(五)
――おはよ、大里くん。今日も蒸し暑いね~。
言ってパタパタと下敷きで仰ぐ山野。柔らかな髪が、風に乗ってフワリと揺れる。
――今日の数学、予習してきた? もしよければ、答え合わせさせてほしいんだけど。
よくある会話。いつもの表情。
普段の山野。
(あんなに泣いてたのに)
あの日。美浜屋のお婆さんのことを思って、涙を流した山野。
なかなか泣き止まなくて。家に送る道でもずっと落ち込み、うつむいてばかりだったのに。
(元気になったのなら、それでいいか?)
いつも通り、夏鈴や榊さん、明音ちゃんと、他愛もなさそうな話をして、楽しそうに笑ってる。時折、僕の視線に気づいて、「ん?」みたいなクリっとした目でこっちを見てくる。
特に悩んでる様子もないし、落ち込んでるようでもない。
いつもの山野だ。
強いて言うなら、夏鈴たちと喋ってない時、一人でいる時にスケッチしてることが多くなった。気づくと鉛筆とスケッチブックを持って、なにかを描いている。まあそれは、新島大橋みたいに、「燃える!」スケッチ対象が見つかったからかもしれない。雨にけぶる仁木島も好きって言ってたし。
梅雨に入って。
雨は「降ったり止んだり」ではなく、「降ったり降ったり」になった。時折、「これぐらいにしておいてやらあ」って感じで雨が止む。いつだって傘必須。折りたたみでは間に合わない。
「雨って、景色は悪くないけど、雨自体は好きじゃないんだよねえ」
帰り道、山野が言った。
「なんで?」
「ほら、髪の毛にクセが出ちゃう。どんだけドライヤーあてても、クルってなっちゃうのよ」
髪を一筋持って、寄り目で毛先を眺める。
つままれた毛先がクルンと弧を描く。
「ホントだ」
クルンとなった髪もかわいい。――なんてことは黙っておく。
* * * *
「陽! 助けてくれ! この通り!」
パンパンっと頭の上で柏手うって、こっちを拝み倒す健太。僕はいつから、神様になったんだ?
「次の期末で赤点減らさねえと! 夏休みに補講が確定しちまう!」
あー、なるほど。
来週から始まる期末テスト。
中間で散々赤点をとった健太は、色んな意味で崖っぷち。
「別にいいけど……」
教えるぐらい、なんてことないけど。
「おっしゃ! サンキュ! ってことで、みんなぁ! 陽が勉強教えてくれるってよ!」
――は? みんな?
勉強を教えるのは、お前だけじゃないの?
「ホント? マジ助かるんだけど!」
「ボクも教えてもらえる? 健太ほどじゃないけどさ、成績悪いと、次の大会とか難しくなるんだよなあ」
「って、おい。夏鈴と逢生もか?」
「そうよ。教えるのに、一人や二人増えたって問題ないでしょ?」
「いや、そうなんだけど」
「大会のために万全を期しておきたいんだよ」
「大会?」
「逢生ってばスゴイのよ! 予選抜きで、本選進出なんだから!」
逢生に訊いたはずなのに、なぜか夏鈴が答えた。
「春の大会でさ、記録出したから、予選が免除されたんだよ」
エヘヘと、逢生が照れた。
「記録って」
「10秒88」
「10秒88!」
隣で聞いてた健太が、驚いた声を上げる。けど。
「――って、スゴいのか?」
すぐにキョトンとした顔になった。
「スゴいんじゃないのか」
訊かれても、僕にもイマイチよくわからない。けど、予選抜きで本選参加なら、スゴいんだと思う。たしか、自分のタイムは、12秒台だった気がするし。
「大里先輩。あたしたちも教えてもらってもいいですか?」
「え? 明音ちゃん、山野も?」
「お願いポーズ」の明音ちゃんと、遅れて山野が近づいてくる。
「あら、勉強会なら私も参加させていただくわ」
「ええっ!? 榊さんもっ!?」
「どうせ、図書室でやるんでしょ? なら、私も行くわ」
榊さんの場合は、日下先生のそばにいたいからの参加か。学年二位の彼女に教えることなんてあるのかって思ったから。なんか納得。
「大里さんとご一緒に勉強すれば、それだけ理解も深まるでしょうし」
あ、一応、勉強目的ではあるんだ。
「――わかった。じゃあ、今日の放課後から図書室で。それでいい?」
「うん」
「サンキュ!」
「助かる!」
みんなが口々に感謝を述べる。
「じゃあ、オレは数Ⅱに、英語に化学に日本史! あと古典!」と健太。
「あたしは、数Bと物理! ヨロシク!」と夏鈴。
「ボクは、世界史と英語かな。できれば数Bも」と逢生。
「アタシは、数Ⅰと英語と生物をお願いします、先輩!」と明音ちゃん。
「数Ⅱを……。お願いしてもいいかな?」と山野。
「ちょっと待て。それって全教科なんじゃないのか?」
古典に世界史、日本史、数Ⅱ、数Bに化学に物理。そして英語。
一年の明音ちゃんも合わせて、現国以外の科目を網羅。現国が抜けてるだけ、助かったのか?
「そうね。私は大里くんと現国の、今回のテスト範囲になった『李陵』について語ってみたいわね」
それまで顎に手をあて、思案してた榊さんが言った。
「大里くんとなら、日下先生も交えて、ちゃんとした文学談義ができそうだもの」
現国も参加。全教科コンプリート。
勘弁してくれ。これじゃあ、僕の勉強時間が取れないじゃないか。
心の中で、一人嘆く。
誰かに教えることで、自分の理解が深まる――なんて言うけど。
簡単に安請け合いするんじゃなかった。本気で後悔する。