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流れる時の彼方

作者: 月空 真昼

 暑くもなく寒くもない。程よい気候の中、スーツ姿の天実秀司(あまみしゅうじ)はカサカサと音をたてるレジ袋を下げて、ゆるやかな坂道を上っていた。

 住宅地では昼下りのこの時間、通る人もない。秀司は目当てのくすんだ青い屋根の家に着くと、門を通り、わずかな庭を通り抜け、やはりくすんだ青いドアのインターホンを鳴らした。

「あれ?」

 中で鳴る音はしたが、人が出てくる気配はない。

「留守かよ」

 二度、三度と鳴らすが、やはり誰も出てこない。

「珍しいな…と、なんだ開いてんだ」

 ドアノブを回すと、難なく手に従ってきた。天実はそのままドアを引くと、慣れた様子で中に入る。

「おーい、風瀬、居るんだろ?」

 靴を脱いで上がり、テーブルにレジ袋を置く。そして奥に向かって声をかけるが、この家の主、風瀬和一(かざせかずいち)が出てくる気配はない。

「出かけてんのかな」

 天実は独りごちて奥の様子をうかがう。首をひねりながら振り返り、啞然とした。

「え?」

 先程置いたばかりのレジ袋がくしゃくしゃになって転がり落ちている。中に入れていた箱は開けられた状態でテーブルに放置されてあった。そこに入っていたはずの、純白で福々しい大福は二つとも消え失せ、名残の粉だけが虚しく底に残っている。

 信じられないものを見た時に人が目をこする仕草について、天実は今まで誇張された表現だと思っていたが、気が付くとそれをやっている自分がいた。

 袋を置いてから奥に目をやり、再び視線を戻すまでには一秒もかかっていない。その間にレジ袋を音もなく開けて箱を取り出し、中の大福を取るのは、ましてや食べたりするのはどう考えても不可能だった。

「なんでまた…」

と言いかけて天実は、テーブルの上の紙切れに気づいた。そしてそれも二度見する。

 なぜなら先ほど大福の袋を置いた時には、他に何もなかったのだから。

 長い時間凝視していたような気がしたが、実際はほんの一瞬だったのだろう。天実はその紙切れに書かれている文字に見覚えがあることに再び気づいた。

「風瀬の字?」

 人差し指と親指で紙をつまみ上げる。そして間違いなく風瀬の字だとわかると、しっかり手に持って読み始めた。

『実験中にどうやら俺の時間だけが早くなったらしい』

 一行目を読んだ瞬間に変な声が出た。

「待て。待て待て」



 風瀬和一は科学者である。

 科学者である、ということしか秀司は知らない。何をやっているかも定かにはわかっていない。付き合うのに差し障りもないので特に気にしてはいなかった。ただ、時折何か妙な物を作って成功したり失敗したりしているのだけは何となく知っていた。

 しかし、何がどうすればこういう事態になるのかがさっぱりわからない。ひょっとすると科学者の中ではよくあることなのか?いやまさか。

『俺は今目にも留まらぬ時間の流れにいる。この部屋にいるがお前の目には見えてない』

「加速装置かよ…」

『加速装置、がわかりやすいかと』

「当たりか」

 加速装置、で思い当るのはあの主人公。と、するともしかして…と思ったが、天実の思考は予想されていたらしい。

『俺が速くなると同時に俺に触れている物も同じ時間になるらしく、服は燃えていない。俺から離れると時間も元に戻るようだ』

「そうなんだ」

 記述はそこで終わっていた。そして二枚目の紙がいつの間にか出現している。

『早く読んでくれ』

「悪かったな」

 そして三枚目

『この事態を打開するために手伝ってほしい』

「なにを」

『奥の部屋に試作機がある。止めれば時間の流れが戻る』

 何の試作機、と思いながら天実は奥の部屋に向かう。向かいつつ続きを読む。

『向かって右側面の緑のボタン二つを同時に押して、上のレバーをSTOPの位置に戻す。以上』

 部屋の真ん中に黒くて四角い、小型冷蔵庫くらいの大きさの金属製の箱が鎮座していた。かすかにうなりをあげているところを見ると、確かに起動中らしい。

 天実は側面のボタンを確認し、レバーも確認する。急いだほうがいいのだろうとわかってはいるが、知らない機械をいきなり動かすことには慎重になるしかない。しかもこれがそもそも何の機械かもわからないときている。及び腰になるのは仕方がない。

 指示通りにボタンを同時に押し、祈るようにレバーを引く。ボタンは手応えもなく軽く押せたが、レバーは意外と重く、両手が必要だった。



 ガクン、とレバーがSTOPの位置に定まる。

 余韻を残しつつ、機械音が静止する。

 天実は辺りの様子をうかがうが、風瀬が現れる気配はなかった。何となく順繰りに室内を見回し、再び機械に視線を落とすと、そこに紙片が何枚か溜まっていた。

『助かった。俺的にはもう五日経っている。自分では操作できなかった。何度も試したが、レバーが重すぎて引けなかった。速度の違いか、それはわからない。食べ物が底をついてた。無断で悪かったが大福はもらった。しかし空きっ腹に甘い物はこたえる。少し胸焼けがする』

「なら食うなよ」

 せっかく買ってきてやった美々しい大福になんという言い草だ。

『言っておくが、別に加速装置を作ろうとしたわけではない。基本的にはタイムマシンだ』

「どっちもどっちだろ」

『何がどうなったのか俺にもわからない。多分磁場の関係か何かなんだが、とにかく時間を戻さないことには何も始まらない。というか、終わらない』

「そらそうだ」

『俺に触れているものは俺と時間が同化するらしいが、人に試すことははばかられた。お前に抱きつくことも考えたが、万一同化し損ねたら大惨事になる可能性もあるから、こういうまどろっこしいやり方をさせてもらったけど時間がかかって仕方がなかった』

「俺のせいじゃないだろ」

 気になるのは「大惨事」だ。天実は自分なりに考察する。

「もしかして…『加速装置を使っている状態で生身の人間を運べない』やつか?加速に耐えられずバラバラになるとかいう…」

 風瀬が冷静で良かった。もしパニックにでもなって、そこに自分が訪れて、見境なく抱き着かれでもして上手く時間が同化しなかったら、と思ったところで、天実はそれ以上考えるのをやめた。

 それに、

「上手く同化したとしても抱きつかれてたまるか」

『お前が来てくれて助かった。外回りをサボる癖も役に立つもんだな』

「休憩だ休憩。サボってねえよ」

『それから、時間が戻ったら、もしか』

 で、文章が途切れている。追加の紙片はない。

 探して、やはりないことを確認し、ふと目を上げた天実は驚いて思わず後ずさった。

 いつの間にかそこに白衣を着た風瀬が立っている。

 ボールペンを握って、何か書きつけるような姿勢だった。目を伏せ、手元を見ている。ろくに食べていなかったらしく、頬がこけて顔色も悪い。

 尋常でないことはすぐにわかった。

 人間の身体というものは、どれだけ静止していてもほんのわずか動いている。バランスを取るために微妙に振れているし、もしもそれを完全に止めることができたとしても、呼吸や脈で皮膚が動くのまでは止められない。

 見る方も見られる方も、もちろん普段からそれを意識することはない。天実も明確にそれを認識したわけではないが、今、完全に静止した風瀬を目の当たりにすると、異様さが際立っていた。

 「蝋人形」という言葉が頭をよぎる。有名な蝋人形館とかを実際に見たことはないが、こんな感じだろう。そこにあるのは風瀬そのままだが、全く生気がない。温かみのある肌の色ではあるが質感が固そうだ。

 呼びかけてみるが、声が届いた感じはない。思わず触ろうとして、すんでのところで止めた。

「これって…」

 風瀬の手紙を頭の中で反芻する。彼は異様な速さの時間の中にいた。触れたものは同化して同じ時間に取り込まれるらしい。と、いうことは、この止まっている風瀬に触ると、

「俺も止まる…のか?」

 何の確証もない。確証はないが、その危険性を排除することができない以上、不用意に風瀬に触れるのは得策ではないだろう。

 最悪の事態を天実は脳裏に描いた。男二人がそろって固まっている図がやすやすと想像できて、天実は静かに首を振った。

 天実は考える。

「あー…もしかしてこれ…」

 風瀬の時間は機械の作用で速くなっていた。機械を止めたことで速くなるのは止まった。そして通常の時間に戻るはずだが、速く過ごした時間の分、止まって帳尻を合わせているのではないだろうか。

 一日は二十四時間。そのうち一時間速く過ごしたとしても、その一時間分停止する。結局、誰でも与えられているのは等しく二十四時間ということか。

「つじつまは合うんだが…」

 正しいかそうでないかなどわかるはずもない。それらしい説明をこじつけたところで、彼にできるのはしばらく様子を見ることだけだった。



 次の日から天実は、外回りのついでに風瀬の家に寄った。

 風瀬は相変わらずだが、継続して見ていることによって、完全に静止しているわけではないことがわかってきた。

 例えば、最初の日に薄く開いていた目が、次の日には閉じていた。まばたきらしい。それから、白衣の裾が少しあおられていたのが、布地が下りて真っ直ぐになっている。

 天実は風瀬のメモを読み返す。天実が来た時点で風瀬にとっては五日経っていた。風瀬がいつ機械を作動させ、いつから加速状態になったかは定かではないが、時間のつじつまを合わせるというなら、とりあえずは五日が一つの目安になるのかもしれない。

 自分がいない時に風瀬が元に戻った時に備え、天実は簡単に食べられる物を冷蔵庫に入れたりテーブルの上に置いたりした。



 五日目の昼下がり、すっかり習慣となった風瀬宅訪問に向かう。

 いつものように玄関のドアを開け、風瀬の部屋の戸を開けた瞬間に彼は異変に気付いた。

 風瀬のことではない。それは昨日と同じく固まったままだ。だが、問題はその足元である。

 一抱えもある白く、柔らかそうな毛の塊がある。それは風瀬を見上げ、そのズボンの裾に両前足をかけた状態で完全に静止している。青く澄んだ瞳は興味深そうだ。

「猫?」

 そういえば昨日、部屋の空気を入れ替えようと窓を開けた。万が一通行人にこの不自然な風瀬の様子を見られてもいけないと思い、ごく細く開けたのだが、そういえば閉めた覚えがないことに天実は思い至った。

 窓に近寄ると、自分が記憶していたよりは広く開いている。ちょうどそこにいる真っ白な猫の頭が通るくらいの幅になっている。

「ここから入ったのか」

 天実はもう一度猫を見つめる。真っ白な長い毛にピンクの首輪。瞳は澄んでかわいらしく、ピンクの鼻も愛らしい。全体に漂う気品のようなものが、猫に詳しくない天実にもそんじょそこらの猫とは違うことを感じさせた。

 飼い猫なのは間違いない。飼い主が探していたら厄介だが、猫は気まぐれなもの。多少外をほっつき歩いたところで、そんなに心配することもないだろう。それにもし探していたとしても、ここだとわかるはずもない。

 時間が戻るとしたら風瀬のほうが先なはずだ。対応はそれからでいいだろう。風瀬がこの猫を知っている可能性だってある。

 天実は窓を閉めた。そしてつくづくと固まった猫と風瀬を見比べる。

「やっぱり触ると持っていかれるんだな…」

 あの時風瀬に触らないで良かった、と胸をなでおろしたその時、インターホンの音が響いた。



「なんだ?宅配か?」

 インターホンがせっかちに三度鳴る。返事がないことにいらいらしたのか、今度はドアを叩く音が響いた。

「なんだなんだ?」

 急かされるように天実は玄関のドアを開けた。

「うちのエリザベーテをどこにやった!」

 開けた途端に怒鳴り込まれた。

 見たところ、六十代くらいの痩身の男性が、顔を真っ赤にしていきり立っている。

「はい、あのー?」

「見ろ!」

 男は握りこんでいた手を勢いよく突き出して開いた。そこには光を反射してキラリと光る小さな金色の十字架があった。きれいだが、きれいなだけに見えた。

「えーと?」

「玄関先に落ちてたぞ!エリザベーテのだ!」

 天実は困惑する。そもそも、それ誰?

「すみません、何かのお間違いでは…?」

「しらを切るのか!」

「誰をお探しなんですか?」

「とぼけるな!」

 男は今にも掴みかからんばかりの勢いで怒鳴った。

「どうせ売り飛ばすつもりなんだろう!それとも、いじめて憂さをはらす気か!」

 おいおいおい、穏やかな話じゃないな、と天実は思った。勘違いにしてはひどすぎる。売り飛ばすって人身売買…と考えたところで閃いた。

「もしかして、猫…とか?」

「しらばっくれるな!」

 男はますます怒りをたぎらせた。

「エリザベーテは家から出ないんだ!だから、いないってことはさらわれたんだ。これ!」

 先ほどの十字架を再び天実の鼻先に突きつける。

「エリザベーテの首輪の飾りだ。ここの玄関先に落ちてた。お前がさらったんだろう!」

「いや、あの」

 ようやく話が見えてきた。先ほどのふわふわとしたあの真っ白い塊がエリザベーテ嬢らしい。が、とんだ濡れ衣である。

 だいたい、家から出ない箱入り猫だとか言っているが、あれは絶対に外部からの不法侵入だ。

「ええっとですね…」

 知らぬ存ぜぬを決め込もうか、天実は迷った。しかし、知らないと言い張って男が更に激高し、もしも家に乗り込まれ奥の部屋の扉を開けられ、固まったままの風瀬とエリザベーテ嬢を見られたらどうなるのか。

 この男の勢いではすぐさま猫に飛びつくだろう。そして固まった陳列物がもう一つ増えるのが予想された。

 それに、そうならないまでもタイムマシンの事故なんて話をしたところで一蹴されるのは目に見えている。逆の立場なら自分だってそうだろう、と天実は思った。

「俺はこの家の人間じゃなくて、たまたま訪ねてきただけのですね…」

「なにい?じゃあこの家の人間はどこだ!」

「いやそれも俺にはわからな…」

 不意に天実の背後でドアが開いた。

「風瀬!」

 思わず大声が出た。驚く天実に構わず、風瀬は言った。

「この家の人間です」

 なかなかに機嫌の悪い声で不愛想である。ここ数日の不摂生のために顔色も悪く、やつれている様子と不精ひげとに相まって、かなりの迫力があった。

 しかし愛する猫を心配する飼い主はそんなことでひるまない。

「お前か!お前がエリザベーテを!」

「いい加減にしてください!」

 風瀬は飼い主を更に上回る声を出した。しかしその一言だけで声のトーンはすぐに落ちた。落ちたが、地を這うような抑揚のない声は、それはそれで恐ろしい。

「…猫は確かにいます。でもそれは窓から勝手に入ってきたんですよ」

「そんなはずは…!」

「猫が何をしてくれたか見ますか?」

 風瀬は座った目で男を見据える。

「お、おう」

 風瀬のあまりの不機嫌ぶりに男は毒気を抜かれたようだった。大事な十字架のチャームを握りしめ、靴を脱ごうとする男に天実はスリッパを差し出した。



 果たして、部屋は惨憺たる有り様だった。

 壁紙はところどころズタズタにされ、カーテンも破れている。床に散乱しているのは箱から引っ張り出したティッシュの山。そして何やらただならぬ臭いも漂っていた。

 この部屋から出たのはついさっきだ。天実は考える。いくらなんでもあのわずかな時間でここまで荒らすことはできない。と、いうことは…。

「窓を開けていたのはこちらの落ち度と言えるかもしれません。だからといってあなたの猫が勝手に入ってきて、勝手に部屋を荒らしていいものではないと思いますが」

 呆然とした男はかすれた声でつぶやいた。

「まさかエリザベーテがこんなことを…」

 言い訳というより、どうにも信じられない気持ちの吐露のようだ。

 風瀬は少し乱暴に自分の頭をかき乱し、ため息をついた。

「一応、うちは防犯カメラを設置しています。庭しか撮っていませんが、見ますか?」

 男は返事をしなかったが、風瀬は男の鼻先にスマートフォンを差し出した。天実も背後からこっそりとのぞく。

 ちょうどこの部屋の外が主に映っている。ほどなくして画面の下方から白い塊がもふもふと動いてくる。柔らかな毛並みを風になびかせ、頭のそらし方も優雅に歩いてくるのは確かにエリザベーテ嬢だ。

 彼女はふと立ち止まり、窓を見上げる。しばしの静止の後、軽い動きでトン、と飛び上がると、窓の下のプランターを置く台…がもともと設置されていたのだが、風瀬がそこに植物を置いたのを見たことは一度もない…に器用に飛び乗った。そして興味深げに室内を見ていたと思ったら、突然鼻先を突き出し、やや強引に頭をねじ込んでスルッと中に入っていった。

 男は口をあんぐりとさせたまま固まっていた。風瀬がそこへ追い打ちをかける。

「お宅の猫ですね?」

「あ…いえ…いや…あの………はい」

 男は片手で顔を覆ってしまった。そして今にも消え入りそうな声で尋ねる。

「すみません…それで猫は…」

「ここにいます。ドアを閉めてくれ」

 後半の指示は天実に向けられていたので、うなずいて静かにドアを閉じた。

 部屋の隅に小さな箱が置いてあり、上にごつい本が載せられていた。風瀬は本をどける。箱は伏せられていた。風瀬は箱を持つと、そろそろと斜めに上げていく。

 ピンク色の鼻先が見えた。

「エリザベーテ!」

 男が叫び、箱の前にひざまずく。風瀬がもうわずか箱を上げると、愛らしいが憔悴した様子の白い猫の顔が覗いた。

 風瀬が箱を静かに取り除ける。全貌を表したエリザベーテ嬢は疲れ切ったようすで、白い毛並みも心なしかぼさぼさとしている。警戒した様子で体を低くしていたが、目の前の男が飼い主だと分かったらしく、立ち上がると同時に飛びつき、激しく頭を擦り付けた。

「無事だったか!心配したぞ!」

 男は猫を抱き上げ、柔らかくなでていた。慣れ親しんだ腕の感触に安心したのか、エリザベーテ嬢は頭を擦り付けるのを止めて気持ちよさそうにもたれかかっていた。

 安堵の表情を浮かべていた男だが、ふと我に返り、風瀬に向き直る。

「申し訳ありません…うちの猫が」

 静かに頭を下げる。それでも手は安心させるように軽くエリザベーテ嬢の体を叩いていた。

「監督不行き届きで…損害は弁償します。後片付けも今から」

 風瀬が押しとどめるように手を挙げた。

「それは結構。触ってほしくない物もあるので片づけは自分でやります」

 そうだよな、と天実は思う。

「弁償もいりません。さっき言ったようにこちらの落ち度もある」

「しかし」

「二度とこのようなことがないようにしてくれればそれで」

「いや、でも…」

 男は躊躇する。なにせ風瀬の顔が頬はこけているし目つきが据わっているしで怒りに強張っているようにしか見えず、はいそうですか、とはなかなか言いづらい。

 ということを察知した天実が割って入る。

「本人がこう言っているのですから大丈夫です。怒っているように見えるかもしれませんが、徹夜明けで疲れているだけなので気にしないでください。なので、早くお帰り頂いたほうが助かります」

 それを聞いて男はハッとしたようだった。エリザベーテ嬢を抱っこしたまま器用にズボンのポケットから財布を取り出すと、慌てて札を掴みだし、風瀬ではなくなぜか天実に押し付けた。

「とりあえずはこれで。また改めてお詫びを。すみません。それでは」

 返す間もなく男は白い猫を抱えたまま、脱兎の如く立ち去って行った。



 遠ざかる足音を聞きながら、天実は札を風瀬に差し出す。

「もらっとけよ。気が済まないんだろうから」

 風瀬は渋い顔をしている。

「なんだよ。そりゃこの部屋の有様はひでえけどさ」

「違う」

「何が」

 風瀬がため息をつく。

「猫だけが速い時間に取り残されたんだろうな」

「うん?」

 聞き返して天実は腑に落ちた。

「やっぱりつじつま合わせが働くのか?」

「よくわかったな」

「時間の流れが速くなった奴が機械の効果が切れた途端に静止状態になったんで、まあそんなとこかなと」

 風瀬はうなずいた。

「結局のところ、時間を速くして一日過ごしても、効果が切れれば一日止まってしまうらしい。速くしたところで何も得しないな。もっとも、別にそのために作ったわけではないんだが」

 そういえば当初の目的はタイムマシンだった、と天実は思いだした。

「俺に触って止まった時間に巻き込まれた猫が、俺が元の時間に戻ることで効果が切れたものの、今度は止まっていた時間の分速い時間になってしまった。猫にしてみれば自分以外誰も動かない状況とか、全然わけがわからないだろう。散々鳴いてパニックになって暴れまわったんだろうな」

「防犯カメラに映っていた時間から考えると、だいたい一日放置か」

 風瀬は再びうなずく。

「食べる物も水もない。捕まえた時にはうずくまってぼさぼさしていた。弱ってたんだろう。でも猫にやるものなんかないし。とりあえず水は飲ませたんだが」

「大丈夫だろ。飼い主と再会して安心しただろうし。あの飼い主なら手厚く面倒を見るだろうからすぐに元気になるだろ」

「ならいいんだが」

「まあ、他所の家に無断侵入したんだ。あっちにも落ち度がないとは言えないし。外に猫を出してしまった飼い主の責任ということで」

 風瀬が長いため息をついた。



 天実にはなんとなくわかった。

 タイムマシンなどという荒唐無稽なことを言われても、まず普通の人は信じないだろう。だが、吹聴するようなことでもない。もし相手が信じたとしたら、それはそれで面倒な事になる。だから、わざとつっけんどんな態度で突き放し、怒っている様子を見せて、それ以上踏み込まれないようにしたのだろう。

 何も知らない他の人と猫を巻き込み、更にそういう芝居をしてしまったことが風瀬にはこたえているらしいのも。

 天実は何かを押しとどめるように胸の前に両手を上げる。

「わかったわかった。はい、窓を開けて忘れた俺も悪かった。だからあんまり気にすんな。もう済んだことだし」

 そして指の間に挟んでいた札を再び風瀬に差し出し、強引に手の中に押し込んだ。

「実際被害も出てるんだし、費用の一部としてもらっとけよ。俺も片付け手伝うからさ」

 言いながら、勝手知ったるなんとやらで箒とちり取りを取りに行った。

「ティッシュは出しただけみたいだな。とすると、一番被害がでかいのは…」

 漂う異臭の元を辿ると、なんとそれは黒くて四角い例の箱。何を思ったのかやんごとなきエリザベーテ嬢は、孤独な長い時間の中でここをはばかりと決めたようだ…つまりはトイレ。

「これ?」

 天実は指さす。

「電化製品だろ?大丈夫なのか?」

 所在なげに不精ひげをなでながら風瀬は答える。

「壊れた」

「は?それじゃ多少の損害じゃ…」

「いや、まあ…失敗作だし」

「失敗作って、失敗作を乗り越えて次があるだろ?」

「どうかな」

「どうかなって、お前なあ」

「取りあえずは後で考える。腹減ってるのと睡眠不足で頭が回らないんだ」

「あー…。台所にカップ麺があるし、ポットで湯は沸いているから」

「助かる」

 風瀬はふわふわとした歩き方で台所に向かった。

 仕方がない。天実はビニール袋を用意し、散らかったティッシュペーパーをかき集め、スプレー式消臭剤をスタンバイさせた。

 台所からは湯を注ぐ音が聞こえてくる。



「それはそうと」

 風瀬の声がする。

「なんだ?」

 天実は汚れ物を片付けながら返事をする。

「お前、今日休みなのか?」

「え?あ!もうこんな時間か!」

 天実は一気に血の気がひいた。

「やば!お客さんとの約束の時間!」

 天実は全速力でざっと片付けて手を洗い、大慌てでタクシーを手配した。

「車で行ってもこれからじゃ間に合わねー!」

 泣き言を言いながら上着を羽織る。

「風瀬!タイムマシンを今すぐ!」

 カップ麺を開け、ちょうど一口すすり込んだ風瀬が額にシワを寄せて上目遣いに天実を見、ほおばった口で一言だけ答えた。

「無理」



 外はのどかでいい天気だった。

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