(四)
――は~る~くん。
誰かが呼びかけてる。
――は~る~くん。
少し鼻にかかったような、ちょっぴり甘い声。
「山野っ!?」
飛び起きたことで、自分がさっきまで寝ていたことに気づく。
見れば、あたりは真っ暗。いつのまにか日が落ち、夜になっていたらしい。
山野のことを考えて、眠れなくって布団に転がって。
――は~る~くん。
そうだ。山野だ。
あの時と同じように、僕を呼んでる。
あわてて階段を駆け下りる。
いつから寝てたんだろう。真っ暗に静まり返った診療所の待合室を抜けて、玄関を飛び出す。
「やっと出てきた」
「山野……」
驚く僕の前で、山野がニッコリ笑う。
「ねえ、ちょっと海まで歩かない?」
海? なんで海?
思ったけど、口から出たのは「うん」って肯定の言葉だけ。
歩き出した山野と並んで、坂を下り始める。
――なんで急に学校来なくなったんだ?
――今までなにしてたんだ?
訊きたいことはいっぱいあるのに、なぜか頭がポーッとして言い出せない。それよりも……。
「何見てるの?」
「あ、いや、なんでもない。ゴメン」
隣に並ぶ山野。淡いクリーム色のワンピースに、珍しく両サイドの髪を編み込んでる。あの花火大会の時と同じ格好。
(カワイイ)
「好き」と自覚したせいだろうか。その歩くたびに揺れるスカートの裾とか、服の上からでもわかる薄い肩とか。編み込んだせいで見えた小さな耳とか。
目に映る全てを、カワイイと称賛したくなった。
山野は、ホントにかわいく、そして誰よりも愛おしい。
「うわあ。さすがにここに来ると、迫力が違うねえ」
堤防を越え、海に面した砂浜を歩く。
見上げれば、満天の星。海も空と同じく黒く沈んだ色をしてるけど、海と空を見間違えないのは、海には星がきらめいてないから。
押し寄せる波の音が少し怖くも感じるけど、それを打ち消すだけの感動を空が与えてくれる。
「夜の海って来たことないから。なんかちょっと新鮮」
うれしそうに、かすかな光を頼りに、サンダルを脱いで波打ち際を歩く山野。
波と砂の間。濡れた砂の上、時折訪れる強い波に、きゃあっと声をあげて退く。
「こっちにおいでよ」
言われ、僕もサンダルを脱ぎ捨てズボンの裾をめくる。
「うわっ!」
山野ほど機敏に動けなかった僕。海に近づくなり、さっそく足に波の洗礼を受けてしまった。
「アハハッ」
足を濡らした僕を山野が笑う。
濡れた砂の上、踏み込む時はかかとが深く沈み、踏み出すときにはつま先が砂にのめりこむ。そうしてできたいびつな足跡は、次の波にもろく崩される。
空には天の川。そのモヤッとした川を今日も渡る彦星。
――天の川 浅瀬しら波 たどりつつ 渡りはてねば 明けぞしにける
(天の川の浅瀬を知らないので、白波をたどりながら渡りきれないでいると、夜があけてしまった)
不意にそんな歌を思い出した。たしか『古今和歌集』。
川が渡れなくて、織姫のところに行けなかった。残念、残念。
(なにやってんだよ、彦星)
そこまで天の川に入ってるのなら。そんなに濡るほど溺れてるのなら。渡りきって織姫のところに行ってしまえよ。
いや。
スー。ハー。
大きく深呼吸をする。そして。
「――山野」
意を決し、波にはしゃぐ山野に声をかけた。
「僕、キミのことが好きだ」
言った。言い切った。
情けない彦星じゃない。僕はちゃんと想いを伝えた。
「……大里くん」
山野がはしゃぐのをやめて、驚いた顔でこっちを見てくる。
その視線を踏ん張って受け止めるけど。ダメだ。頭の奥がガンガンしてくる。足は波で何度も濡る。
心臓がどうにかなってしまいそうなほど、早鐘を打つ。
山野の返答を待つ。ああ、でも、こんなときでも山野はカワイイ。
「ありがとう」
驚きからゆっくりと笑顔に変わっていった山野の表情。彼女もまた、波に足を濡らしてそこに立つ。
「その気持ち、すごくうれしい。――でも」
目を潤ませ、ギュッと手を握り俯いた。「でも」ってなんだ?
「お試しカップル、解消しよう?」
「え?」
「あのね。気持ちはうれしいの。だけど……」
続いた言葉。遠く異国の言葉のように、染み込んでこない。
「ごめんね。わたし、勘違いさせちゃったね。近づきすぎちゃったから、大里くんに、わたしが好きって思わせちゃった」
「山……っ!」
「今度学校行ったら、健太くんに計画を見直してもらうように伝えるよ。これ以上勘違いが進行しないように。大里くんが間違えないように。計画リセット! 計画終わり!」
明るく、とっても明るく拒絶する山野。
「わたしたちは、ただの家が近所なだけの同級生! これからも、仲の良い友だちでいようね、大里くん!」
山野は僕を「陽」とは呼ばない。中学の時のように気安く「陽」とは。
大里くん。
その呼び方が、山野と僕の間に、そそり立つ壁のように立ちはだかる。
「じゃあね。わたし、先に帰るね」
山野が、海から離れ歩き出す。
「またね」
ふり返った笑顔。
ずっと見たかった山野の笑顔なのに。
ザザンと足に打ちつける波。
その波は鉛のように重く、追いかけたい僕の足を海に縫い留める。
(ハハッ。玉砕……かあ)
アオハルオーバードーズ計画。三組のカップルのうち、僕と山野だけが失敗。
人生初めての告白。そして人生初めての玉砕。
(……カッコ悪)
急ぎすぎるから、こうやって失敗するんだ。バカめ。
彦星のように川を渡らず、想いを伝えに行かなかったら。そうしたら、「お友だち以上」ぐらいの立場で、「ワンチャンあるかも」って夢を見いてられたのに。
空を見上げ、まばたきをくり返す。けれど涙が流れ落ちる。
このまま海に沈んでしまいたいぐらい情けない僕の、カッコ悪い涙。