9話
岩壁に開いたトンネルを抜けて、広い空き地を見渡す。ここへ来るのは、バスを降りた日以来だった。
サクは体の向きを山脈の方へと変え、左腕にはめた時計を見た。針は前方を指し、ぴくりとも動かない。
時計は水平にした時のみ、行き先の方向を示しているようだった。肘を色んな角度に曲げてみたが、針が動くのは上から見た時だけだった。
「どうしたの? 早く行こうよっ」
アサヒが振り向いて言った。
淡い水色の長袖シャツに濃紺のジーンズ。風呂あがりと同じ三つ編みに、日よけの帽子。かごを背負い、手にはもう軍手をはめている。
一方サクは、普段とあまり変わらない格好をしていた。
オレンジ色のボーダーTシャツに黒のズボン。持ち物は特にない。ミヨさんに渡された軍手と、少しの硬貨をポケットに入れてきただけ。
サクはアサヒに歩み寄った。
「今さらだけど、目的地……実はすぐ近くってこともあるんじゃないかと思ってさ。山の中でも、向こうでもなく」
「う〜ん。その可能性は低いと思うけど……。だって、畑以外何も見当たらないよ?」
「それはそうだけど。時計の針が単に方角を示しているとして、向かった先には必ず何かあるはずだ。だけど、現時点でそれが何かは分からないだろ?」
「つまり、畑しかないように見えるこの景色の中に、何かあるかもしれないってこと?」
アサヒの言葉に、サクは前方の畑、畑、畑をしばらく眺めた。
「……とにかく。先入観を持たず、自分たちの足で安全に行けるところまでは行って確かめよう。飛行船が来るまでまだ半月以上あるんだし」
アサヒは軍手をはめた手をパンパン叩いた。
「わかった。山菜採りのついでに確かめてみよっ」
「ついでかよ」
アサヒが軽快に歩き出す。サクは時々時計を確認しながら、岩壁沿いの道をゆっくりと歩いた。
途中、アサヒは背中のかごからナイフを出して、道端の草を刈り取っていた。それが何の草なのか、サクには分からなかった。
離れた場所からだと堅固な壁のように見えた山々も、近づきすぎるとただの樹林でしかなかった。
その樹林へ足を踏み入れる前、サクは立ち止まって腕時計を見た。
アサヒもぴたりと足を止め、思い出したように振り返って言った。
「どう? 針の動きは」
「変わりない。ひとまず、山より手前でないことは確認できた」
「やっぱりね。だって、誰ともすれ違わなかったし」
――誰とも?
サクは心の中で、首を傾げた。
そういえば、バスを降りた時にも「会いたい人がいる」と言っていた。彼女は針が指し示す方へ行けば、その人に会えると思っているらしい。
誰に会いたいというのか。そもそも針が示す方に、誰か人がいるのか?
ここへ来てから、針はずっと山脈の方を指している。もし人だとしたら、近くではないだろう。人なら移動する。近くにいるのなら、人の移動に合わせて針は動くはずだ。
いや、待て。さっき“先入観を持たず”と自分で言ったばかりだ。それに、針が示す方に何があるかは、彼女も知らないと言っていた。
……今後、彼女の言動はなるべく無視しよう。
そう誓って、サクは樹林の中へと足を踏み入れた。
アサヒが一人、山の中を進んでいく。サクはその背中に呼びかけた。
「あまり奥に入るなよ。ミヨさんも、入口近くで見つけられるものだけでいいって言ってたし」
「わかってる。サクもちゃんと探してよ」
「……探してと言われても。どれを採ればいいのか、さっぱりわからないんだけど」
アサヒが手に持ったナイフを光らせながら、振り返って言った。
「昨日食べたでしょ? 五種類。あれと同じものを採ればいいんだよっ」
「調理済みの山菜を食べて、原材料を探して持ってこいと? なんだよそのゲーム」
サクはそう言ってから、あっと思った。ミヨさんのほほほという笑い声が聞こえた気がした。
なるほど。また遊ばれているわけか……。
仕方なく、昨晩の食卓を思い浮かべる。頭の中で、出汁に浸されたしなしなの山菜五種がルーレットのように回り始めた時。ふと思い出して呟いた。
「そういや、昨日。なぜか目の前におひたしの皿が二つあったんだけど」
アサヒはギクッという顔をした。
「……だって、ちょっと苦かったんだもん。――でも、サクは山菜好きでしょ?」
「別に、好きでも嫌いでもないけど。目の前にあったから食べただけ」
「ふぅん」
アサヒは呟くと、背中を向けた。全く疲れた様子も見せず、ぐんぐん進んでいく。
サクは軍手をはめて、あたりを見回しながらゆっくりと足を運んだ。
なんでこんなことをしているのか、と思った。
ミヨさんの家の居間の壁に、カレンダーがかけられていた。それを見て、自分が十五になったばかりだということを知った。本来なら、あと一年学校へ通わなくてはいけない年齢だ。
誰にも告げずに町を出て、年齢を詐称して……このままではただの家出少年だ。
早く先へ進みたい。
今すぐできることは何もないというのに、焦燥感がこみ上げる。
「サク。ちょっと来て」
前方から、ささやくような声が聞こえた。サクはその呼びかけに応じて、山を登った。
「見てみて。鹿がいっぱいいるよ」
木のあいだから覗き見る。数匹の鹿が、渓流で水を飲んでいた。
「本当だ。本物の鹿、初めて生で見た」
「あの川、魚いるかな?」
「さぁ?」
「今度、釣り道具持ってこようよっ。納屋にあったでしょ?」
サクは冷ややかな目でアサヒを見た。
――のんきだな。人の気も知らないで。
そう、心の中で毒づいた。
山菜を採り終え、帰路についた頃には、陽が沈みかけていた。
「すごく時間を無駄にした気がする……」
サクはぼそっと呟いた。
「どうして? こんなにたくさん採れたのに」
そう言って、アサヒは上半身を横に振った。背中のかごには謎の草が詰め込まれていた。
その中に、食べられるものは果たしていくつあるだろうか。
「次は魚を釣りに行こうよっ」
「いいよ、俺は。納屋で修理してるから。新しく持ち込まれた物もあるし」
「えー。せっかくなんだから、もっと色々なことをしようよ!」
「どうせ飛行船を待つ間の暇つぶしだろ? 一人一人が好きなことすればいいよ。釣りに行きたいならお好きにどうぞ」
アサヒは頬を膨らませた。
「もっとお外で遊びなさいって、ダン先生に言われなかった?」
「言われてない。だいたい、なんだよ。もっとお外で遊びなさいって。小さい子に言うような台詞だな」
「遊びなさいとは言ってないけど、色々な場所に行って、色々な物を見て、色々なことをするといいって言ってたよ」
あぁ。そんなことなら昔、言っていたな。旅行とか、そういうものに興味がなくて無視し続けてたら、すっかり言われなくなったけど――。
サクは幼い頃の記憶を頭の奥から引っ張り出した。
そういえば、そんな父の言葉に祖母はなぜかため息をついて、
「あなた、仕事があるでしょ? サクは学校があるし。昔みたいに放浪するのはやめなさいよ」と言っていた。
その数年後、父は行方知れずになったわけだが。
昔みたいにということは、それ以前にも父は家を出てどこかへ行っていたのか。
当時は「放浪」という言葉が分からず、興味もなくて、祖母に詳しい話を聞かなかった。父本人の口からも聞いたことがない。父の葬儀でも、そんな話は聞かなかった。
「サク?」
名前を呼ばれて、ふっと我に返る。無意識に小石を蹴って言った。
「とにかく俺は、修理だけでいい」
「職人気質の頑固者」
「唯一の特技だけが俺の存在意義なんで」
「……なんかサクって、先生とあまり似てないね。先生は不器用だったけど、サクはすごく手先が器用だし。性格も……真逆?」
わざと言っているのか? 内面的なことばかり挙げるなんて。
ちょうどその時、バスの待合小屋に差し掛かった。
――喉が渇いた。
サクは小屋の中に入った。赤い自動販売機に直行し、ポケットから硬貨を一枚出して投入する。
適当に“缶”のボタンを選んで、押した。
「外見を見れば分かるだろ? 父さんは赤毛で長身で、俺と全く似てない。血が繋がってないんだよ」
出てきた缶を拾い上げる。ごく普通のグレープフルーツジュースだった。
「ふぅん。そうなんだ」
背後から聞こえた声は、特に驚いた様子もなく落ち着いていた。
サクはその場で一気にジュースを飲み干してから、振り返って訊いた。
「何か飲む?」
「ううん、いい。お金がもったいないから。暗くなる前に帰ろ?」
アサヒはそう言うと、静かに小屋の外へ出ていった。




