(一)
「昔、男ありけ、り。女のえ得 まじか、りけるを、年を経て、よばひ、わたりけるを、からうし、て、盗み出でて、いと、暗きに、来けり」
たどたどしい、ヨタヨタとしたおぼつかない読み方。
立ち上がって教科書を読む、不安100%の健太の声が、教室に響く。
二限目、古典の授業。有名な『伊勢物語』の一節。
誰もが教科書に目を落とし、集中して聽いてるんだけど。
(デデテってなんだよ)
頬杖をついて、笑いそうになる頬を押さえる。
「盗み出でて」が、まるで巨大なハンマーを振り回す、ペンギンもどき大王みたいになってしまってる。
「え得まじかりける」も、「ええ! マジか!」みたいな区切れ方だし。
「行き先多く、夜もふけに、ければ、鬼、ある所とも、知らで――」
こういうとき、唇を噛んだ人の心理は二つある。
①眠い。あくびを噛み殺した。
②オモロ。笑いそうになるのをグッとこらえた。
その二つぐらい、かな?
そう思ってたんだけど。
③ぐぬぬぬぬぬ……。
三つ目の噛む理由、「怒りを抑えるために噛む」があった。
斜め後ろの席の榊さん。振り向いてみると、教科書を持つ手がブルブル震え、怒り(呪い?)の視線を、そのすぐ前に立つ健太にぶつけてる。(ように見えた) 「ちょっと! 私に読ませなさいよ!」って感じなんだろう。実際、榊さんなら、ここにいる誰より上手くスラスラと読めるだろうし。
中間テスト、古典満点だった彼女にしてみれば、健太の音読は歯がゆくて仕方ないに違いない。
「あばらなる、蔵に、女をば、奥におし入れて、男、弓、こ、ここっ……、こっ」
「――胡簶を負いて」
「や、やなぐいをおいて! とと、戸口にを、り!」
かすれた低い榊さんの声に、殺気を感じ取ったのか。音読を続ける健太の背筋が、シャキンと伸びた。
「白玉かな、にぞと人の、問ひし、時露、とこたへて、消えにゃなしのもを!」
ラストが近づき、声高に、そして早口になった健太。
(「消えにゃなしのもを」ってなんだよ。「消えなましものを」だろうが。噛んでるし)
最後の最後まで、笑いを忘れない健太の音読。
「はい、よく頑張ったね」
軽く咳払いして、教科書を片手に立ち上がった日下先生。咳払い? 先生も笑いをこらえてたのか。
「頑張ってたところを申し訳ないんだけど。川嶋くん、次の授業でもう一回読んでくれるかな」
つまり。
宿題にするから、ちゃんと音読できるように家で練習してこい。
「――はい」
ショボンと椅子に座り直す健太。
自分じゃ最高に頑張ったのに。努力を認められないのは、まさしく、「足摺をして泣けども、かひなし」。ショボン。物語の男と同じ。
「じゃあ、この続きを、そうだな。榊さん、読んでくれるかな」
「はい」
先生の指名に、うれしそうに、でも椅子の音をたてずに榊さんが立つ。「待ってました!」って感じなのかな。大好きな先生からのご指名だし。
「――これは、二条の后のいとこの女御の御もとに、仕えまつるやうにてゐたまへりけるを……」
さすが榊さん。
健太のように、ヘンな区切りもなく、淀むことなくスラスラと読む。「やうに」は「ように」、「ゐ」が読めない……なんてことも、当然ない。
声も高すぎず、低すぎず。聴いてて、気持ちのいい音読。
(先生の前で読むのって。どんな気持ちなんだろうな)
僕たちの前で、この日下先生を「推し!」と言い切った榊さん。
推しへの「好き」は、恋愛の「好き」とは違うって説明してたけど。
(でも、「好き」って気持ちは同じだよな?)
恋愛に発展させて、自分だけの相手でいて欲しい。「尊く」、遠くから拝み続けるだけで満足。
どっちにしたって、振り向いてもらえたら、「きゃあ♡」って感情は生まれると思うし。違うとしたら、そこで一歩前に出るのが「恋の好き」で、両手を合わせて拝んじゃうのが「推しの好き」なんだと思う。――多分。見解違いかもしれないけど。
「――それをかく鬼とは言ふなりけり。またいと若うて、后のただおはしける時とや」
「はい。さすがですね榊さん。素晴らしいです」
今度は咳払いもせずに、生徒を褒めた日下先生。
今の榊さん、どんな顔してるんだろう。確かめたいけど、先生の視線がこっち向いてるから、ちょっと無理。
「じゃあ、この段の訳を……そうだな、大里くん。お願いできるかな?」
「はい」
振り向きかけたことで目をつけられたのか。それともただ単に気分で当てられたのか。
わからないまま、予習してきたノートの現代語訳を読む。
「――昔、男がいました。手に入れることの難しい身分の女で、何年も求婚し続けて叶わなかったその女を、やっとの思いで盗み出して、たいそう暗い夜に抜け出してきました」
『伊勢物語』、芥河。
身分違いの女に恋した男が、暗い夜に女を盗み出し、芥河まで逃げる話。途中に見た、葉の上の露を「あれはなに?」と尋ねる女に、逃げることに必死な男は答えるだけの余裕がなかった。そして、女をあばら家に隠して、戸口で女を守るんだけど、結局女は鬼に喰われてしまった。
作中、「鬼」と呼ばれてるのは、その女、後の天皇の后になる姫の兄たち。妹を入内させて栄華を極めようと思っていたのに、男に攫われてたまるか。そんな恋を引き裂く兄の存在を、「鬼」と表現した。
(どんな気持ちなんだろうな)
盗み出して、逃避行するほど恋する相手を、無理やり奪い返されるなんて。
この男は、在原業平。平安時代のイケメンで、こののちも恋仲だった姫、高子姫とは何度も宮中で顔を合わすらしい。マンガで読んだ。
他の男(天皇)の后になった恋人と、どんな顔して会えばいいのか。僕にはわからない。
けど、この時の奪われた悲しみ、慟哭はわかる気がする。恋が暴力的に、残酷に引き裂かれる悲しみは、恋をしたことない僕にでも、痛切に伝わってくる。
――人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまえ。
まさしく、その言葉通りの心境。そして。
――死が二人を分かつまで。
死だって二人の恋を分かつことはできないと信じたい。
「はい。なかなかいい訳ですね」
最後まで訳を読み上げた僕を、先生が褒める。
「ちょっと現代語訳しすぎてる感じもしますが。わかりやすくていいですね」
しまった。
ちょっと(業平の恋に)感情込めすぎた訳になっちゃってたか。
なんか気恥ずかしい。