ねぎを手に持って言った。
「コロッケにしましょう!」
「やったー!」
モモがうさぎのようにぴょんぴょん跳ねた。
「おぉ~!」
店主がパチパチと手を叩いた。なんとも情けない店主だとサクは思った。
その後、時間をあけて四組の客がやってきた。皆、常連のようだった。正直、彼らが何を目的に店に来たのか分からなかった。コーヒーはさほど美味しくない。食事のメニューは、今のところ軽食のみ。
なぜか、家からケーキを持ってきてくれた人もいた。本来こちらが提供する側なのに。
サクはアサヒがカウンターの内側で調理をしているあいだ、接客をしつつ、時折モモの遊び相手をしていた。
十も歳の離れた、それも女の子の遊び相手。何をすればいいのかと困っていると、モモが二階からはさみやのり、厚紙の入った箱を持ってきた。
「サクくん、これできる?」
思わずにやつく。工作は得意中の得意。
リクエストに応えて、今にも走り出しそうな馬を作った。親子の象を作った。かわいらしい子犬を作った。
――あれ? 自分が遊んでないか?
カランコロン。ドアの開く音を聞いて、サクは慌てて顔をあげた。
「いらっしゃ――」
カーテンが閉まっていた。
「今日はもう閉店したよ」
店主が言った。それから店主はドアの方に向かって、「おかえり」と言った。
ヒロが驚いた顔でドアの前に立っていた。
「なんで朝の人たちがいるの?」
「今日から住み込みで働いてもらうことになったんだよ。あっちのお兄さんがサク君で、こっちのお姉さんがアサヒさん」
ヒロはサクを一瞥すると、アサヒを見て一瞬複雑な表情を浮かべた。だがすぐに子どもらしい無邪気な表情に戻って、「なんかいい匂いがする」と言いながらカウンターに駆け寄った。
アサヒが皿に盛ったコロッケをヒロに見せた。
「お腹空いてる?」
「うん!」
店の奥にある一番広いテーブルで、五人は夕食を食べた。
「うまっ。久しぶりにこんなにうまいもの食べた」
「モモもー!」
子どもたちの言葉に、店主は苦笑いした。
ヒロが口元にパン粉をつけて言った。
「アサヒさんは料理上手なんだね」
「それほどでも」
アサヒはまんざらでもないという顔をしていた。
店主が姿勢を正して言った。
「二人とも、今日はお疲れさま。ほとんどお客さん来なかったけど……。明日もよろしくお願いします」
アサヒは微笑みながら「はいっ」と答えた。
サクは返事をしながらも、やや居心地の悪さを感じた。自分は今日一日、ほとんど働いていない。むしろ紙工作をして遊んでいた。明日も明後日もこの調子なんだろうか。早く、新しい従業員が見つかってほしい。
それから四日が経った。
店の前には相変わらず、大きな文字で『絵はもうありません』と書かれた貼り紙がしてあった。その横に『従業員募集(料理ができる人)』と書かれた小さな貼り紙がしてあることに今頃になって気がついたサクは、店主に抗議した。
「あれじゃ、新しい従業員なんて来ませんよ」
「まぁ、そうなんだけどね。モモを見てくれる人を別に探していて、もしもそっちが先に見つかったら、店を閉めて転職しようかなって思っているから」
「……転職したいんですか?」
「ほら、人には向き不向きがあるから」
「それなら、従業員募集の貼り紙は不要なんじゃ」
「う~ん」
煮え切らない返事だった。店を閉めたいのか、閉めたくないのかどっちなのだろうと思った。この調子では、何か月ここに拘束されるか分からない。
サクは苛立ちを抑えながら言った。
「暇なので、そこの棚にあるチラシ、配ってきてもいいですか?」
「うん。いいよ」
店主の了承を得ると、サクは店を出た。
こっそりチラシの裏に「料理のできる従業員募集中!」と書こうかと思ったが、やめておいた。あまり近所に配っても意味がなさそうなので、あえて少し離れたところにある民家のポストに入れた。
店に戻る途中、広場で絵を描いている人が目に入った。板ではなく、キャンバスに絵を描いていた。板に絵を描くというのは、あまり一般的ではないのだろうか……? ふと、そんなことを思った。
その日の夜。サクが風呂に入っていると、ゆっくりとドアが開いた。
いつもは先に風呂に入るヒロが、顔をのぞかせて言った。
「僕も一緒に入っていい?」
サクは「いいよ」と答えた。入ってくるなり、ヒロが言った。
「サクはアサヒさんとは一緒にお風呂に入らないの?」
ゲホッ。ゴホッ。サクは思いきりむせた。ヒロはあははと笑った。
「冗談だよ。そういう関係じゃないってことくらい、子どもが見てもわかるよ」
「……本当に子どもか?」
ヒロはニヤッとした。石鹸で体を洗いながら言う。
「前にうちで料理人をしてたユージって人がさ、急に辞めちゃったんだよね。モモのことを見てくれていた女の人、レナっていうんだけど、その人も同じ日に辞めちゃってさ。二人、怪しくない?」
サクは浴槽の中で、「まぁ、確かに」と適当に相槌を打った。
「レナにはさ、別に婚約者がいたんだよね。だから二人は駆け落ちしたんじゃないかって僕は思うんだ。お父さんは鈍いから、気づいてないみたいだけど。……だから、浮気されるんだ」
「え?」
急に声のトーンが変わったので、よく聞き取れなかった。
ヒロは元の明るい口調で言った。
「うちのお母さん、三年前に浮気して出ていっちゃったんだよねー」
「えっ」
サクが困惑していると、ヒロは体を流し終えてから言った。
「本当だよ。お父さん、めちゃくちゃキレて、お母さんの荷物も写真も、何もかも全部捨てちゃったんだ。モモはお母さんの顔を覚えてなくて、いや……覚えてたと思うんだけど、お父さんが忘れさせちゃったんだよね。絵に描かれた女の人をお母さんだって言って」
あの温厚な店主がキレるところなど、まったく想像できない。それに、どういう心境で絵に描かれた女性を母親と偽ったのだろうか。サクにはさっぱり分からなかった。
ヒロの顔を見ると、複雑な表情をしていた。この少年が何を考えているのかということも、分からなかった。
これ以上入っているとのぼせそうだ。サクは浴槽を出て、ドアへ向かった。
「うわっ。痛そー」
声に振り返る。ヒロが顔を歪ませていた。
「なにが?」
「えっ。背中のあざだよ。痛くないの?」
「……あざ?」
サクは脱衣所の鏡に背中を向けた。
肩甲骨のあたりに、こぶし大くらいの赤紫色のあざがあった。
全く覚えがない。いつ、どこでできたのだろうか……?




