(二)
「――お婆さん、キレイだったね」
「うん」
「眠ってるみたいだった」
「うん」
「幸せそうに笑ってた」
「――うん」
美浜屋の前にある青いベンチ。そこに並んで腰掛けた山野。買ってあげた麦茶のペットボトルをギュッと握りしめ、ずっと俯いてる。
――最後に会わせてもらえませんか?
山野がお願いして、対面したお婆さん。
じいちゃんから聞いてた通り、ずっと食事を取らず、静かに眠るように亡くなったという。
使い慣れた介護用ベッドではなく、畳の上に敷いた布団に寝かされていた。
血の気がなく、白く、やや黄色っぽくも見える肌。白く薄くなった髪。シワに埋もれそうな唇。もう二度と開かないのだろう瞼。
細く、小さく、頼りなく。ここのお婆さんってこんなんだっけ? と記憶を探りたくなるぐらい、はかなく感じた。
でも。
(笑ってた)
死に化粧を施されてたからの錯覚じゃない。亡くなったお婆さんは、いい夢をみて寝ているかのように、微笑んでいた。紙のように白い肌でなければ、今にも起き出して、「ちょっと未瑛ちゃん、陽くん、聞いてや。オバちゃんな、すっごくええ夢見てたんやで?」って笑って話してくれそうな。
でも、それはあくまでそう見えただけで。お婆さんは、もう誰ともお喋りをしてくれない。
「――どうして」
ポツリと山野が呟く。
「どうして、死んじゃったの?」
「山野……」
ペットボトルを握りしめて、涙をこらえてる。
お婆さんの死因は、やはり食事を取らなかったことでの衰弱死だった。餓死とも言える。食事を取らないことで、お婆さんは自死を選んだのだ。
「――未瑛ちゃん、陽坊。さっきは、ありがとな」
「オジさん」
店から出てきた美浜屋のオジさん。
亡くなったお婆さんの息子で、この店を切り盛りしている人。
「未瑛ちゃん。泣いてくれるのはうれしいけど、そんなに悲しまんといてやってくれ。婆さんはな、今、きっと幸せやろから」
「え?」
俯いたままの山野の代わりに、僕がオジさんを見る。
「ちょっと長い話になるけど。聴いてくれるか?」
オジさんが言った。
* * * *
美浜屋のお婆さん、和子さんには、かつて結婚を誓った相手がいた。お見合い結婚が多い時代、珍しく恋愛で話がまとまったのだという。
「ただな、その相手、誠治さん言うんやが。誠治さんに、赤紙が来たんよ。赤紙。わかるか? 戦争に来い、兵隊になれっていうお知らせや」
第二次世界大戦。
当時の若い人たちは、徴兵され、兵隊として戦地に赴いた。
「普通、そうなった場合は家に子孫を残すため、急いで結婚するんやけどな。婆さんと誠治さんの場合、婆さんがまだ十六歳やったから、結婚は誠治さんが帰ってきてからってことになったんや。誠治さんは漁師やし、息が長いからラッパ吹きになるやろう。長男やし外地には行かされへんやろうって。そう思っとったから、帰ってきてからってなった」
いくら子孫を残したいからって、十六で結婚はない。
だから、安全な所で兵役を終えたら結婚しようってことになった。
「けどな。それが間違いやったんや」
オジさんが大きく息を吐く。
「誠治さんは、なにがどうなってそうなったか知らんけど、ラッパ吹きにもならんと、任地も外地に配属された。そんで、外地に向かう途中、乗ってた船が魚雷を受けて亡くなったんや。漁師が海で溺れて死ぬって、なんやねんって思うわ」
ゴクリ、と唾を飲む。
オジさんは、軽く話すけど内容はとても重い。
「まあ、誠治さんが死んだのを知ったのは戦後やけどな。それまで戦時中、婆さんは誠治さんの家で、残った家族、誠治さんの母親と疎開して来とった姉と、その子どもの面倒を見とったんや。気持ちだけでも誠治さんの家族。そう思うて孝行しとったんやろなあ」
愛する誠治さんが帰ってくるまで。
結婚こそまだだけど、心は彼の妻だったのかもしれない。
「けどな。そこで起きたんが地震や。東南海地震。昭和十九年のことや。ここの浜のモンもようけ流された。婆さんが見てた誠治さんの家族も流された。残ったのは、わずかの差で山に逃げられた婆さんと、婆さんが連れとった誠治さんの甥だけや。後は家もなんもかもキレイに流されてしもうた」
そこまで話して、オジさんが暗い、雨降る空を見上げる。
「戦後にな、届いた誠治さんの訃報もあってな。周りは婆さんに別の人と結婚せいって言うたらしい。そんな義理の甥なんてほっぽって、まだ若いんやからちゃんと結婚せいって。けど、婆さんは首を縦に振らなんだ。誠治さんと結婚せんかった、子を授からんかった代わりに、その甥を我が子として育てたんや」
「それって……」
「せや。その甥がワシや」
ニッと笑って、オジさんが自分を親指でさした。
「婆さんはな、いつか誠治さんが帰って来るかもしれへん言うて、ここに店を構えたんや。誠治さんだけやない。流されたワシの母ちゃんも祖母ちゃんも。誰か帰ってきたらわかるようにって。それでこんな海の近くに店を構えたんや」
美浜屋の前。道路を挟んだその先に海が広がる。海を抱きしめるように、両手を広げたような湾の形。
遠く、誠治さんの亡くなった海。誠治さんの家族が流された海。
今は暗く、雨で見えないけれど、もしかしたら、あの岬は和子さんが愛する人たちを抱きしめようと伸ばした腕だったのかもしれない。
「婆さんな。最近、夢を見た言うてたんや」
「夢?」
かすれかけた声で返す。
「せや。誠治さんが会いに来てくれたって、うれしそうに話しとった」
「それって」
「ああ。もうそろそろこっちゃ来いって、誠治さんが迎えに来たんかもしれん。離れてから八十年近く。守らなあかんかった甥もええ歳なったし、そろそろええやろって」
愛する人と別れ、八十年も生きてきたお婆さん。彼に代わって守り育てた義理の甥も立派に育った。オジさんには、子もいれば孫も生まれた。もう充分だ。ここから先は、愛する人と共にありたい。
「だからな。そう悲しまんでええぞ、未瑛ちゃん。婆さん、いや和子さんは迎えに来た誠治さんと、楽しゅう話しとるやろうからな。もしかしたら、八十年遅れの祝言上げとるかもしれへん」
ちょっと吸ってもええか?
軽く尋ねてから、オジさんがタバコを一本取り出す。
吐き出されたタバコの煙。淡く揺らいで、雨の降り続ける空に溶けていった。