(三)
「――おまたせ、山野。って……、なんだ、そこにいたんだ」
「あ、ごめん。ちょっとアジサイがキレイだったから」
僕の呼びかけに、教室の外に出ていた山野がふり返る。――アジサイ?
言われてみれば、校舎と運動場の境にある花壇に、青いマリのようなアジサイの花が満開を迎えていた。
「気づかなかった」
「でしょ? わたしもさっき気づいた。教室にカタツムリが出たから」
「か、カタツムリ?」
でんでんむし。まいまい。蝸牛。
どう言い換えたって、教室に出てこられると困るヤツ。
「フフッ。やっぱり大里くんはニガテ?」
「う、うん。まあ……」
ゴニョゴニョ。
ニガテというより、大っきらい。ハチといっしょで近づきたくない。
「ってか、それより、そんなとこにいたら濡れるぞ」
午後から降り出した雨。
山野の立つ所。
教室の後ろ、外に出る引き戸を出てすぐの所。校舎から少しだけ廂が出てるから、すぐに濡れることはないけど、けどちょっとでも風が吹けば、アッサリ濡れてしまう。
そんなところで、スケッチブックを片手に、おそらく絵を描いていた山野。絵が好きだからって、身体に良くないと思う。
「大丈夫だよ。心配性だなあ、大里くんは」
笑いながら、でも教室に戻ってきてくれた山野。
「それより進路相談、終わったの?」
「まあ。とりあえずは終わった」
今、この教室には、僕と山野しか残っていない。
中間テスト前に提出した、進路調査票。
その記入した将来について、放課後、僕一人だけが担任に呼び出されていた。
「それより、健太や逢生は?」
「みんななら、もう帰ったよ。今日は雨で長谷部くんも部活がないから。長谷部くん家でカラオケするんだって」
「カラオケ?」
「うん。民宿で使ってた古い機材が残ってるから、それを使うらしいの。『これもアオハル計画の一環だ!』って健太くんが言ってた」
「アオハル……」
健太のやつ、まだ諦めてないのかあの計画。
どうせ、「アオハル言うたら、放課後のカフェ! そしてカラオケ!」ってところなんだろう。だけどこの町には、そんなシャレたものはないから、勢い逢生ン家になだれ込むことになったと予想。
(しぶといな、アイツ)
図々しいというのかなんというのか。
あの計画だって、健太が明音ちゃんと、どうにかなりたくて仕組んだもの。逢生と夏鈴、僕と山野はその巻き込まれで作られたカップル。でなければ、あの時、あんな強引に僕に山野を押しつけて、明音ちゃんとカップルになったりしない。
(似た者兄弟だよなあ)
健太の兄と健太自身と。
健太の兄、航太さんは、高校時代から寧音さんに、「好きです」プッシュをずっとかけてたらしい。そして八年かけて、ようやく折れた寧音さんから、オッケーをもらった。
しつこい。しぶとい。図太い。
健太も航太さんのように、図太くしつこく、明音ちゃんを落としにかかるんだろうか。それこそ、明音ちゃんが根負けするまで。
明音ちゃん。ご愁傷さま。
「それで大里くんはどうする? カラオケ、行く?」
「うーん……」
このまま疲れてるからとかなんとか理由をつけて、帰ってもいいような気がするけど。そうすると明日の健太がとっても面倒くさそう。
それに――。
「山野は、行きたい? カラオケ」
僕が「帰る」と言ったら、山野はカラオケに参加しにくくなる。健太に押しつけられた「カップル(仮)」のカノジョ役として、こうして律儀に待っていてくれた山野。山野が行きたいなら、今度は「カップル(仮)」のカレシ役として、僕がカラオケにつき合ったほうがいい。
「そう……だね、行きたい……かな?」
僕の様子をうかがいながら答えた山野。
行きたいなら「行きたい!」って、ハッキリ自己主張したらいいのに。
(って、僕もあんまり人のこと言えないよなあ)
カラオケに行くかどうか。答えを山野に委ねちゃってるし。
明日の健太なんて、他人のことを考えちゃってるし。
「じゃあ、行こうか。カラオケ」
ちょっとだけ男としてカッコ悪く思えたから、明るく爽やかに、「カップル(仮)」のカレシ役らしく山野を誘う。
取ってもらえない、虚しい手を差し伸べて。
* * * *
「そういえば、大里くん。なんで先生に呼び出されてたの?」
学校を出て、並んで歩く道すがら、山野に尋ねられた。
「進路調査票のことで、なにかあったの?」
あの調査票を使ってどうこうするのは、期末テストも終わって、夏休み前の三者面談でのこと。なのに、僕一人だけ先生に呼び出された。そのことが気になったらしい。
「あ、言いたくなかったら、教えてくれなくていいよ。個人の、プライベートなことだし」
訊いてから、やっぱりと取り下げる。
山野は、人のことを気にかける、優しい性分だ。
「別に、たいしたことじゃないよ。僕が調査票を空欄で提出したから呼び出されただけ」
「空欄?」
オウム返しにして、また「あっ」って顔をする山野。だから、気にしなくていいって。
「一応、進学にレ点は打ったんだけどさ。具体的に、どこに進学するとか、何を学びたいとか。そういうのが書けなかったんだよ。だから呼び出された。やりたいこととかないのかって」
空欄のままの志望校。
就職と進学で、進学にチェックは入れたけど、その先、どういうことを学んで、将来どんな大人になるか。そこは空欄のままだった。
この先、僕はどうしたらいいんだろう。
中学の時、その生きづらさからここに逃げてきた。山野や健太、みんながいて、ここはとても居心地が良かった。でも、この先となるとどうしたらいいのかわからない。
東京に、両親や兄のもとに戻ったらいいのか。それとも、ここで暮らし続けたらいいのか。ここが心地良いからって、居続けていいのか。未来がわからない。
「大里くんの成績なら、東大とか京大も夢じゃないと思うけど?」
「それは買いかぶりすぎ。あんなとこ、僕程度じゃとてもじゃないけど無理だよ」
「そうかなあ。大里くんなら、仁木島分校始まって以来の、伝説に残るような進路が待ってそうだけど」
「僕に行けるとしたら、そうだな。せいぜい、国立大か関関同立、頑張ってもMARCH程度かな」
それか、南愛名中。関関同立の東海版。
「ねえ、それって、すっごい進学先なんじゃないの?」
「うん、そうだね」
行けるかどうかわかんないけど、わざと胸を張ってみせる。
「もう!」
プッと頬を膨らませた山野。けど、すぐに崩れてクスクス笑い出した。
「そう言う山野はどうなんだよ。進路とか決まってるのか?」
「わたしの進路?」
「大きな夢があるって、言ってたよな」
絵で生きてくんじゃなくて、もっと別の大きな夢。
「それって、やっぱりここを出て叶えるものなのか?」
大学とか進学となったら、この町から出ていかなくてはいけない。県内にも大学はあるけど、だからって仁木島から通うのは少し難しい。
「そうだね。でも、おそらくだけど、わたし、この町を離れることないと思うよ」
「ここにずっといるってこと?」
「うん。たぶん、ずっと。ずっとわたしはここにいる」
まっすぐに、それでいてどこか寂しげな山野の目が、前だけ捉える。
「あ、でも夢を叶えるためにどっか行かなきゃいけないってなったら、どこへでも行くよ?」
クルッと僕に向き直った山野。
「それこそ、東京だって、アメリカだって、宇宙にだって。夢のためならどこにでも行く」
その顔に、さっきの寂しそうな感じはどこにも残ってない。
「大事な夢……なんだな」
「うん!」
叶うといいな、山野の夢。
夢も将来も考えられない空欄の僕の代わりに。
降る雨がさす傘を、道路を、木々を濡らす。淡い灰色の空。鈍色の海。
木のそばを通りかかった時、海から風が吹いて、パタパタと雫を傘に払い落とした。