13話
出発の日の朝――。
サクは、およそひと月過ごした部屋をあとにした。
廊下へ出ると、中庭の花や木々についた水滴がキラキラと輝いているのが見えた。
三日降り続いた雨が、止んでいた。
一昨日ラジオで聞いた天気予報では、今日も雨の予報だった。ミヨさんは「もし雨で飛行船が飛ばなかったら、もう一か月ここにいるといいわ」と言っていた。
雨だと飛行船は飛ばない? 一か月も延期する? 飛行船について、何も情報がないから分からない。あれは冗談だったのだろうか……。
「そうそう。忘れていたんだけど」
朝食をとっている最中、突然、ミヨさんが思い出したように言った。
「飛行船に乗るのに、重量制限があってね。サク君の工具、制限に引っかかると思うわ。宅配便で送るにしても、ものすごく時間がかかると思うし……行き先もはっきりと決まってないのよね?」
サクは少し悩んでから答えた。
「いくつか、ここに置いて行ってもいいですか? 処分してもらって構わないので」
「いいの? 大事な商売道具でしょう?」
「その……修理屋というのはただの思いつきだったんです。工具箱を持っている理由を聞かれて、何か答えないとまずいと思って咄嗟に嘘をつきました。本当は自分でも、なんで工具箱を持っていたのか分からなくて……」
サクは言葉をつっかえながら、正直に話した。
「俺には、どうしても行かなければならないところがあるんです。何が何でもそこへ行くと決めたから、そのためならなんだってしようと……。だから、すみません」
サクは頭を下げてから、床に置いたカバンを開いた。中から分厚い封筒を取り出して、テーブルに置く。
「みなさんからもらった修理代です。俺たちの宿泊費として受け取ってください」
ミヨさんは驚いた顔をしたあと、封筒をサクの方へ押し返した。
「これは、あなたたちのお金よ」
「でも」
「何が何でも行きたい場所があるんでしょう? そのためならなんだってするんでしょう? そこへ行くのにウンとお金がかかったらどうするの。今このお金を取っておかないと、きっと後悔するわ。――それに、宿泊費はもういただきました」
ミヨさんはそう言うと、ほほほと笑った。
ん? どういうことだ? お金は全額ここにあるのに。
サクは不思議に思い、隣に座る金髪の少女をちらりと見た。彼女はミヨさんに向かって、にっこりと微笑んでいた。
久しぶりに見る景色。広大な空き地。
ここへ来たのは、山菜採りに出かけた時以来だった。
サクはバスの待合小屋で、少し軽くなったカバンをベンチに置いた。収穫シーズンが終わったのか、そこにはもうキャベツは置かれていなかった。
ミヨさんが「何か、飲み物でも買いましょうか」と言って、古い自動販売機の前で財布を開いた。
「あれまぁ、お札しか持ってないわ。この自動販売機、おつりが出ないのよねぇ~」
サクはドキッとした。おつりを取り出すために、鍵を無理矢理こじ開けた記憶がよみがえる。
「な~んてね」
ミヨさんは一瞬こちらを見て、にやりと笑うと、財布から札を取り出し、すいすいと投入口に入れた。
一段目の左端と二段目の右端のボタンを、同時に「えいっ」と押す。
『チャラッチャッチャラ~』
自動販売機の背後から突然、へんてこな音楽が流れ始めた。一方、おもて側に変わった様子はない。
『ピピピピピピピピピッ ピッ ピッ ピッ ピー』
ガコンッ。
『チャララ~』
――音だけのルーレット?
直後、じゃらじゃらとおつりが出てきた。
「えっ……」
サクはあ然とした。
「へぇ~」
アサヒが呟いた。
「待たなくても、おつりが出てくる方法あったんだ!」
げっ。サクは横目でアサヒを見た。幸い、アサヒの声はミヨさんには聞こえていないようだった。
ミヨさんは出てきた硬貨を財布に収めて言った。
「おもしろいでしょ? これね、昔夫が趣味で改造した自動販売機なのよ。
以前は町の中に置いてたんだけど、なぜだか誰も使わなくってねぇ。……まぁ、ここに置いたところで、他所からやってくる人なんて滅多にいないからあまり変わらないんだけど。
違うのは、町の人は普通にボタンを押したんじゃおつりが出ないってことを知っているけど、他所から来た人は知らないってこと。ほほほほほ」
笑いながら、ミヨさんは腰をかがめて、出てきた瓶に手を伸ばした。
「だけどこの方法だと、何が出てくるか分からないのが困ったところなのよね。――あぁ、絶妙に微妙な物が出てきちゃったわ」
ミヨさんは一転、不満そうな表情になった。仕方なしという動作で、自動販売機に備えつけられた栓抜きにひっかけて蓋を開ける。
「……あの、よかったらそれ、もらいましょうか?」
サクが遠慮がちに言うと、ミヨさんは「まぁ! ありがとう」と言って、ためらう様子なく瓶を渡してきた。
手渡されたのはジンジャーエールだった。それはまさしく、絶妙に微妙な味だった。
サクはベンチに腰掛け、水のように薄いジンジャーエールをゆっくりと味わいながら飲んだ。
一方で、ミヨさんはアサヒに「何がいいかしら?」と尋ねていた。どうやらミヨさんは、どのボタンを押せば何が出てくるか知っているらしかった。
「好きなものを選んでいいのよ。左から、サイダー、コーラ、ビール、一個飛ばしてグレープフルーツジュース、オレンジジュース……」
――今、『ビール』と聞こえた気が。
「サイダー?」
なぜか疑問形で、アサヒが答えた。
ミヨさんは「はい、サイダーね」と言って、ボタンを押した。さらに硬貨を入れて、ビールのボタンを押していた。
三人全員、それぞれ手に持った飲み物を飲み終えた時。遠くから「ゴォー」という音が聞こえた。
ミヨさんが立ち上がり、小屋の外へ出る。サクたちも続いて外へ出た。
サクは空を見上げて、息をのんだ。
白いクジラのような巨体が、ゆっくりと降りてくる。
アサヒが感嘆するように呟いた。
「わぁ……大きい」
サクたちが立つ場所から、飛行船が降りようとしている地点まで数百メートルはあった。それほど離れた場所からであっても、飛行船が想像していたよりもずっと大きいことが見て取れた。
やがて、飛行船は空き地に横たわるような姿で着陸した。轟音が止む。眠りについたかのように、静かになった。
サクはその飛行船を見つめたまま、静かに待っていた。何を待っているかは分からないが、ミヨさんがバッグを持った手を後ろで組んでじっと動かないので、同じようにじっとしていた。
しばらく経って――。飛行船から数人の人が降りてきた。
クロセに帰ってきた者。バスに乗り換えて別の町へ行く者。その者たちは、サクたちの横を通り過ぎていった。
もう乗客はいないのだなと思った矢先、飛行船から誰かが降りてくるのが見えた。大きく手を振りながら、こちらへ近づいてくる。
「お~い」
野太い声がした。
「お~い、かあさ~ん」
「母さん?」
サクは驚いてミヨさんを見た。ミヨさんはほほほと笑うと、なぜかバッグをごそごそし始めた。
飛行船によく似た体型をした男性が、息をゼーハーさせながらサクたちの前に立った。派手な柄の半袖シャツ。無地の半パン。という出で立ちに、頭にちょこんと制帽を乗せている。
――重量制限とはなんだったのか。
サクは思わず心の中で呟いた。
男性が苦しそうに声を絞り出して言った。
「サク君と、アサヒさん……だね? ハァ、はじめまして。飛行船、クーレイ号、副船長の、コウキ、です」
「はじめまして!」
「今日はよろしくお願いします」
サクは軽く頭を下げた。
コウキはしばらく肩を上下させていたが、ようやく落ち着いた様子だった。胸ポケットからハンカチを取り出して額の汗を拭くと、黙ってうつむいているミヨさんに言った。
「かあさん? どうしたの? 具合でも悪いの?」
すると、ミヨさんは急に顔を上げて、バッグから取り出した白い何かを広げた。
……それは、Tシャツだった。おもてにでかでかと『俺がこの世界を救ってやる!』と書かれている。
コウキはぷるぷると顎の肉を震わせた。
「な、なんでそんなものが……捨てたはずなのに……」
「サク君にあなたのお古を貸してあげようと思ってね。探していたら、とっても懐かしいものが出てきたのよ。あの頃はこんなに痩せていたのに……」
ミヨさんは横幅の差を確かめるように、コウキのお腹にTシャツをあてがった。
「や、やめてくれよ。お願いだから、す、す、すて、捨てて――」
コウキは額からだらだらと汗を流しながら、ミヨさんに懇願した。
せっかく落ち着いた呼吸が、また荒ぶっている。
サクはわずかな同情の念をコウキに送った。
近くで見ると、飛行船は不思議な形をしていた。クジラと思ったが、太ったエイのようにも見える。乗降口がある方向から見ると、幅があるのがよく分かった。
この飛行船は、太陽光発電によるエネルギーを動力源とし、垂直に浮上、降下する。広く平坦な土地であれば、どこでも離着陸可能だという。
「そういや、かあさん」
コウキがミヨさんに呼びかけた。
「ミカ、今年の休暇は二週間だけこっちに滞在するってよ。何もないから宿題に専念できてちょうどいいんだと。去年は絶対に行かないってあんなに言い張ってたのにな」
「まぁ。嬉しい」
ミヨさんは顔を輝かせた。
「当分会っていないから、楽しみだわ。大きくなったでしょうね。あなたに似て、横に大きくなっていないといいけど」
「かあさん……」
ミヨさんはほほほと笑った。
ちょうどその時。乗降口から、乗員らしき若者が顔を覗かせて言った。
「副船長~。そろそろ出航しますよ~」
「おぉ、今行く!」
コウキは大声で答えると、ミヨさんの方を向いて言った。
「じゃあ、かあさん。また来月」
「えぇ。またね」
コウキはサクとアサヒに言った。
「それじゃ、行こうか」
「はい」
サクは返事をすると、ミヨさんの方を向いて頭を下げた。
「長いあいだ、お世話になりました」
ミヨさんが微笑む。
「私にとっては『短いあいだ』だったわ。またいつでもいらしてね」
「……はい。どうかお元気で」
サクはコウキのあとについて乗降口に向かった。
アサヒはミヨさんとまだ何やら会話をしているようだった。少し経ってからやってくると、ドアの前で元気よく「さようなら~」と言って手を振っていた。
船内は巨大な船体に反して小さく、学校の教室二つ分程度の広さだった。外観同様にシンプルな内装で、装飾の類は一切ない。
サクたちがどこに座ればいいのか迷っていると、奥からコウキが戻ってきて言った。
「好きなところに座っていいよ。あと、船賃はいらないから」
「えっ」
「かあさんが世話になったみたいで。そのお礼」
サクは驚いて言った。
「お世話になったのは、俺たちの方ですけど……」
コウキは首を横に振った。
「あの人、昔から変わってて。年寄りの集まりの中じゃ、ちょっと浮いてるんだよ。若い人の方が気が合うんだろう。この前も、電話で楽しそうに君たちのことを話していたよ。
ついでにそのことをうちの娘に話したら、嫉妬しちゃってさ。『わたしのおばあちゃんなのにぃ』って。何もなくてつまらないからって、クロセに行くのをあれほど嫌がってた娘が、今年は行きたいって言い出して。さっき、かあさんに伝えたらすごく喜んでたよ。ありがとう」
コウキはニッと歯を見せて笑うと、制帽のつばに手を添えて「では、よい船旅を」と言い、去っていった。
サクとアサヒは近くの座席に並んで座った。サクの右側には、縦にも横にも限界まで広げたような大きな窓があった。
サクは座席に備え付けられた簡易テーブルをスライドさせ、カバンの中からペンと地図を取り出して置いた。
アサヒが冗談っぽく言った。
「もし目的地が山の中だったら、どうする? ここから飛び降りちゃおうか」
サクはため息をついた。
「冗談言うなよ。俺は山の中でないことを本気で願ってるんだから」
そんなことを言っていると、突然、「ゴォー」という音が響いた。
ほどなくして、飛行船はゆっくりと浮上し始めた。
サクはごくりと唾を飲み込んだ。初めて経験する感覚に、心臓がドクドクと鳴る。同時にかすかな恐怖を感じた。
「怖いの?」
アサヒがサクの顔を覗きこんで言った。
「別に」
サクはぶっきらぼうに答えた。アサヒは微笑んだ。
「わたしがついてるから、大丈夫だよ」
その言葉にサクは何も答えず、袖をまくって腕時計を見た。針はまだ、「12」のあたりを指していた。
時計を外し、テーブルに広げた地図の上に置く。山を越えるまで、このまま針が動かないことを願った。
ふと窓の外を見ると、広大な空き地に一人佇むミヨさんの姿が、小さく見えた。




