102話 コネクションⅣ
――どうか、もう一度あなたに会えますように。
願いはたった一言だった。遠く、白い山稜の向こうに光るオーロラ・ウォールを見つめながら、ユカリはそのたった一言の願いを心の中で唱えた。
他に何を願えというのだろう。それ以外の願いなんて、何も思いつかない。それに、他のことを願ってしまったら、本当に叶ってほしい願いが届かなくなってしまうような気がする。
願いながら、脳裏に浮かび上がらせたサクの顔は、ぼんやりと霞んでいた。
サクが突然いなくなってから、もうすぐ一年が経とうとしていた。最後に見た姿がどんなだったか、ユカリははっきりと思い出せなくなっていた。
だが、薄れていく記憶とは反対に、「会いたい」と願う気持ちは日に日に強くなっていった。
ぎこちない二人暮らしが始まった直後だった。これからゆっくりと互いのことを知り、親しみ合い、絆を紡ごうとしていた矢先だった。
胸にぽっかりと穴が開いている。その感覚が無くならない。いつまで経っても、無くならない。
ユカリは穴を塞ぐように右手を胸に当てながら、優美に輝き続けるオーロラ・ウォールに向かって、もう一度願いを唱えた。
大丈夫。彼は、どこかで必ず生きている。必ず会える。自分にそう言い聞かせて、ゆっくりと右腕を下ろした。
「風邪を引くといけないから、そろそろ帰ろうか」
シュウはそう言って、ユカリに微笑みかけた。温かく、包み込むような笑顔。この笑顔が自分の支えになっていることを自覚しながら、ユカリは微笑を返して頷いた。
「うん。夕食、私の家で一緒にどう? 出かける前にシチューを作ったの。たくさん作りすぎちゃったから、是非食べてほしいんだけど」
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
オーロラ・ウォールに背を向け、歩き出す。集まっている人々のあいだを、小さく頭を下げながら通り抜ける。
この高台の公園がこれほど人で賑わうことなんて、この先二度とないだろう。
今は更地となった祖母の家の近くにあったこの公園は、およそ二ヶ月後に立ち入り禁止となる。敷地内にある元気象台の補修と改修工事が終わり、いよいよ観測塔として動き出すのだ。
それは同時に、この場所の、終焉までのカウントダウンが始まることを意味する。
公園のすぐ下に設けられた臨時駐車場に停めてあったシュウの車に乗り、ユカリはアパートへと戻った。
いつもの流れでポストを確認する。すると中に、薄汚れた封筒が入っていた。
「手紙?」
右手を伸ばしながら呟く。手紙なんて、滅多に受け取ることはない。一体誰からだろうか。裏返し、差出人を確認する。
長い時間旅をしてきたであろう、くたくたの封筒に書かれた黒い文字。インクの滲んだその文字を読んで、ユカリは言葉を失った。
「……ユカリさん?」
シュウが訝しげな目で、ぴくりとも動かないユカリの手元を覗き込んだ。
「まさか」
シュウはハッと息を呑むと、瞬時にユカリの手首を掴み、
「部屋に入ってから、落ち着いて中身を確認しよう」
そう言って階段を上った。手を引かれた状態で三階まで上り、自宅のドアの前までやってきて、ユカリはようやく意識を取り戻したような感覚がした。
鍵を開け、シュウを家の中へと招き入れる。すぐにストーブに火を点け、食器棚の引き出しからハサミを取り出し、ダイニングテーブルにつく。
向かいに座ったシュウが無言で頷いた。ユカリは、気持ちを落ち着かせるようにゆっくりと呼吸をして、封筒を開封した。
ユカリさんへ
すみません。
黙っていなくなったこと、今まで連絡をしなかったこと、心配をかけたことを謝ります。
本当に、すみません。
どうしても行かなければならない場所があって、町を出ました。その場所がどこなのか、今はまだ分かりません。だけどそこへ行けば、きっと父さんがいなくなった理由が分かるはずです。
だから俺は、絶対にそこへ行くと決めました。
この手紙がそちらに届く頃には、きっとその目的を果たしていると思います。目的を果たしたら、すぐに帰ります。
わがままばかり言って、すみません。
もう少しだけ心配をかけることを許してください。
サク
消印の日付は、絵はがきが風に飛ばされた日の七日後。
この手紙は、あの絵はがきへの返信なのだとユカリは思った。あの絵はがきは、風に乗って、ちゃんとサクの元へ届いていたのだ。
「そんなことって……」
あり得ない。とは、思わなかった。数秒先の未来が見えたという、カドの眼鏡。風に飛んでいった絵はがき。
ダンならば、そんな魔法のような奇跡を起こすことができるような気がしていた。
『どうか、信じる気持ちが届きますように』
最後に聞いた言葉が脳裏に蘇る。まるで魔法の呪文のように聞こえた。
「……ダン君……ありがとう……」
手紙を持つ手が震え出す。目の奥から熱い涙があふれ出た。
シュウがユカリの震える手を、包み込むように握った。
「きっと、ユカリさんが信じていたから、この手紙は届いたんだ。サクのことも、叔父さんのことも」
ユカリは泣きじゃくりながら、頷いた。
「……ありがとう、シュウ君。ありがとう……」
一旦流れ出した涙は、なかなか止まなかった。やっとのことで止まると、今度はお腹が「ぐぅー」と長い鳴き声をあげた。
ユカリは気恥ずかしさを隠すように立ち上がった。
「シ……シチュー、温めるね」
シュウはクスッと笑って「うん」と答えた。
ユカリは背後にあるコンロに火を点けた。焦げないようにお玉で鍋をかき混ぜながら、反対の手をそっと胸に当てる。
ぽっかりと開いた穴が、半分ほど塞がったような感覚がした。
ずっと信じていた。必ずまた会えると。今まで何度もその気持ちが揺らいだ。何度も、もう諦めた方がいいかもしれないと思った。
それでも気がつくとサクのことを考えていた。結局、信じ続けるしかなかった。
あと少し。もう少しだけ、信じ続けよう。本当に会える、その時まで。
「先輩、マジで行くんですか?」
真っ白な雪にストックを突き立て、スノーブーツを履いた足でしっかりと踏みしめながら、ユカリは背後の気だるそうな声に返答した。
「もちろん。予定より早く終わっちゃったし、やっぱりちょっと気になるから」
「……なんか先輩、いつもと雰囲気違いません?」
「どのへんが?」
「そのへんです。レスポンスがいつもよりコンマ五秒早い」
「すごい。そんな微妙な違いに気づけるなんて。成長したね、タヌキ君」
「タツキです。それ、全く面白くないですから。次言ったら、先輩のデスクに消しカスばら撒きますから。……ほら、さっさと終わらせて帰りますよ」
タツキはユカリを追い抜くと、前方にそびえ立つ山々に向かって進んでいった。
ユカリは山の向こうに目を向けた。そこに、昨夕見たオーロラ・ウォールの姿はない。神々しく輝く光の壁は、跡形もなく消え去っていた。
オーロラ・ウォールを見た翌日。ユカリは後輩のタツキとともに、朝一番で町の北の端にある集落へ向かった。
目的は、観測塔の移転および立ち入り禁止区域の変更についての知らせ、それから、最近周辺で変わったことがないかどうかの聞き取り調査だった。調査に関しては定期的に行っているが、入職一年目のタツキが同行するのは今回が初めてのことだった。
「先輩は何だと思います? オーロラ・ウォールに見えた黒い影って。僕はただの鳥だと思いますけどねー」
疲れたのか、タツキは歩くスピードを緩めてユカリに言った。
「その可能性は低いと思う。鳥たち生き物は、決してオーロラ・ウォールには近寄らない。それどころか、オーロラ・ウォール発生の直前に一斉に逃げるように飛んでいくから」
「鳥じゃないなら、何だって言うんですか?」
「さぁ。それを確かめに、私たちは今この場所を歩いているんでしょう?」
タツキは不服そうに眉をひそめ、ため息をついた。
「あのじいさん、確か三年前にも同じような黒い影を見たって言ってましたよね」
ユカリは返事をする代わりに、口から白い息を吐いた。
三年前、ユカリは今日と同じように、オーロラ・ウォールを見た翌日に聞き取り調査のため集落を訪れた。そこで今日と全く同じ話を聞いた。その数時間後、行方不明だったダンが、突然帰ってきて病院に運ばれたことを知った。
オーロラ・ウォールとダン。その時にも見えたという黒い影。これは偶然だろうか?
「……これ以上進んでも危険なだけですし、そろそろ引き返しませんか? 今から帰って報告書を書けば、定時にはあがれますよね?」
タツキは立ち止まって振り返ると、来た方角に向かってストックを突き立てた。これ以上進む意思はないというポーズ。
その背後に、ユカリは“何か”を見つけた。
雪をかぶっていない黒い土。横たわる黒い倒木。その倒木にもたれかかるようにして倒れている、“黒い人影”。
ユカリは急いで駆け寄った。近づいてはっきりと見るよりも先に、予感が頭を駆け巡った。
まだ少年の年頃の男性。頬に、赤紫色のあざがあった。氷のように冷たい身体を抱き起こし、ユカリは唇を震わせながら声をあげた。
「サク君!!」




