11話 コネクションⅠ(2/3)
終業後。ユカリは自分の車に乗り込むと、ため息をついた。
同僚に無用な心配をかけたくない。だから、休むことの具体的な理由は言わなかった。
家庭の事情。そう言えば、大抵の人はそれ以上聞いてこない。
けれど、あの室長ですら勘づいていたのなら、新人の後輩以外は皆、気づいているのかもしれない。そう思うと、今頃になって後ろめたさを感じた。
観測員になって四年。毎日淡々と仕事をこなしてきた。
母に電話で散々嫌味を言われた日でも、職場に来れば何事もなかったかのように仕事に没頭した。それなのに、最近の自分はずっと心ここにあらずな状態で、周りに迷惑をかけている。
ユカリは暗い面持ちのまま、車を走らせた。
いつも通る道の途中に、目を逸らしてきた場所があった。そこで車を停めた。
降りて、更地の上に立つ。
近くに高台の公園が見えた。北東観測塔は、その公園にある、気象台だった建物に移転することになっている。
そこより零域に近い場所にある建物は、できる限り取り壊す。そうしないと、観測の邪魔になるからだ。
ユカリはあたり一面土色の世界で、遠い記憶を呼び起こした。
子どもの頃、通っていた学校に馴染めず、アルマに住む両親の元を離れて、祖母の家に移り住むことになった。
祖父はすでに他界していて、この家に住んでいたのは祖母と、自分と五歳しか違わない叔父だけだった。
その叔父を「おじさん」と呼んだら、あからさまに嫌な顔をされた。
仕方なく、「おじさん」と呼ぶのはやめて「お兄ちゃん」にした。すると今度は、嬉しそうにニヤニヤしていた。気持ち悪いのでやめた。
だから結局、名前で呼ぶことにした。
「ダン君」
ぽつりと呟いて、空を見上げた。
薄いピンク色の雲が漂っている。目を細めて、その雲を見つめた。
「……どうしたらいい?」
小さな声が口から溢れる。空は何も返してはくれない。それでも、ユカリはしばらくそのままの姿勢で空を見上げていた。
次の日。ユカリはいつもと変わらず、早朝五時に目を覚ました。
ダイニングテーブルでインスタントコーヒーを飲みながら、ひとりごとを呟く。
「ここに置いておいたプレゼント、なくなってるんだよね……」
十日前。家を出る直前に、祖母から預かった手紙を小さな包みとともに置いた。
休日を丸一日使い、悩んで悩んで悩み抜いて購入した革製の財布――。
祖母は入院中、万年筆で書いた一筆箋を差し出しながら、はっきりとした口調で言った。
「これだけじゃ寂しいから、何か贈り物をしてあげて」
その言葉の裏に、強い願いが込められているのをユカリは感じていた。
――あの子のこと、よろしくね。あなたしか頼める人いないのよ。
ユカリは「うん、分かった」と返事をした。けれど内心は、曇り空のようにモヤモヤしていた。
なぜ血縁関係にない従弟の面倒を自分が見なくてはいけないのか。
それにあの子はもう子どもじゃない。あと一年ちょっとで独り立ちできる年齢だ。だから、どこかの施設に入ってもらえばいい。そう思った。
祖母の葬儀のあと、両親を含む親族たちが口論した。
あの子をどこの施設に入れるか。誰がその施設を探すのか。誰が成人するまであの子の財産を管理するのか……。
ユカリの脳裏に、祖母とダンの顔が浮かんだ。やっぱり自分しかいない。ここにいるのは、自分のことしか頭にない身勝手な大人ばかり。誰もあの子のことを本気で考えてはいない。
気がつくと、両手の拳を握りしめながら立ち上がっていた。
「私が保護者になります」
ガヤガヤと騒がしかった声が止み、葬式の最中に戻ったかのように静まり返った。
「ユカリ、何言ってるの? あなた独身なのよ?」
「そうだぞ。ますます結婚できなくなるぞ」
両親が顔を赤くして、ユカリに言った。
ユカリは顔が熱くなるのを感じながら、ゆっくりと息を吸い込み、毅然とした口調で言い返した。
「元々私の家からおばあちゃんちまで近いんだし、学校を変わらなくて済むでしょ? それに、この中であの子のこと知ってるの、私だけだから」
母は憤慨した。
「知ってるって言ったって、あの子が赤ん坊の時にちょっと一緒に暮らしたことがあるだけでしょ? どこで拾ってきたかも分からない子を、なんであなたが面倒見なくちゃならないの!」
親族たちがヒソヒソ話を始めた。
「あれ、いくつの時だっけ? ダン君が赤ちゃんを抱いて帰ってきたの」
「たしか十六じゃない? 突然いなくなって」
「いくらなんでも十六歳で父親ってちょっとねぇ」
「妙に大人びた子だったけど、そっちも早かったかー」
「コラ!」
「……でも、全然似てないよな」
「そうそう。だから『どこで拾ってきたんだ?』って皆言ってるんじゃない」
「拾った? 大方、ろくでもない女に押しつけられたんだろう」
「しーっ! あの子がどこで聞いてるかわからんぞ」
ユカリは再びゆっくりと息を吸い込むと、絞り出すように低い声で言った。
「誰がなんと言おうと、私が保護者になります。おばあちゃんもそれを望んでいました。ダン君もきっと望んでいるはずです」
「ユカリ!」
これ以上、ここにいる大人たちの意見を聞く必要はない。
ユカリは廊下に出て、サクのいる部屋に向かった。
親族が集まる大部屋からサクのいる部屋まで、少し距離があった。よかった。これならさっきの会話は聞こえていないはずだ。
「サク君」
部屋に入って呼びかける。
目が合った。緊張で、頬の筋肉がつっぱった。
彼がまだ赤ん坊だったころ、指を握らせて遊んだ。歩けるようになったら、手を引いて散歩した。しゃべれるようになったころ、彼は私を「ねーね」と呼んでくれた。
それなのに、いつからこんなにぎくしゃくした関係になったのだろう……。
祖母の家を出て、アルマの上級学校に進学した。
その数年後、観測員となってロクに戻った時。もう一度、祖母の家に住むという選択肢があった。それを私は避けた。彼がいたから。自分の居場所は、もうそこにはないのだと悟ったから――。
ユカリは心拍数が上がるのを感じながら、言葉を発した。
「私の家で暮らさない? 知ってると思うけど、おばあちゃんちには退去命令が出てる。このまま暮らすことはできないから……」
すると、サクはすぐに頭を下げた。
「分かりました。よろしくお願いします」
その口調はユカリを不安にさせた。きっと何を言ったとしても――たとえば、「施設に入ってもらうから」と言ったとしても、全く同じ口調で同じ言葉が返ってきただろう。
流れに逆らわず、何もかも受け入れる。ただ惰性で生きている人間の口調だった。
ユカリはコーヒーカップを洗い終えると、サクの部屋に向かった。
「お邪魔します」
おそるおそる足を踏み入れる。なんとなく背徳感があって、彼が越してきてから今日まで一度も入ったことがなかった。
ただの物置部屋だった頃は、出し忘れたゴミ袋をポンポン投げ入れていたのに……。
ベッドがあり、棚があり、机があり――。特に変わったところはない。
物はほぼなく、一見すると殺風景な部屋だった。
だが、外に出していないだけで、引き出しやクローゼットの中にはきっと何か入っているはずだ。
「ごめんなさい」
謝りながら引き出しを開けた。一段目から四段目まで、すべて確認する。
何か失踪のヒントはないか。そう思ったが、手がかりになりそうなものは何一つ出てこなかった。
出てきたのはよくわからない部品ばかり。
ネジ? ビス? ボルト? 単語は出てくるが、どれがどれかはわからない。単語すら思い浮かばない物もたくさんあった。
ユカリはもう一度謝って、クローゼットを開けた。
無地の服が十着ほど。すっきりしている。自分のクローゼットとは大違いだと思った。
最後にベッドの下も見た。ものすごく謝りながら。
だが結局、何も見つからなかった。
「部屋には何もないか……」
ユカリは自室に戻ると、身支度を整えた。スーツを着て、肩まで伸びた髪を一つにまとめる。
時計を見ると午前七時前だった。約束の時間までまだ二時間ほどある。
零域の急拡大によって、塔の職員はここ数日休みなく働いている。そんな中でもらった休暇だった。今日一日、無駄にしたくない。
ユカリはバッグを肩にかけて、三階建てのアパートを出た。
車で向かった先は、警察署だった。
カウンターの向こうにいる、中年の男性警察官に呼びかける。
「すみません」
「ちょっと待っててください」
警官はユカリに手のひらを向けてから、電話をとった。
机の上に、書類がうずたかく積み上げられている。周囲を見ると、同じような書類の山がいくつもあった。
しばらく経って、受話器を置いた警官が近寄ってきた。背後でまた電話が鳴っていたが、今度は無視していた。
警官は覇気のない声で言った。
「はい、なんのご用でしょう?」
「あの、行方不明の家族の件で――」
「あぁ失敬失敬。たしか前にも来られた方ですよね? 観測員をされている……」
「そうです。従弟を捜していて」
「そうでしたそうでした。何か分かりましたか?」
「いえ……」
ユカリは口ごもった。この町で人が失踪すると、警察は真っ先に零域に入ったことを疑う。
まるで他人事のように「何か分かりましたか?」と訊いてきたのも、ユカリが塔の職員であることを考えれば自然なことだった。
零域周辺の立ち入り禁止区域には、たとえ警察といえども安易に立ち入ることはできない。
十五年前、窃盗犯を追って立ち入り禁止区域に入った警察官が、急拡大した零域に飲み込まれた。以後、警察は身の安全のため、零域周辺の捜査や捜索は原則として、塔の保安部に委ねることにした。
一方、塔の保安部は元々、零域周辺をパトロールするだけの、要は警備専業の部署だった。
それが急に警察と同じ仕事をしなければならなくなった。そのことについて保安官たちがぶつくさ言っているのを、ユカリは入職してから何度か聞いていた。
ユカリは毅然とした口調で言った。
「塔には何も情報は入っていません。だから、零域に入ったとは断定できません。そちらには、何か情報は入っていないのでしょうか?」
警官は白髪混じりの頭をかいた。後ろめたそうな顔をして言う。
「ご存知とは思いますが、あちこちから行方不明者の情報がここへ送られてくるんですよ。それをさばくだけで精一杯なんです。
私たちはその情報を、そちらの保安部に送っているんですがね。大抵、『該当なし』とだけ書かれてすぐに送り返されるんです。……まったく、システムが崩壊してるんですよ」
警官の最後の一言と同じことを、塔の保安官たちも言っていた。
体制のせいにして、責任の所在を濁す。互いに責任を押しつけ合ったって、誰も得しない。どうせ、末端の人間にはどうすることもできないのだから――。
「そうですか……」
ユカリは警官に頭を下げると、警察署をあとにした。
車に乗り、時計を見る。まだ時間がある。少しのあいだ、このままここで休むことにした。
こうして十日も経ってから動いているのは、単に仕事が忙しかったせいだけではない。
室長の方から「休暇をとれ」と言ってきたのだ。急を要する事情があるのだから、自分から願い出て一日休んでもよかった。そうしなかったのは、すぐに結論づけたからだ。
彼は零域に入ったのだと――。
零域で人が倒れ、死ぬ時。おそらく苦痛はない。誰も彼も眠るように気を失う。だからこそ、人を惹きつけ、呼び寄せる。
もし彼が、零域に行けば祖母やダンに会えると信じていたとしたら。そこへ行くのは、彼にとって幸せなことかもしれない。そう考えた。
塔の保安官は二十人ほどしかいない。すべての人間を制止することは不可能だ。零域に入ったと断定できなくても、その可能性が高いことに変わりはない。
そして、その事実を受け入れたはずだった。冷ややかに……。
それなのに、ずっと心がモヤモヤしていた。仕事に打ち込んで、気を紛らわせようとしたが、駄目だった。日に日に苦しくなった。夜中に何度も目が覚めた。
なぜなのか、自分でもよく分からなかった。
祖母やダンへ申し訳ない気持ちはある。だが、それだけではない。
行き場のない気持ちが空中をさまよっているような、そんな感じがした。




