16話
セッカ正門より十数メートル離れた停留所から、サクとアサヒは路面電車に乗った。
カントへ行くならバスの方が早い。が、目的地が途中である可能性を一応考慮するならば、途中下車不可のバスではなく、路面電車を選ぶのが正解だと思った。
それに、アサヒが毎度のごとく先に乗り込んでしまったので、サクに選択の余地はなかった。彼女が迷うことなく路面電車を選んだ理由は経験上分かっていた。バスより安いから。
二両編成。白と黄のツートーンカラー。おもちゃのような電車は、ゆっくりドコドコ走った。
二時間以上も経って、ようやくカントに到着した。
サクは天井一面にガラスが張られた、明るい駅のホームに降り立った。
大きな荷物を持った人達が行き交っている。
カント駅は路面電車の終着駅であり、大陸東部と南部を結ぶターミナル駅だった。
駅を出て、硬い石畳の上に立つ。そこにあったのは、まさしく芸術の街という光景だった。
色とりどりの建物が並び、それでいて一つも浮き立つところのない。どこを切り取っても絵になる景色だった。
そんな景色を背にして、目の前で巨大な黄金の魚が天に向かって飛び跳ねていた。
サクは、セッカで見た鹿威しは正直何がすごいのか分からなかったが、これは素晴らしい芸術作品だと思った。
そのオブジェのキャプションらしきものが、すぐ近くにあった。
『黄金の魚 カビトル作』
全くひねりのないタイトルと、あの鹿威しと同じ作者だったことに、何とも言えない気持ちになった。
だが、その下に書かれていた一文を読んで、なるほどと思った。
『大きな胸びれは、海の方向を指しています』
魚は、「あっち」と言わんばかりの顔つきで、不自然に片側だけ肥大した胸びれをぴんっと伸ばしていた。
「あっ! 傘、電車の中に忘れてきちゃった。せっかくタダで手に入れたのに……」
そう呟くアサヒの隣で、サクは腕時計を見た。針は魚の胸びれと同じ方向を指していた。
「海の方、か。さすがに海の中ってことはないだろうな……」
「うん。きっとこの街のどこかに、目的の場所があるはずだよ。歩いて探してみよっ」
サクとアサヒは石畳の道を歩き出した。「あっち」と魚が示した方向に真っ直ぐ歩いていくと、すぐに行き止まりになった。
「あの魚、道しるべじゃなかったのかよ」
サクは仕方なく通りを右に曲がった。すぐに左へ曲がる。建物の隙間の狭い道を、右へ左へと曲がりくねりながら歩いた。
迷路のように入り組んだ道を歩き続けると、やがて広場に出た。
中央にある花時計が、午後三時を示していた。
さすがに少し疲れたので、近くにあった露店で適当に飲み物と食べ物を買い、休憩した。
しばらく経ってから、また入り組んだ道を歩いた。
アサヒが小首をかしげて言った。
「ねぇ。ここ、さっきも歩かなかった?」
「そうだっけ……」
サクは腕時計を見ながら、こめかみをかいた。
針の指す方へ進みたかったが、そちらは民家だった。そこが目的の場所であるという確証もないのに、いきなり他人の家に突撃するわけにはいかない。
詳細な地図は持ち合わせていなかった。役に立ちそうな道しるべもない。
ただひたすら道にしたがって歩くしかない。右へ左へ、ぐねぐねと曲がる。時計の針もくるくる回った。
「あー」
サクは思わず天を仰いだ。このままでは日が暮れてしまう。
アサヒが微笑んで言った。
「焦っても仕方ないよ。今日がだめなら、明日また探せばいいでしょ?」
「明日探すっていうなら、宿も探さないとな」
「宿? のじゅ」
「野宿はノー」
そう冷ややかに告げた時。
「チクショー! チクショーッ!!」
突然、怒鳴り声が耳に届いた。
サクはぴたりと足を止めた。
声はすぐ前方右手にある、狭い路地から聞こえた。続けざまに、バキッバキッと何かが折れる音、バンッと物を叩きつけるような音がした。
直後、その路地からやせ細った男が出てきて、険しい目つきをしながら二人の横を通り過ぎていった。
アサヒが後ろを振り返って言った。
「今の人、どうしたんだろう?」
「さぁ? とにかく進もう」
歩を進めると、大きな通りに出た。
街並みの雰囲気はこれまでとさほど変わらないが、より都会的な印象だった。
大きなショーウィンドー、洗練されたデザインの看板。靴屋、花屋、パン屋、レストラン等々が並んでいた。
「あっ」
サクはすぐ右手に、宿の看板を見つけた。先に宿を見つけてしまった。今日はもう諦めろという暗示だろうか。
腕時計を見る。針は「11」を指していた。もう少しだけ、歩いてみようと思った。
大通りを外れ、また入り組んだ道を歩いた。「もう少しだけ」と思ってから、とっくに二十分は経っている気がした。海が近いのか、ほのかに潮の香りがする。
サクは突然ぴたりと足を止め、時計を二度見した。
「どうしたの?」
アサヒが不思議そうな声で言った。
サクは顔を上げ、すぐさま方向転換した。ゆっくりと来た道を歩き、角を曲がって脇道に入る。数軒の密集した建物の周りを、ぐるりと一周した。
「ここ……なのか?」
針は、目の前の建物を示していた。窓の配置からして三階建て。壁は青緑色で、一階はほぼガラス張りだった。
アサヒが言った。
「ここって、喫茶店?」
ガラスのドアに『喫茶 クロード』と書かれていた。
カーテンが閉まっていて、中の様子をうかがうことはできない。今日の営業は終了したということだろう。
サクはアサヒに言った。
「明日、もう一度来てみよう」
来た道を戻り、大通りで見つけた宿に泊まることにした。
古い宿だった。が、その分料金は格安だった。
サクはアサヒと別れ、一人用の部屋へ入った。そこは猫の額ほどの広さしかなく、ベッドに横たわるとギシッと嫌な音がした。
翌朝。サクが部屋を出ようとすると、偶然コンコンコンとドアが鳴った。
開けると、昨日と全く同じ服装と髪型のアサヒがいた。
「おはよう、サク。昨日の喫茶店、もう開いてるかな?」
「どうだろう。もし開いてたら、朝食も食べられて一石二鳥なんだけど」
そう言って、サクは腕時計を確認した。針は、昨日の喫茶店の方向を指していた。
「とりあえず行ってみるか」
すぐに出発しようと階段を下りた。ところが、先に下りていたとみられる団体客によって、受付はてんてこ舞いしていた。そのせいで、部屋を引き払うのに二十分も待たされてしまった。
やっとのことで宿を出ると、昨日歩いた道を辿って『喫茶 クロード』に向かった。
店の前には、なぜか人だかりができていた。
――何ごとだ?
サクはつま先立ちをした。人だかりの向こうに、小さな青色のランプが見えた。
パトカー? 何か事件でも起きたのだろうか。こんなタイミングで?
「いてっ」
少しバランスを崩した拍子に、サクは何かに頭をぶつけた。
アサヒが目をぱちくりさせて言った。
「ごめん、大丈夫?」
どうやら彼女の頭とぶつかったようだった。二人して、つま先立ちをしていたらしい。にしても、彼女は全く痛そうではなかった。たぶん、石頭なのだ。
「いや、こっちこそごめん……」
サクは頭をさすりながら、謝った。
人だかりの中から、ささやくような声が聞こえた。
「バラバラですって」
――バラバラ?
サクはごくりと唾を飲み込んだ。まさか、殺人事件……?
人だかりは徐々に解けていった。
店の前に、店主らしき四十歳前後の男性と、十歳くらいの男の子、そして五歳くらいの女の子が残っていた。
男性が警官に頭を下げた。パトカーが去っていく。女の子は泣いていた。
サクたちは店へ近寄った。何があったのか、確かめる必要がある。だが何と声をかければいいのか分からなかった。
すると突然、女の子がピンク色のスカートをはためかせながら、こちらに駆け寄ってきた。
「ママ―!」
叫びながら、女の子はアサヒに抱きついた。
「へ?」
サクは驚いてアサヒの顔を見た。アサヒも驚いた表情をしていた。
男性が慌てた様子で駆けてきて、女の子を引き離した。
「すみません。あなたのこと、母親だと勘違いしたみたいで……」
男性はそう言って、女の子を抱き上げた。
サクは訊くなら今しかないと思い、思いきって口を開いた。
「何かあったんですか? さっき、パトカーが停まっていましたけど」
「あぁ、お騒がせしてしまって……」
男性は気まずそうに、薄茶色の眉をひくつかせた。男性とよく似た顔の男の子が近づいてきて言った。
「朝起きたら、店に飾っていた絵がぐちゃぐちゃのバラバラになってたんだ。それを見たモモが泣き叫んで、近所の人に通報されたってわけ」
「絵?」
サクとアサヒが同時に訊いた。
モモという名前らしい女の子が、栗色の長い髪を振り乱しながら泣きじゃくった。
「ママが……ママがバラバラになっちゃった……」
「お母さんの肖像画だったんですか?」
サクの問いに、男性はぎくっとした顔をした。
男の子が代わりに答える。
「いーや。知らない金髪の女の人の絵だよ。それに肖像画じゃない。幻想的な風景の一端に若くてきれいな女の人が描かれていたんだ。――お姉さんのようなね」
男の子はアサヒに白い歯を見せた。それから、父親の腕に抱かれた妹を見て言った。
「その女の人のことを、モモがお母さんだと勝手に思い込んでたんだ」
「ママだもん。おとうさんがいってたもん! おにいちゃんのバカ!」
男の子は冷めた表情で父親を見た。男性は困り果てた顔をしていた。
サクたちの横から、通りすがりの熟年夫婦が男性に声をかけた。
「マスター。あの絵、ダメになっちゃったって聞いたんだけど本当?」
「そうなんです。申し訳ないです」
「そう……。とても残念だわ」
夫婦は揃って肩を落とし、去っていった。
サクは不思議に思った。さっきも人だかりができていた。店に飾られていた絵がバラバラになってしまった――というのは摩訶不思議な事件だが、それにしても、こんなに騒ぎになるだろうか?
男の子が言った。
「あの絵がないと、うちは終わり。たいして旨くもない軽食とコーヒーだけじゃ、この先やっていけないよ。さっさと店をたたんで、お父さんは自分に合った仕事に就くべきだと思うよ」
子どもとは思えない冷淡な言葉に若干引きつつ、サクは疑問を口にした。
「絵がないとってどういう……」
男性が不思議そうにサクを見た。
「もしかして、よそから来られた方ですか?」
「はい」
「なるほど。どうりで、うちの絵のことをご存知ないのですね。……あの絵は、特別な絵だったんですよ」
アサヒが首を傾げた。
「特別な絵?」
男性は娘の背中を優しくさすりながら、頷いた。
「とにかく人を引き寄せるんです。うちに来ていたお客さんは、ほとんどがあの絵目当てでしたからね。しょっちゅう売ってくれって言われて、大変だったんです」
サクが尋ねる。
「有名な画家の作品だったんですか?」
「いいえ。文字通りの無名で、誰が描いたかわからないんです。以前、人から貰ったもので、その人はとある有名な芸術家の作品だって言っていたんですけど、それがあとから嘘だと分かりまして。
けれど、そのあともひっきりなしに絵を見にお客さんが来たんです。不思議でしょう? 誰が描いたかもわからない絵に、そんなに価値があるものなのか……。サイズも大きくないし、古いわけでもないし」
男の子がぼそっと呟いた。
「お父さんは、あの絵の価値が分からない希少種――」
「はいはい。ヒロはそろそろ学校へ行く時間でしょ」
「やばっ」
ヒロと呼ばれた男の子は、慌てて店の中へ入っていった。
「すみません、私もそろそろ店に戻らないと。よかったら、コーヒーでも飲んでいきませんか? 軽食もご用意できますよ」
男性の言葉に、サクとアサヒは「ぜひ」と答えた。元々そのつもりだったのだから、何のためらいもなかった。
男性が片手でドアを開け、サクたちが店へ入ろうとした、ちょうどその時。
大きなトートバッグを肩にかけたヒロが、勢いよく飛び出してきた。店の前に置いてあった自転車にまたがり、疾風のごとく去っていく。
サクはあ然とした。男性がヒロの背中に向かって、「今夜のカレーは、ヒロのも甘口にしてあげるからねー」と言っていた。
店へ入ると、男性店主は笑顔で「お好きな席へどうぞ」と言った。それから店主は、泣き疲れて眠ってしまったモモをソファの上に寝かせた。
カウンターの上に、例の絵らしきものがあった。バキバキに割れた板が、山をつくっている。どの板切れも赤色や黒色をしていた。絵の具でぐちゃぐちゃに塗りつぶされて、全く原形をとどめていないようだった。
そこから少し離れた、入口近くの席にサクたちは腰掛けた。
サクはメニュー表を手に取った。左側に飲み物と軽食。右側のランチメニューには、赤いバツ印がつけられていた。
「ご注文はお決まりですか?」
「コーヒーとサンドウィッチをお願いします」
「わたしも同じで」
出されたコーヒーは特別美味しいわけではなかったが、まずくもなかった。サンドウィッチも同様。
ただし、隣の金髪少女はカップに口をつけた瞬間に「げー」と言っていた。
――苦手なら、なんで頼んだんだよ。
非難の目を向けると、少しも減っていないコーヒーがじりじりとスライドしてきた。仕方なく、カップを半回転させて二杯目を飲んだ。
サクは板切れの山に目を向けてから、店主に訊いた。
「どうして絵があんな状態になってしまったんですか?」
自然現象ではあるまい。明らかに人為的だ。
店主はのんびりとした口調で答えた。
「誰かのいたずらかなぁ」
「いたずら? いたずらってレベルじゃ……」
店主は声をひそめて言った。
「いいんです。大ごとにしたくないから、警察にはこっそり子どものいたずらですって言っちゃいましたし。それに、元々いただき物ですから」
「そう、ですか……」
サクはそれ以上、何も言えなかった。
アサヒがサクの腕をつんつんとつついた。
「目的、忘れてない?」
サクは「あっ」と思い、すぐに腕時計を確認した。
――あれ?
目を見張った。針は、正面の何もない壁を指していた。




