(五)
雨が激しく窓に叩きつけられる。
昼間だというのに、目の前の手すら判別できないほど暗い空。
梅雨明け前の大雨。梅雨前線の最後の悪あがき。
その雨のなか、何をするでもなく、布団に横たわる。学校も休んだ。
(どんな顔して山野に会えばいいんだよ)
あんな情けないフラれ方して。
山野は、「おはよう大里くん」って挨拶してくれるだろうけど、僕には、同じように笑って返すだけの根性がない。
(どうせ、たいした授業もないし)
このまま夏休みまでズルズル休んだって問題ないだろう。
今はとにかく、なにもしたくない。なにも考えたくない。
(雨、もっと降れ)
このぐちゃぐちゃな感情も、情けない僕も。フラれ砕けた恋も。なにもかも押し流してくれ。この世界をきれいサッパリ洗い流すだけの、雨よ降れ。
そしたら、彼女の言う通り、元の仲良い友だちに戻れるだろうから。
「陽。入るぞ」
掛け声と同時に廊下と部屋を仕切るふすまが、パアンとけたたましく開く。
「なんだ、健太か」
てっきりじいちゃんかと思ったのに。
「お前、学校はどうした」
布団の上、仰向けのまま見上げた視界。
全身ずぶ濡れの健太が逆さまに映る。
「学校は、この雨で休校だ」
「そっか」
そんなに降ってたのか、雨。僕にはまだ足りないけど。
「それより、お前、どうしてこんなとこおるんや」
間抜けな健太の質問。
僕の部屋に僕がいたって、おかしくないだろ。
「てっきり、お前は未瑛のとこ、おるんやと思っとったのに」
(未瑛のとこ?)
今は聞きたくない名前に、砕けたはずの心がズキンと痛んだ。
「なんで僕が彼女といっしょにいなきゃいけないんだ?」
アオハル計画の、カレシ(仮)だからか?
「ああ、そうだ、健太。あの計画だけどな。僕と彼女は降りさせてもらうよ」
「――なに?」
「フラれたんだよ、僕は。告白したけど、これからは仲良い友だちでいようってさ」
ハハッ。
笑ったつもりだったけど、出たのは、かすれた息だけだった。
「だから。だから、今は少しほっといてもらえないか。絶賛傷心中なんだよ」
健太が上手くいきそうなこと。逢生も上手くいきそうなこと。
それを見るのも辛い。
(あの時と同じだ)
――お兄さんはできたのに。
――それに比べて弟は。
兄さんは有名私立に合格して、今も一流企業に勤めてる。受験に失敗して、進んだ公立中でイジメられて。逃げるように仁木島に来た僕とは違う。
僕は、いつだって失敗する。他の誰かはデキることを、僕だけは失敗してしまうんだ。
「――陽」
低い声。力を失くし、横たわってた僕の胸ぐらを掴んだ健太。
ドゴッ。
自分の頬から異音がした。
殴られた。
そのことに気づいたのは、口腔に鉄気臭い味がしたから。口の中を切ったらしい。
「痛いな」
「うっせえっ! お前っ、今、未瑛がどうなってるのか、知らねえのかっ!?」
どうなってるのか?
学校に行ったんじゃないのか? 失恋した僕と違って、いつものように学校に。
「未瑛はなあっ! 今、生きるか死ぬかの瀬戸際なんだよ!」
「なんだってっ!?」
殴られたことより、そのセリフが深く胸を貫き押し潰した。
*
――未瑛が、身体が弱いってこと、知ってるだろ。
怒りの嵐が収まって、健太が話した。
――アイツ、赤ちゃんの頃から何度も、あっちこっち手術をくり返しててさ。それでも、思春期までしか生きられないだろうって言われてたんだ。
中学で越してきた僕の知らない情報。
体育に参加できない、激しい運動は控えてる。
それぐらいのことしか、僕は知らなかった。
――アイツの心臓、もう限界なんだよ。このひと夏、越えるられっかどうかの瀬戸際なんだ。今までに、何度も倒れてる。移植を待つしか方法がないんだ。
そんなの知らない。
知りたくない。
頭が情報を拒絶する。
――オレ、だからあの計画を立てたんだ。最後になるかもしれねえ未瑛の夏を、最高の夏にしてやりたかったから。
そうだったのか。
あの計画は、山野のためのものだったのか。
でも、それならどうして僕にそのことを教えてくれなかった? あの計画が山野のためのものだって知ってたら、僕は――
――未瑛がイヤがったんだよ。陽、お前にだけは自分の身体のこと、絶対知られたくねえって。
どうして僕だけ?
――お前のことやからさ、未瑛がそういう状態やって知ったら、絶対気ぃ使うやろ? 大事にして、大事にして、ヘンに気ぃ使こて。未瑛は、そういうのがイヤやったんや。普通の女の子として見て欲しい。普通の女の子として、お前とニセモノでもええから恋愛を楽しみたかったんや。
普通の女の子として。
確かに健太の言う通り、僕が山野の状況を知っていたら、山野を繊細なガラス細工かなにかのように扱ってしまう。優しく、哀れむような真綿でくるんで、大事にしてしまう。
壊さないように。壊れないように。そっと、そっと包み続けてしまう。
でもそれは、本当の意味で大事にしているんじゃない。包むだけで、なに一つ山野を見ていない。山野が欲しがってる感情を見せてるわけじゃない。
――今、未瑛は、かなり危ない状態なんや。兄貴から聞いたんやけどさ。時折意識がなくなるんやて。この間の日曜も、かなりヤバかったらしい。
泣きそうな。歯を食いしばった健太の声。
(日曜?)
それって、山野が僕に会いに来た日だ。
仁木島から山野が入院したという大学病院は、ものすごく遠い。この間の競技場どころの距離じゃない。
その距離を、意識を失うほどの山野が来られるはずがない。海辺を歩けるはずがない。
だとしたら。
「ゴメン、健太。ありがとな」
自分の意志で、立ち上がる。
「僕、ちょっと病院まで行ってくる」
山野が、会いに来てくれたのだから。今度は僕が会いに行く。
――おっしゃ! その言葉、待っとったで!
素早くスマホを取り出した健太。
――待ってな! 俺が、恋する少年一丁、お届けしたるわ!
軽トラ宅配便、再び! とスマホの向こうからふざけた返事は航太さん。
すぐに、雨のなか、僕の家まで来てくれた。
――行ってこい、陽!
健太に励まし、見送られる。
――未瑛泣かしたら、承知せえへんぞ。
明るい言葉なのに。雨に濡れてこっちを見上げる健太は、泣いてるようにも見えた。
* * * *
「大丈夫や。ちゃあんと未瑛ちゃんのもとに届けたる」
「ありがとうございます」
激しく動くワイパー。拭いても拭いても、雫がガラスに滝を作る。
屋根を叩く雨の音。タイヤが弾く水と土の音。
木々に囲まれ曲がりくねった道を行く白の軽トラ。
そのガタゴトと揺れる助手席に座り、前だけを見る。時折、木の根が作ったアスファルトのうねりに、車体が大きくバウンドする。
(山野の心臓が限界? この夏を越えられるかどうか?)
そんなの知らない。
だって山野は、あんなに元気に学校に来てたじゃないか。
学校に来て、みんなでいっしょに笑って、楽しんで。
休みの日には、スケッチに出かけて、応援に出かけて。
そんな余命、全然感じなかった。
いつも笑って、いつも明るくて。
誰にだって優しくて、控えめで。少し繊細で。絵を描くのが大好きで。
僕がおにぎりを「美味しい」と言えば、緊張からへニャッと崩れてゆるく笑って。いっしょにパキコ食べて、美味しいねって笑い合って。
それから、それから――。
「大丈夫や」
隣から、伸びてきた手が、僕の手を止める。
「未瑛ちゃんは、大丈夫や」
だから、そんなに爪を噛むな。
軽トラに乗り込んでからずっと噛んでいた爪。ボロボロになって、ズキズキ痛む指先。その痛みが、これは現実、夢じゃないと通告してくる。
(山野……)
雨にうなだれた木の枝が限界を超え、ザアっと音を立てて、たまった雫を軽トラに撒き散らした。