17話
サクはひとまず会計を済ませると、店を出た。
道を少しだけ戻って、もう一度腕時計を確認する。針は「11」を指していた。
「おかしい」
そう呟いて、顔を上げる。
「今朝見た時は、針はあの喫茶店の方を指していた。それが今は宿のある方を指している」
アサヒが首をかしげた。
「いつから?」
「……ずっと見てたわけじゃないから、分からない」
「うーん」
アサヒは顎に手を当てて、考える仕草をした。少しの間を置いて言った。
「あの絵と何か関係があるのかも」
「え?」
「うん。……もしかしたら、あの絵には魔法がかかっていたのかもしれない」
アサヒは周りを気にするかのように首を回した。ちらほらと人が通る道の上で、魔法の話はしづらいようだった。
サクはアサヒに言った。
「海の方に行ってみよう」
建物の密集した場所から一転、海岸沿いに出ると、爽やかな青色の景色が目の前に広がった。
開放感のせいか、コーヒーを二杯飲んだせいか、サクは急に尿意を催した。
「さきに下りてて」
アサヒにそう告げ、早足で近くにあった公衆トイレに向かった。
トイレを出たサクは、すぐ横の階段を下りた。浜辺には数組の家族やカップルがいたが、会話を聞かれるおそれはなさそうだった。
アサヒは浜辺の真ん中に置かれた、テトラポッドの形をした何かの上に座っていた。
左右を見ると同じ形をしたものが、ぽつんぽつんと置かれていた。消波ブロックとしての本来の役割を全く果たすつもりがなさそうなので、これはテトラポッドの形をしたアート作品なのだとサクは思った。
「おーい」と後ろから声をかける。
アサヒは振り向くと、微笑んで言った。
「サクも一緒に座る? ちょっと狭いけど」
「……座らない。というか、降りて。真面目に話ができないだろ」
「そうだね」
アサヒはテトラポッドもどきからぴょんと飛び降りた。
「わたし、絵のことはよくわからないけど、誰が描いたのかわからない絵に人が集まるって不自然な気がする」
「うん……」
サクも同じことを思っていた。この街の人たちは皆、芸術作品に目がないのだと思ったが、それにしても不自然だ。
セッカで見た「黄金の鹿威し」、駅前にあった「黄金の魚」。それらの作者は相当な有名人だった。
やはり、多くの人間は知名度に釣られる。
あの絵は最初、有名な芸術家の作品とされていた。それが偽物と分かっても人が集まってくるというのは、なおのこと不自然だった。
「絵に、人を引き寄せるような魔法がかかっていたということ?」
サクの問いに、アサヒは神妙な面持ちで言った。
「もし絵に魔法がかかっていたとして……その絵が壊れてしまった。すると、絵にかかっていた魔法は効力を失ってしまう」
「効力を失う? 魔法が解けたって意味?」
「ううん、違う。一度かけた魔法は、かけた本人か、その人以上の力を持った魔法使いにしか解けないって、先生が言ってた。だから、絵を元の状態に戻せば、魔法も復活するはず。その腕時計もそうだったでしょ?」
サクは左の手首を見た。たしかにずっと動かなかった時計が、彼女が右手で触れたあとに動き出した。自分で蓋を開けて見た時には故障は見当たらなかったが、きっと見落とした箇所があったのだろう。
アサヒが真剣な表情で言った。
「魔法がかかった絵……時計の針はたぶん、あの絵を指していたんだと思う」
サクは一瞬疑問に思った。彼女は以前、針の指す方に「人がいる」と思っていたようだったが、その考えとはきっぱりと決別したのだろうか。
――まぁ、そんなことはどうでもいいか。
「整理すると……朝、俺が時計を見た時、針はあの店に飾ってあった絵を指していた。そのあとに絵は壊されて、魔法の効力を失った。だからもう一度時計を見た時に、絵に反応しなくなって、針は別の場所を指した。ということ?」
「うん。今時計の針が指しているのは、わたしたちが泊まっていた宿の方だよね? 来た方を指しているなんておかしいよ。きっとそれは、魔法の不具合だと思う」
「不具合? そんなことがあるのか……」
アサヒが青色の瞳を、目の前に広がる海のようにきらめかせて言った。
「もう一度、あの喫茶店に行ってみよっ。バラバラになった絵を回収して、修復するの」
カランコロン。サクたちはガラスのドアを開けて、店の中へ入った。
「いらっしゃいませ。……あれ? 今朝のお客さんじゃないですか。何かお忘れ物でも?」
「えっと、まぁ……」
サクはそう答えながら、カウンターに目を向けた。そこに板切れはあったが、山はわずかに小さくなっているように見えた。
そこから少し手前の席に座っている男性客の前に、店主がコースターを置いた。その上に、冷たいコーヒーの入ったグラスを載せる。
「えっ」
サクは思わず声をあげた。
「あー!」
アサヒがさらに大きな声をあげた。
店主と男性客が驚いた表情で二人を見た。店主が言った。
「どうかしました?」
アサヒがカウンターの上を指差した。
「そのコースター」
「あぁ、これですか。捨てちゃうのはもったいないと思って、コースターとして利用することにしたんですよ。バラバラになってしまった絵をコースターとして再利用。素敵でしょう?」
店主はにこやかに、コースターを三枚ほど手に取って見せてくれた。割れた板の端で怪我をしないための配慮か、丁寧にテープで縁どられていた。
非常に言い出しにくい。けれど言わなくてはならない。サクがためらっていると、アサヒが先に言葉を発した。
「その板切れ……いえ、コースター。すべて譲っていただけませんか?」
店主と男性客が揃ってぽかんとした。それからすぐ、店主の顔に疑問符が浮かんだ。
しまった。理由を考えていなかった。サクは超特急で頭を回転させた。
たき火に……いや、燃やしてしまっては駄目だ。DIYの材料に……何を作るって言うんだ? 本のしおりに……しては分厚すぎる。駄目だ。どれもコースターには勝てない。
案の定、店主が訊いてきた。
「なぜですか?」
アサヒが真剣な表情で答えた。
「絵を修復するんです」
――ド直球。
店主と男性客は顔を見合わせた。男性客が眉間にしわを寄せて言った。
「修復? いやいや、無理やろ。……こんなバキバキのぐちゃぐちゃになってんのに」
店主も怪訝そうな顔をしていた。
まずい。これではただの不審者だ。魔法のことを告げるわけにはいかないし、修復すると言ってしまった以上、今さら別の理由を繕ったって意味がない。
焦るサクの横で、アサヒが表情を変えずに頭を下げた。
「お願いします。譲ってください」
強引に押し通すつもりらしい。思わず引いてしまったが、自分も当事者であることを思い出して、サクは慌てて頭を下げた。
「どうか、お願いします」
「う~ん」
店主の唸る声が耳に入った。顔を上げると、店主は真面目な表情で訊いてきた。
「二人は旅行でカントに来たんですか?」
「いえ、そういうわけでは……」
思わぬ質問に、サクは歯切れ悪く返答した。
「じゃあ、移住?」
「いえ……ここへは昨日来たばかりで、その、放浪というかなんというか」
自分のことを客観的に見ると、放浪者に違いなかったのでそう言った。
「おっ! いいねっ!」
男性客が口を挟んだ。
――何がいいんだ?
「放浪かぁ。いいなぁ」
店主ものんびりとした口調で言った。
「あの……コースター」
小さく呟いたサクの声は、店主の耳に届いてはいないようだった。興味津々といった様子で、さらに訊いてきた。
「どこに滞在しているんですか? 大通りのあたり?」
「はい」
「そこに何日泊まる予定なの?」
「えっと、とりあえず一泊しただけで引き払いました……」
目的地を見つけたのだから、一泊で十分だと思っていた。
「それじゃあ、今日泊まる場所は未定?」
「はい」
板切れもといコースターをすべて渡してくだされば、泊まる必要はないのですが。と心の中で呟いた。
「料理は得意ですか?」
「へ?」
サクは突然予想外の質問をされて、ぽかんとした。その横でアサヒが答えた。
「得意というほどではないですけど、一応できます。料理上手なおばあさんに、ひと月のあいだ教えてもらっていたので」
すると、店主は目を輝かせて言った。
「そうですか! もしよかったら、うちで働きませんか? 三階に空き部屋があるので、住み込みもOKですよ」
サクは目をぱちくりさせた。なぜ、そのような話に……?
店主は神妙な面持ちで言葉を続けた。
「実は……一週間ほど前に、突然従業員が家庭の事情で辞めてしまって、困っていたんです。私は元々料理が苦手でして、作れるのは軽食とカレーだけ。おまけに絵もなくなってしまって。このままだと、いずれ経営が立ち行かなくなります」
男性客がまた口を挟んだ。
「かわいそうになぁ。まだ子どもが小さいから、すぐに転職っていうのも難しいやろ」
店主はこくんと頷いた。
「そうなんです。モモを見てくれていた人も、偶然同じ日に家庭の事情で辞めてしまって……。だから、今すぐ転職するというのも難しいんです」
店主が哀願するような目つきでサクたちを見る。
「どうですか? 新しい従業員が見つかるまで、もしくはモモのことを見てくれる人が見つかるまで。それまでのあいだ、ここで働いてくれませんか?」
想定外の展開に、サクはしばし固まった。
店主がにこやかに言った。
「もし働いてくださるのなら、勤務最終日にこのコースターを全部差し上げますよ」
これは……人質ならぬ、絵もとい板切れもといコースター質。
サクはアサヒを見た。アサヒはすでに決心しているような表情でサクに頷いた。
「働かせてください」
二人は店主に頭を下げた。
男性客が飲み干したアイスコーヒーのグラスを、コースターの上に勢いよく置いて言った。
「よかったなぁ! マスター!」
男性客が帰ると、店内に客は一人もいなくなった。料理を担当していた従業員が辞める前は、狭い店内は朝から満席で、外に行列ができることもあったらしい。その従業員が辞めてからも、昼時以外は多くの客で賑わっていたようだった。
ほとんどの客が絵を目当てにやってくる。そう店主が言っていた通りだった。
この店に再度来た際、ガラス窓に大きな文字で『絵はもうありません』と書いた貼り紙がしてあった。
店の中から、その貼り紙を見て残念そうに立ち去る人の姿が見えた。
ソファで眠っていたモモが目を覚ました。アサヒを見て、目をこすりながら呟く。
「ママ?」
店主が中腰になってモモに言った。
「このお姉さんはアサヒさん。隣にいるお兄さんがサク君。今日からうちで働いてもらうことになったんだよ」
サクとアサヒは店主に年齢を訊かれて、十六歳と答えた。それを聞いた店主は「成人したばかりなんだ。早い人は早いんだなぁ……」と意味の分からないことを言っていた。
「モモちゃん。よろしくね」
アサヒが声をかけると、モモは「うん!」と言って、ニコニコした。
店主のあとについて、サクたちは三階へ上がった。
そこは三階と言っても屋根裏で、広々とした部屋が一つあるだけだった。一応ベッドは二つある。
サクは店主に尋ねた。
「あの、仕切りになるようなものはありますか?」
すると店主は、まばたきをして言った。
「仕切り? えっ……サク君たちって、夫婦じゃないの?」
「違います! 俺たちはその、ただの旅仲間です」
「そうだったの? ごめん。早とちりしてしまって……」
店主はアサヒの方を見た。アサヒの手を、モモがぎゅっと握っていた。
「アサヒさん、モモと同じ部屋でどうかな? たまに夜中に泣き出すことがあるから、迷惑をかけるかもしれないけど……」
「モモちゃんさえよければ」
アサヒはそう言うと、中腰になってモモに微笑みかけた。モモはアサヒを見て、嬉しそうにニコニコした。




