(三)
僕と山野が入った傘が、雨を受けてパタパタと音を鳴らす。
オジさんが話し終えて、店の中に戻っても、山野は立ち上がることができず、しばらくベンチに座り続けていた。
今もこうしてどうにか歩き始めたけど、それでもずっと俯いたままで、傘をさすだけの力もないのか、黙って僕の傘に収まり続けている。足取りもとても重い。
(そこまで衝撃を受けてるのかな)
そりゃあ、僕だって悲しいのは悲しい。
この仁木島に来て、初めての親しい人との別れだ。悲しくないわけない。
美浜屋のお婆さんは、じいちゃんのつかいや、学校帰りの寄り道で訪れた僕を、「先生のとこの坊っちゃん」「陽くん」と、親しみを込めて呼んでくれた。どのお菓子を買おうか。おつかいにきたものの、どれを買ったらいいのか困ってた僕に、優しく接してくれた。店から家のなかへの上がり口。そこにいつも座って、店を見ていた。いや。
(あれは海を見ていたんだ)
オジさんの話を聞いてそう思う。
美浜屋のお婆さん、和子さんは、あそこに座って、店を抜け、その先にある海を見ていた。店の前の海。それは恋人の誠治さんが亡くなった海と繋がっている。
誠治さんが帰ってくるかも。誠治さんが迎えに来るかも。
どっちの思いで海を見続けていたのか。誠治さんと誠治さんの家族を奪った海を、憎らしく思わなかったのか。
いつもニコニコと穏やかに笑って、座り続けていた和子さん。長く、長く。ずっとそこで待っていた。こしかけた框の木材が、削り削られ丸く黒く艶が出るまで。
「――お婆ちゃん、今、幸せなのかな」
ポツリと山野が呟いた。
「オジさんの言う通り、ようやく誠治さんが迎えに来て。お婆ちゃん、幸せなのかな」
涙は収まったようだけど、でも、ちょっとのことでまた泣き出しそうな鼻声。
「そうだな。幸せなんだと思うよ。いや、幸せなんだと思いたい」
慎重に言葉を選ぶ。
「本当に誠治さんが迎えに来たのかどうかなんて、それはお婆さんにしかわからないけどさ。でも、そうだったらいいな、そうであって欲しいとは思うよ」
言いながら、結婚式で略奪される花嫁ってのを思い出した。
いつだったかの古いアメリカ映画。
ヒロインが結婚しようとしてる教会に、バアンと扉を開け、彼女のもとに駆けつけたヒーロー。その姿に、彼女は彼の手を取り、教会を飛び出す。ウェディングドレスのままで。
和子さんと誠治さんは、そのウェディングドレスのヒロインと、駆けつけたヒーローのように思えた。「生きる」という結婚相手。そこに、迎えに来た誠治さん。和子さんは、生きることを捨てて、誠治さんの手を取った。映画のヒロインのように。周囲の参列客は、驚き非難するが、恋する二人には聞こえない。扉の先、そこに幸せがあるのかどうかは、参列客側の僕たちにはわからない。けど、駆け出した先に幸せがあると祈りたい。
「今頃は、誠治さんと離れてた八十年の、長いいろんな出来事を、和子さんがたくさんのお土産話をしてるよ、きっと」
辛いこと。苦しいこと。悲しいこと。
幸せなこと。うれしいこと。楽しいこと。
全部全部、いろんなことをいっぱい話す若い和子さんと、目を細めてウンウンと頷いて聴いてる誠治さんの姿が思い浮かぶ。いっぱい話していっぱい聴いて。それが終わったら二人の祝言だ。紋付袴に白無垢角隠し。現世でできなかった三々九度を酌み交わす。
「そう……かな」
「うん。そうだよきっと」
そうであって欲しいという、願望かもしれないけど。
そうあることで、オジさんのように笑って送り出すことはできなくても、少しは山野の心が軽くなればいい。
「大里くん。――ちょっとだけゴメン」
立ち止まった山野が、僕の方に向き直る。そして。
「――幸せに」
僕の胸に顔を押しつけ、静かに泣いた。
* * * *
この仁木島に葬儀場はない。
だから、お婆さんの葬儀は、遠く隣の市で執り行われた。
それでなくても、お葬式の日は平日。親しい人は最後の別れに参列しに行ったらしいけど、学校で授業のあった僕たちは、休み時間に窓辺から、空に向かって冥福を祈るぐらいの見送りしかできなかった。
「美浜屋のバアやん、逝っちまったな」
窓に肘をつきながら、健太が言った。
「そうだね」
今日は夏至。だけど朝からの曇り空で、今年で一番長い日照を見ることができない。
「オレさぁ、あそこのバアやんには、いろいろよくしてもらったんやよなあ」
「うん」
「まあちょっと厳しいとこもあってさ。小学校に上がったら、自分で買えるかどうか計算しなはれって言われてさぁ」
「あ、それボクも。『これ買える?』って訊いたら、『自分で計算しなはれ。なんのために学校通っとるんや』って。ボクの場合、明音と公佳の分も計算させられた」
逢生も混じる。
僕は経験ないけど、二人はそういう思い出もあるんだ。
「懐かしいよな」
「うん」
二人だけの感慨。
「でもさ。その誠治さんが迎えに来た? っての。なんかええな」
健太が言った。
「そう?」
「ああ、そう思う。ちょっとロマンチック過ぎる気もするけど。でも誠治さんが迎えに来て、バアやんがついてったのなら。悲しいけど、幸せになって送り出せる気がする」
「そっか」
「ああ、そうや。別れることは寂しいけど、『お前ら幸せになれよ』って言いたくなる。なんていうのか、娘を嫁に送り出す父親の心境?」
「なんじゃそりゃ」
でも、それに近い心境はわかる。幸せになってくれるなら。「アイツら、今頃幸せにやってるんだろうな」って想像することで、別れる辛さも幾分紛れる。
「さて。陽。今日も放課後頼むで」
「今日もやるのか、勉強」
「当たり前やろ。ここで腑抜けて勉強せえへんかったら、バアやんに叱られるって。『ケンちゃん、勉強もせんとフラフラ遊んどったらあかんで』ってさ」
「なるほど」
おどけた健太に、どういう顔したらいいのかわからなかったので、微妙に笑いそこねた顔になってしまった。