99話
「アサヒ!」
“サク”は息を切らしながら、会いたくて会いたくてたまらなかった少女の名を呼んだ。
呆然とした様子で立ち尽くしていたアサヒは、“サク”を見て驚いた顔をした。
「サク……?」
アサヒは何度もまばたきをして、左右に首を振り、最後に空を見上げた。
「これは、夢?」
「夢じゃないよ。だって僕は、夢の中で何度も君に会ったけど、そんな風に髪を編んでいるのは初めて見たんだから」
「わたし、またここへ来たくて……。夢の中なら来られるんじゃないかと思って、だから、髪を編んで、サクにもらったこの髪飾りをつけて眠ったの。そうしたら、いつの間にかここにいて……」
“サク”は喜びを噛みしめながら、早まる鼓動を無理に落ち着かせて言った。
「また会えて、本当に嬉しいよ」
アサヒはようやく混乱が解けた様子で、いつもと変わらない笑顔をみせた。
「わたしも嬉しい」
それから二人は星の瞬く空の下で話をした。アサヒが新しい町での出来事について語るのを、“サク”は以前と同じように、驚いたり不思議に思ったりしながら聞いた。
理解できない事柄について、詳しく説明を求めることはしなかった。“サク”はただ、アサヒの声を聞けるだけで嬉しかった。アサヒの声を聞いていると、心臓がふわふわと浮いているような感覚になった。
「それでね、町の端にある豪華なお屋敷に、すごく大きな女の人がいて――」
「こんばんは」
突然、頭上から低い声がして、“サク”の浮き上がった心臓は飛び出しそうになった。
話に夢中になるあまり、近づいてくる足音に気がつかなかった。
「初めまして、アサヒさん。私はこの子の父です」
アサヒはすぐに立ち上がって、頭を下げた。
「初めまして。こんな遅い時間にお邪魔して、すみません」
父は月明かりのせいか、いつにも増して青白い顔をしていた。“サク”は恐怖で体が固まり、手も足も口も動かすことができなかった。
父はアサヒに向かって、親しげに微笑んで言った。
「そろそろ帰らないと、ご家族が心配するかもしれないよ」
「はい。でも、どうやって帰ったらいいのか分からなくて。前はドアを使っていたんですけど……」
アサヒはそう言って、後ろを振り返った。“サク”の頭に「ドア?」と疑問が浮かんだ。
「なるほど。君と妻にしか見えないドアがそこにあったんだね。きっと必要がなくなったから、妻が処分したんだろう。どのみちそのドアでは新しい家には帰れまい」
アサヒは不安そうな表情を浮かべた。父はアサヒを安心させるように、優しい口調で言った。
「心配しなくていい。私が君を家まで送り届けてあげるから。……さぁ、こっちへおいで」
「はい!」
アサヒはほっとした様子で返事をすると、“サク”に向かって「またね」と告げた。“サク”は何一つ言葉を返すことができなかった。
ようやく体が動くようになった時には、月は再び雲に覆われて、あたりは静かな暗闇になっていた。
“サク”は父とアサヒの足跡を辿るように、家に向かって歩き出した。
母は絶対に、アサヒを家に入れなかった。時々外へ茶や菓子を持ってきてくれることはあったが、雨が降っても決して中へは入れなかった。
母は絶対に、アサヒのことは父には秘密だと言っていた。アサヒを家に入れなかったのも、万が一父がやってきた時のことを考えてのことだったのだろう。
それなのに、なぜ父はアサヒのことを知っていたのだろうか……。
胸騒ぎがする。何か、よくない予感がする。“サク”は急いで家に戻ると、勢いよくドアを開けた。
「お母さん!」
とにかく母に、どういうことなのか尋ねたかった。なぜ父がアサヒのことを知っているのか。この家の中に、アサヒの家と繋がる“ドア”があるのか?
しかし、返事はなかった。家じゅう隈なく捜したが、母はどこにもいなかった。もう随分前から、この家にはいなかったような気さえした。
残るは、あの“開けられないドア”だけだった。狭くて薄暗い廊下の先にあるドア。父がやってくる、あの恐ろしいドア。
父は母を連れ去った。そして、アサヒも.......。“サク”はそう確信した。
汗の滲んだ手で取っ手を掴み、力を込めて引く。が、びくともしない。
自分には開けられないと知っている。それでも――。
――この先に君がいるのなら、僕は必ずそこへ行く。
呼吸を止め、もう一度右手に力を込める。
瞬間、パリンッと何かが割れたような音がして、ドアは勢いよく開いた。
そこは見たことのない部屋だった。窓はなく、壁一面が灰色の石で覆われている。空気は重く、淀んでいる。
薄ぼんやりとした明かりの下で、“サク”は床の上に横たわっているアサヒを見つけた。
「寝ているの?」
呼びかけながら、そばへ寄る。
「起きて、アサヒ」
“サク”は名前を呼びながら、体を揺さぶった。しかし、何度呼んでも返事はなかった。
アサヒは壊れてしまった。家にあるわずかな“モノ”たちと同じように、壊れたままここに存在している。
壊れた“モノ”たちは、使えなければどこかへ消えてしまう。目を覚まさないアサヒはどうだろうか。消えてしまうのだろうか……。
――嫌だ嫌だ嫌だ。そんなのは嫌だ!
得体の知れない何かが、沸々と心の底から湧き上がるのを感じた。
壊れた“モノ”は決して「なおせ」ないのだと言われた。ならば、何なら「なおせ」るというのか。「なおす」とはどういうことか。
開けられないはずのドアは開いた。「なおせ」ないはずの“モノ”だって、きっと「なおせ」る。
「なおせなおせなおせなおせなおせなおせなおせ!!」
アサヒの右手を強く握ったまま、“サク”は声の限り叫んだ。すると、
「……ここ、どこ?」
アサヒはゆっくりと体を起こしながら、眠たげな声で呟いた。
「よかった……」
“サク”は安堵し、声にならない声を出しながら、アサヒの細い肩を抱きしめた。
こんな不安な思いは二度としたくない。
――どうか彼女が傷つかず、壊れず、永遠にこのままでありますように。
心の中で、強く、強く願った。
直後、“サク”は背中に冷たい気配を感じて振り返った。
なぜか意識が遠のいていく。ぼやけた視界の片隅に、揺れ動く銀色の円が映った。
「……この国は……崩壊する……私は……大きな過ちを犯した……」
父の声が聞こえた。いつもの冷たくて硬い、石のような声ではない。悔やみ、嘆く、感情の波打つ人間の声。
だが次の瞬間、それは強い意志のこもった声へと変わった。
「私とサクの魂を、この世界に留め、未来へ届けよ」
ラゴウは右手に握ったプテロ銀製の拳銃でサクの額を撃ち抜くと、すぐに自分の頭に向けて撃った。
アサヒは誰もいない部屋で、ぽつんと一人立ち尽くした。
「サク……?」
さっきまで一緒にいたはずの“サク”の姿も、家へ帰すと言って自分をここへ連れてきた“サク”の父親の姿も、どこにもない。
“サク”の父親が立っていたはずの場所に、見たことのない銀色の金属の塊が落ちていた。それが何であるか、アサヒには全く分からなかった。
「サク? どこにいるの?」
なぜ二人ともいないのだろう。さっきまでここにいたはずなのに……。
アサヒはだんだんと、これは夢なのではないかという気がしてきた。本当はもうとっくに家に帰っていて、ベッドの上で眠っているのではないか。ここから出れば、きっと夢から覚めるはず――。
あたりを見回す。この部屋には、出入口らしきドアが全く見当たらなかった。代わりに別の物――戸棚の扉がその役割を担っているのではないかと疑って、すぐそばにあったクローゼットの扉を開けようとした。が、鍵がかかっているのか、開かなかった。
扉でないのなら……。アサヒは奥にあった書棚の右端を押した。すると書棚は、重いドアのようにゆっくりと開いた。
窓もドアもない部屋の先にあったのは、またもや窓もドアもない部屋だった。四辺の壁全てに書棚が設けられ、黒っぽい書物がぎっしりと並んでいる。中央には一人掛けのソファがあり、そのすぐそばにあるテーブルの上でランプが寂しく光っている。
アサヒはさっきと同じように、奥の書棚を力を込めて押した。すると、再びドアのように書棚が開き、その先に狭くて暗い階段が現れた。アサヒは壁を伝いながら、踏み外さないようにゆっくりゆっくりとその階段を上った。
上った先に、ようやくドアがあった。重いドアを力を込めて押し開けると、さっきよりも広い部屋へ出た。窓から白い月明かりが差し込み、重厚感のある机と床に敷かれた絨毯を淡く照らしている。
背後でドアが閉まる音がした。アサヒは後ろを振り返ることなく、まっすぐ前へ足を踏み出した。そうして今度はこの部屋のドアを開けた。
暗い部屋を出ると、今度は一転して、夜とは思えないほど明るい廊下に出た。そのあまりに広い豪奢な廊下を、アサヒは不思議に思いながら進んだ。
片っ端からドアを開け、あらゆる部屋を覗いた。だが、どこにも誰もいなかった。誰もいない代わりに、見たことのない奇妙な物があちらこちらに存在していた。
これは本当に夢なのだろうか……。アサヒはだんだん不安になりながら、足を運んだ。
大きなガラス扉を開けて、バルコニーへ出た。視線の先には、気が遠くなるほど広大な庭園が広がっていた。だが、ここにも人の気配は全くなかった。
アサヒは不安な表情で空を見上げた。暗い空に、“サク”と見たのと同じ月と星があった。
少しだけ不安が和らいだその時、どこからか、大きな獣が毛を逆立てて咆哮しているような低い音が聞こえた。直後、地面が激しく揺れ始めた。
ゴトン、ガシャンと音がした。何かが床に落ちる音。何かが割れる音。一体何が起きているのだろう。早くこの悪夢から目覚めたい。早くここから抜け出したい。
アサヒは建物の中へ戻ると、壁を伝いながら、揺れる廊下を懸命に歩いた。上へ下へ。右へ左へ。不思議なことに、どれだけ歩いても足が疲れることはなかった。
目の前に、繊細な彫刻が施された、一際大きな扉があった。開けると、そこは巨大な部屋だった。天井は恐ろしいほど高く、夜明けの空のような色をしていた。
一歩足を踏み出す。その先に、白く細長い道がある。左右に張ってある水が波打っている。アサヒは、その橋のような道を一歩一歩進んだ。
目の前にそびえる大きな銀色の門扉が、きっとこの迷宮の出口であると思った。
アサヒは迷うことなく、その不思議な光を発する門を開いた。




