③鳶目兎耳
皆さまこんばんは。
今日は新キャラが出てきます。お楽しみに。
開かれた大きな城門をくぐると、そこは夢に見た美しい異世界が広がっていました。
「……って、町じゃなくて国じゃないですか!」
「防衛の為に壁を作っているだけで町という扱いらしい」
「それにしても広すぎでは……」
因幡さんのファンを生み出した町から馬車で三日。私たちは無事、ツインセントリアに到着したのでした。
途中の旅路をお伝えすると、他の乗車客とおしゃべりしたり、一緒にご飯を食べたり、星空を眺めたり、因幡さんがモンスターを倒したり。
お風呂は川でした。びっくりして三回くらい確かめましたが川でした。
気温が低かったら風邪をひいていたでしょう。恐るべし異世界。
旅人なのに、と怪訝な顔をされたので、旅を初めて一週間ということにしておきました。新人なら大抵のことは許されます。たぶん。
少しずつ家のご飯が恋しく思えてきた頃、私たちはツインセントリアに着いたのでした。
ですが、考える時間があると、ふと思うのです。何も言わずにいなくなってしまい、両親は今どうしているのでしょう、と。
携帯を見てみましたが、充電が二十パーセントだったので慌てて画面を消して以来、触っていません。いざという時に必要になるかと思いまして。
ただ、その時に通知などはなかったと思います。あ、電波のことは考えないことにしていますよ。
考えても仕方のないことはあります。元の世界に帰る方法を求めてツインセントリアに向かっているのですから、今はそれに集中しましょう。
幸い、ひとりではないのです。
隣にはふわふわもふもふした彼がいます。この柔らかな毛とぬくもりが私を安心させてくれました。
ホームシックになりそうな私は、こうして馬車の旅を過ごしたのです。
「図書館に行きたいんだったね。それならほら、あそこが見えるかい?」
御者さんは高台を指さしました。見ると、まるで外国のお城のような大きな建物がそびえています。
さ、さすがにあれは……、わくわくしてしまいます!
「ここまでの旅、感謝する」
「いえいえ。それでは良い旅を」
目を輝かせる私も慌てて礼を伝え、トランクに飛び乗った因幡さんと共にツインセントリアの地を踏みました。
どこもかしこも賑やかです。家々の数は前の町とは比べ物にならず、なだらかな斜面に沿って上へと続いているようです。
ツインセントリアは図書館をてっぺんに持つ山型の町のようでした。
きっと、図書館からは町の全体を見渡せるのでしょう。訪れた者が観光として訪問する理由が垣間見えた気がしました。
行き交う人々もさらに多種多様です。そして、私は気づいてしまったのです。
「因幡さん……」
震える声で彼を呼び、前方を歩くひとを小さく指さします。
「あ、あれはまさか……、まさか……!」
「猫のようだ」
「やっぱり⁉」
「詳しく言うと、人間に猫耳としっぽがついているようだ」
「やっぱり⁉」
そう、私の視線の先には人間姿に猫耳をつけたひとがいるのです。
なんでしょう、あれ!
他にも、犬らしきひと、狐らしき人、狸らしき人などなど。可愛らしい耳としっぽを持つ人たちがあちこちにいるのです。
もちろん、異形と称するのが相応しい姿のひともいますよ。
なんだか目がおかしくなってきました。これこそ異世界! ファンタジー!
「うさぎさんはいないのでしょうか。うさぎさんはどこに。うさぎさんは!」
「落ち着け。目的を忘れるんじゃないぞ」
「もちろんです。うさぎさんの耳をつけた人に図書館の場所を訊くんですよね」
「うむ、全部違う」
耳ビンタ(ふわふわ)を喰らい、私は仕方なく上り坂を歩き出しました。
観光地になっているだけあり、しっかり経路看板が立っているので迷うことはなさそうです。まあ、まっすぐ進むだけなんですけれど。
家々、店々、人々をじっくり眺めながら、因幡さんに怒られるので止まることなく歩いて行きます。
聞いていた通り、ここはとても旅人が多いようで、異質な私も混じってあまり目立つことはありませんでした。
修学旅行で行った清水坂を思い出しますねぇ。
あの時は確か、運動不足が祟って休憩を挟まないと清水寺を拝めなかったんでしたっけ。
疲労のあまり足がもつれ、三年坂で転びそうになった時は、友達が青い顔で助けてくれたのを覚えています。「杜和ちゃんが早死にしちゃう!」と泣かれそうになって私が焦りました。ありがとう、友よ。
そういう過去もあり、私はゆっくりゆっくり坂を上っていきました。それでも到着する頃には息があがり、因幡さんが「若いのに……」と嘆いていました。
彼は九歳。人間でいえば七十歳程度のご高齢です。
ゆえに私のことを娘のように思っているのでしょうが、人間とうさぎさんの時間は異なります。私、八歳の頃に因幡さんと出会っているので、それでいくと私の方がお姉さんなのですが……。
「なんだ?」
「大きくなったなぁ……と」
「なにがだ?」
「気にしないでください。人間のひとりごとです」
「そうか。休んだら行くぞ。図書館はすぐそこだ」
残りわずかのところにいた私は、重い腰をあげて重い足を動かし重……くはないトランクをよいしょと持って最後の一歩を踏み出しました。
「とうちゃーく! 頑張りました、杜和子!」
「健康の為にも、もう少し運動した方がいいな」
「私は褒められて伸びたいタイプだと言いました」
「偉いぞ、杜和子」
「痛み入ります」
言わせたみたいになりましたが、因幡さんはこちらを見て「普段の運動量を思うとじゅうぶんだ」と頷きました。しっかり頷きました。なんだろう、褒められた気がしません。
「さて、大本命といこう」
「元の世界に帰る方法ですね」
私たちは他の観光客や図書館に用がある人に沿って図書館へと近づきます。
城門で見た時ですら大きく見えたのに、ここまで来ると大きいなんて言葉では表せないほど巨大でした。
テレビでしか見たことのない外国のお城……がたくさんご飯を食べて成長する様子が脳裏に浮かびます。杜和子、そんなことあるわけないでしょう。現実を見てください。
外壁は白く、私がお城だと思うに至った塔がいくつもそびえています。
金色の装飾は太陽を受けてきらりと輝き、いくつかの窓にはステンドグラスがはめられているようです。
私は『お城』と『教会』と『図書館』という言葉をぐるぐる回しながら、開かれた木製の扉をくぐりました。
「わぁ……!」
床から天井まで壁一面に本棚が埋め込まれ、隙間なく分厚い書物が保管されています。
経験も知識も乏しい私は『外国の図書館』という考えしか出てきません。許して、異世界。
「圧巻だな」
まん丸お目々を見開いて耳をぴんと立てる因幡さん。これは驚いている顔ですね。
因幡さんを注意されることもなく入れたことに安心しつつ、無数の本の世界をうろうろします。
図書館……なんですよね。この中から元の世界に帰る方法を探すってことですか。
なるほど、なるほど。
「無理では?」
「少しずつでも調べていけば、いつかすべて調べ尽くせるだろう。無数にあるといっても無限ではないだろうからな」
「冷静ですねぇ」
「言っただろう。お前をここから帰すと。その為に来たことを忘れるでないよ」
「それに」と彼は耳を動かします。
「図書館ならば司書がいるはずだ。所蔵されている書物に精通した人を探せば長い道も短くなろう」
「私、因幡さんがいなかったら大変なことになっていたと思います」
心の底から出てきた本心です。
「同感だ。お前ひとりで異世界に来たと思うと鳥肌がたつ」
「因幡さんジョーク再び」
そこはうさ肌です。
冷静なまま飛び出してくる愉快な会話にくすくす笑い、私はカウンターらしき場所にやってきました。
「すみませーん」
「はい? あら、旅人さん。こんにちは」
対応してくれたのは猫耳がついたお姉さんです。美人さんに猫耳はなんとも罪深いことですね……。
白い毛並みの耳に視線が集中しないよう気をつけつつ、「ここに来ればどんなことでも知ることができると聞いて来たのですが」と伝えます。
「その通りですよ。ここは世界中の情報を管理、所蔵する図書館ですから。旅人さんは何が知りたいのかしら? なんでもおっしゃってくださいね」
「えっと、異世界――」
「遠い地から転移してきたという情報があれば教えてほしいのだが」
割って入った因幡さん。おや、異世界というワードはだめだったでしょうか。
「転移ですか。少々お待ちくださいませ」
白猫お姉さんはカウンターの奥へと消えていきます。
その方向に耳を澄ましている因幡さんは「誰が味方で敵かわからない。異世界転移者など格好の餌食かもしれん。安易に伝えるべきではないだろう」と鼻を動かします。
「私たちみたいな存在はとても珍しいかもしれない……と?」
「可能性はじゅうぶんにあるだろうな」
特殊な存在は捕まって実験体にされたり、売られたり、ひどい目に遭うとアニメで教わりました。ここが物騒な世界でないことを祈るばかりですが……。
「でも、見た感じみんな普通に本を読んでいますし、腕をもぎ取られた人もいないようです。こわい噂はデマだったみたいで安心しました」
「本を読むのに目を抉られるというのもおかしな話だからな」
「本末転倒ってやつですね。図書館だけに」
「お前は徹頭徹尾元気でいてさえいればいい」
「呆れてます?」
「感心しているんだ」
因幡さんの耳がぴくりと動きました。白猫お姉さんが戻って来たようです。
でも、あれ? なんだか息が切れているみたいですね。慌てているような、混乱しているような。
何かまずいことでもあったのでしょうか。
ハッ! 先にお代として片腕もぐのを忘れたとか!
「お待たせして申し訳ございません。ええと、遠方の転移情報ですよね。こちらへどうぞ」
カウンターから出てきたお姉さんが図書館の奥へと案内してくれるようです。
綺麗な眉がへんてこに曲がっていますが、大丈夫でしょうか?
「お客様の求める情報は開架にはございませんので、こちらの階段を下った先にお向かいくださいませ」
本棚の道を進み、人の姿がまばらになっていく。次第に誰もいない場所までやってくると、お姉さんが壁を示します。
……はて? 私の目がおかしいのでしょうか。どう見ても壁なのですが。
「し、しばしお待ちを」
なぜかお姉さんが緊張しているようです。なにゆえ?
因幡さんは何も言わずにトランクの上に箱座りしていますが、耳は大きく開いて壁に向いていました。
ぽけっとしているのは私だけのようです。……だ、だって何もわからないので、緊張するにもできないんですよ。一体何が起こるというのでしょう。
ド緊張お姉さんの隣で数分突っ立っていると、どこからか淡い光が壁を照らし始めました。窓にはまったステンドグラスです。
赤、青、緑、黄、橙、白、灰……。濃淡様々な色が合わさり、一筋の光となりました。
光が一点を照らすと、浮かび上がったのは不思議な模様。
それは柔らかに輝くと壁全体に広がり、ひとつの扉を作り出したのでした。
「すごい……」
感嘆の声をあげたのは私ではなくお姉さんです。
「ハッ、す、すみません! 噂には聞いていたのですが、実際に見るのは初めてで……」
「これは?」
興奮で頬を赤く染めるお姉さんに因幡さんが訊きます。
「ええと、図書館の管理者があなた方を招いているのです」
「危険はないんだな」
「それはもちろんです。ただ、滅多に招かれないのでびっくりしてしまって……。不安にさせて申し訳ございません。どうぞ、ごゆっくり」
お姉さんは丁寧にお辞儀をしました。
「あなたは行かないのですか?」
「通れるのは招かれた者だけですので」
つまり、私と因幡さんだけ。
「わかりました。行ってきます」
「はい。行ってらっしゃいませ」
顔には『わたしも行きたい!』と書いてあるお姉さんですが、優しい笑みを浮かべて私たちを送り出してくれました。
扉についた小窓にもステンドグラスがはまっています。金色のノブを掴み、ゆっくりと回す。ぎい……と開いた先に因幡さんが顔を伸ばし、「行こう」と促しました。
外開きの扉は私たちを招き入れると勝手に閉まります。
「階段……」
扉の先は螺旋階段でした。円状に連なり、深い底まで続いているようです。
気になって顔を出しましたが、終着点は見えませんでした。
「危ないぞ」
「ご、ごめんなさい」
「手すりを持って歩くように」
「はーい」
「杜和子、返事は……」
短く『はい』でしょうか。
「元気に言えばなんでもいい」
「あははっ。はい、わかりました」
因幡さんはいつも私を笑わせてくれますね。おかげで一段、一段と下る足取りは軽い。
この先に何があろうと『どんとこい!』という気持ちになります。
いざとなったらトランクぶん投げて逃げようと思います。えへん。
ローファーの靴音が遠くまで響くのが聞こえます。かなり長いようですが、図書館の建物ってこんなに高低差ありましたっけ?
「ここに来るまでの道を覚えているか」
「もちろんですよ。清水坂といい勝負……、いえ、異世界坂の勝ちです」
「図書館を頂上に置く山型の地形。もしかしたら、螺旋階段は地中に当たる部分にまで及んでいるのかもしれん」
「そ、そんな……」
私は因幡さんに決死の形相で叫びます。「階段じゃなくてエレベーターにするべきですよ!」
「その文明があればいいが」
「さっきの扉、絶対に魔法ですよ。文明がなくても魔法があれば可能なはずです」
「では、この先にいる者に提案するといい」
「誰かいるんですか?」
あ、図書館の施設ですもんね。人がいて当然でした。
「……まあ、行けばわかるだろう」
「意味深な言い方は重要人物の特権ですよ?」
「……」キリッ。
「キリッじゃないですよ。可愛い顔です」
頭を撫でると、また歯ぎしりの音がしました。楽しそうですね、因幡さん。
ここまで来たら警戒しても意味がないのかもしれません。
やっぱり『当たって砕けろ』です。
因幡さんと他愛もない話をしながらコツコツ、コツコツ。
私は時折、不思議に思って螺旋階段の壁を見ました。ここにもステンドグラスがはまっているのです。もしかして、ステンドグラス大好きさんが図書館の管理者なのでしょうか。
きらり、きらきら。角度によって淡い光が進む先を照らしてくれます。
光源はありませんが、暗いと思うこともなく踏み出せます。
不安を抱くべきなのかもしれませんが、わくわくしている気持ちを無視できません。
螺旋階段の終わりに何が待っているのか。どきどきの予感なのです。
「……ようやく着いたな」
「疲れましたぁ……」
階段を下るのも結構しんどいんですよ。生まれたての小鹿のごとく膝が震えています。
ちょ、ちょっと座りたいです……。
図書館なら椅子が……。椅子……。
ぎりぎりの私の隣で因幡さんの耳が鋭く動きます。
「ようこそ、お二方」
ど、どちら様でしょう……。誰でもいいんですけど、休憩スペースってありますかね……?
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
「まるで来るのを知っていたようだが、もしやあの扉はあなたの仕業だろうか」
「さようでございます。わたくしは図書館の主に仕える者であり、情報の管理者です」
そのひとは何重もあるローブに身を包み、百科事典ほどの大きさの書物を一冊、持っていました。
若草色の髪は癖ひとつなく美しい。床につきそうなくらい長く、お手入れもさぞかし大変そうです。
白猫お姉さんも美人さんでしたが、このひとは次元が違います。
神様だと言われても納得する神秘的な気配がしました。
けれど、それ以上に目を引いたのは耳です。人間の三倍程度の長さは三角形に伸び、まるで――。
「エルフ?」
「ご名答」
昔、絵本で見たエルフにそっくりでした。というか、正解だそうです。なんてこと。
「お招きいただきありがとうございます。私、杜和子といいます」
「因幡兎佐彦だ」
「トワコ様にイナバ様ですね。失礼ながら、わたしくは名を持っておりません。呼び名が必要であれば『アーキビスト』とお呼びください」
「あーきびすと?」
「専門職の名だ。非常に簡単に言えば、情報の管理者にふさわしい存在だな」
「よくご存知ですね。素晴らしい生き物です」
「……ふむ」
因幡さんは片耳をわずかに動かし、目を細めました。
エルフさん……、アーキビストさんは特徴的な耳に光るイヤリングを揺らし、「お疲れでしょう。お座りになってください」と豪華な椅子を示しました。
す、座っていいんですか、あれ⁉
「まあ、よかろう」
無言の視線に因幡さんから許可が出ました。やった!
「では、お言葉に甘えて……」
「お話は座りながらでもできますからね」
「あ、そうでした。あの、私たち、知りたいことがあってここまで来たんです」
「そうでしょう。なんなりとお訊きください」
アーキビストさん、かなり友好的ですね。安心しました。このまま順調に進むとしましょう。
おっと、その前に重要なことを。
「お代に腕や目を取られたりしませんよね……?」
「はい?」
きょとんと新緑色の目を丸くするアーキビストさん。次の瞬間、「うふふっ」と優雅に笑いました。お、お上品……。
「そういう噂があることは存じております。ご安心を、お代は受け取りませんから」
まさかの無料! いえ、待ってください。父の座右の銘は『タダより怖いものはない』です。そんな父を見て育った私は油断しません。
きっと何か裏があるに違いないのです。
「無料は当然だろう。アーキビストは俺たちが求める情報を持っていないのだからな」
「えっ?」
「…………」
驚いて見ると、アーキビストさんは無言で微笑んでいるだけ。
「さきほど、俺のことを『素晴らしい生き物』だと言ったな」
「えぇ」
「幾千、幾万の情報を持っているであろうアーキビストが動物の名を言わなかった。俺のような存在を知らないと考えるのが妥当だ」
「…………」
「最も、確信が持てずに総称を使っただけかもしれんが、仮にもアーキビストを名乗る者だ。いや、仮にもアーキビストと名乗るから、か?」
「…………」
私の膝の上に飛び乗った因幡さんは凛々しく言いました。
アーキビストさんは依然黙ったまま。私はふたりを交互に見つめ、どうするべきか考えました。
……な、なにも思いつきません。ごめんなさい。
「あなた方は『遠い地から転移してきたという情報』を求めているそうですね」
「世界中の情報が集まるここならあると思ったのだ」
アーキビストさんは深く頷き、こう告げました。「ありません」
「その言葉にお代は必要か?」
「いえ、結構ですよ」
「待ってください、因幡さん。ないのにお代を渡すのがよくわからないのですが……」
因幡さんはくるりと振り返り、「『ない』という情報を得ただろう」と耳を揺らしました。
「繰り返すが、ここは世界中の情報が集まる。ここにないということは、他の場所を探しても意味がないということ」
「それって、つまり……」
彼の耳がぺたりと力なく下がり、ゆっくりと座りました。
「……元の世界に帰る方法はない、ということだろう」
「…………」
因幡さんを撫でていた手が止まりました。彼の言う意味を理解して、咀嚼して、受け止めてしまった。てのひらから伝わるぬくもりが遠く感じます。
大好きなふわふわに置いた手はまるで自分のものではないようです。
黙ったまましばらく。アーキビストさんも因幡さんも、私の様子を窺って何も言いません。
なんとかなる。何事もたぶんうまくいく。帰る方法も見つかるはず。そんなことを考えてここまで来ましたが、すべて幻想だったのでしょうか。
馬車の旅も今しかできないキャンプみたいなものだと思ったから耐えられました。優しい同行者たちが励ましてくれたから夜も眠ることができました。
知らない町、知らない人、知らない世界を進んで来られたのは、因幡さんがいたから。すぐに帰れると思っていたからです。
それが、違った。
……私は甘かったのですね。
アーキビストさんは少し悲しげに私を見つめていました。
そんな彼女に気づき、ふと、乾いた笑みがこぼれました。
「そ、それなら仕方ありませんね。ないものはない……。わかりました。お話、ありがとうございました。行きましょう、因幡さん」
「……んむ」
膝から飛び降りた彼はアーキビストさんを見上げて「失礼する」と頭を下げました。
「お待ちください」
よく通る声で引き留めた彼女は、どこから取り出したか美しいイヤリングを私に差し出しました。
「これはアーキビストの力がこもった記録媒体。どうか、あなたにつけていただきたいのです」
「なぜだ?」因幡さんの耳に力がこもります。
「ここには世界中の情報が保管されている。けれども、全てではありません」
「ふむ?」
「それに、わたくしは情報の管理者ではありますが、閲覧できる範囲は主によって制限されています。聡明なあなたたちであれば、この意味がおわかりでしょう」
聡明な、と言われましても……。
私は足元の因幡さんをちらりと見ます。彼は鼻をひくっとさせて答えます。
「あなたにも知らないことはある、と」
アーキビストさんは深く頷きました。
「杜和子に渡そうとしている記録媒体はその為か」
「いかにも」
ど、どゆことでしょう。私、置いてけぼりなんですが……。
「俺たちを介して新たな情報を得る。そして、まだ閲覧していない情報の海に飛び込んで求める答えを探すのだな」
「わたくしとしても異世界から来た者の情報は収集すべきものと考えます」
「時に、あなたの主はどう思っているのだろうか」
話には出てきますが、それらしき人物はいませんよね。
「わたくしよりも先に、あなた方にご興味を持っておられますよ」
「先に……? ふむ、いいだろう。こちらとしても元の世界に帰れる可能性がゼロでないなら拒否する理由はない」
「感謝いたします」
では、と再び差し出され、私はきらりと輝くイヤリングを受け取ろうとしました。けれど、因幡さんが「危険はないだろうな?」と割って入りました。
「力がこもっているだけで、ただのイヤリングでございます。トワコ様に影響は全くありません」
「……。それだけの意味ではないのだがな」
軽やかにトランクに飛び乗った因幡さん。すっと顔を細めて出発を待っているようです。
二人の会話にあまり入れなかった私は、まだ希望はあるという可能性だけを頭に詰めてイヤリングを受け取りました。
傾けるたびにきらきらと光っています。とても綺麗でずっと見つめていたくなるものです。飾り部分は図書館で何度も見たステンドグラスのようでした。
イヤリング……。そういえば、私は持っていませんね。女子高校生ならばアクセサリーの一つや二つ持っているべきなのでしょうが、あいにく私は因幡さんのおやつや快適空間にお小遣いを使い果たしていたもので……。
そのことに後悔はありませんが、オシャレに興味がないわけではありません。
色々と衝撃の話を聞いたばかりですが、非現実的なほどに美しいイヤリングにどきどきしている自分もいました。
そっとつける。耳にわずかに感じる重み。軽く首を振れば、耳元でステンドグラスを閉じ込めた飾りが輝くのを感じました。
「とても素敵ですよ」
「ありがとうございます」
トランクでまん丸くなっている因幡さんに顔を近づけ、
「どうでしょうか、因幡さん?」
「そういう物をつけるにはまだ早かろう」
「目線が親ですねぇ」
因幡さんの立ち位置はそこなんですかね? ですが、いつもと変わらぬ口調と言葉に安心感を抱き始めたのも事実です。ずいぶん小さくてふわもふな保護者ですが、世界で一番の親うさですね。馬子にも衣装だとしても、やっぱり私は褒められて伸びた――。
「だが」
「はい?」
「よく似合っている」
「…………」
思わずトランクに隠れてしまいました。
元の世界に帰る方法がないかもしれない。両親にもう二度と会えないかもしれない。この先どうやって生きていけばいいのか……。考えれば考えるほど不安も心配も出てくる状況で、私はイヤリングを褒められて嬉しく思っているのです。
こんな顔を見られたら、きっと「こんな時なのに緊張感がない」と言われてしまうかと思い、トランクの影から出ることができません。
慌てて顔をこねくり回し、深呼吸をして立ち上がりました。
ばちりと目が合ったアーキビストさんは穏やかに微笑んで私たちを見ました。
「お二人は良き仲間でございますね」
「仲間ではない」
ばっさり否定する因幡さん。
「家族だ」
その言葉もまた私を嬉しくさせてくれる。安心させてくれるのです。
だから私も笑って言いました。
「世界で一番不思議で仲良しな家族として図書館に留めてもらえるように生きていきます」
「うふふっ、それは楽しみでございます」
そして、アーキビストさんは丁寧にお辞儀をすると、
「ここは『禁忌』とされる情報も保管する図書館。けれど世界にはまだまだ知られざることが秘められています。だから、どうか諦めないでください。わたくしは、アーキビストとしてだけではなく、わたくし個人としてもあなた方のことを応援しております」
「ありがとうございます」
「異世界から来たということは極力隠してくださいませ。世の中は厳しいこともたくさんありますから。よいですか、トワコ様。困った時はちゃんと頼るのですよ」
「はい。頼るのは得意です!」
「わたくしはここから出られませんが、情報の提供はできますから、どうしてもという時はイヤリングを通してわたくしを呼んでくださいね」
「そんなことできるんですか。すごい!」
「食事は三食きちん食べるのよ。環境が変わると食欲がなくなるかもしれないけれど、水分だけはしっかり摂ってちょうだいね」
「もちろんです」
「この世界の文化はご存知? お金や日常のあれそれがこれまでとは異なるかもしれま――」
「アーキビストよ、あなたは意外と心配性なのだな。そして口調はどうしたんだ」
「ハッ! し、失礼いたしました……! ですが、異世界から来た赤子のようなトワコ様を心配するなと言う方が無理なお話でございます! 出来る事ならわたくしもお供したい……!」
綺麗なお顔が苦しげです。アーキビストさん、こんな人だったんですね。
「記録媒体のイヤリングはどちらかというと心配ゆえか。……うむ、こちらの世界に杜和子の味方がいるのは心強い」
因幡さんの耳がゆったりと体につきました。閉じた両目が可愛らしい。
「そうなると名前がないのは不便だな。杜和子、出番だ」
「私ですか?」
「これからアーキビストをこき使うんだ。役職名で呼ぶのはつまらんだろう」
因幡さんが片目だけ開いて彼女を見ます。
察したアーキビストさんが抑えきれない喜びを滲ませて背筋を伸ばしました。
い、いいのでしょうか?
でもまあ、任されたのなら責任を持って応えましょう。
「『スイ』というのはどうでしょうか?」
「スイ、ですか」
「アーキビストはどう考えている?」
「スイとは『翠』。わたくしの姿を染める色から考えた名と推測できます」
「あなたはどう考えている?」
「素晴らしい名前だわぁ! ありがとうございます、トワコ様!」
「かなり簡単な理由ですが、喜んでいただけたのなら嬉しいです」
そして口調は直っていませんね。でも、その姿が彼女の本当だと思ったらむしろ喜ばしいと思うのです。
アーキビストさん改めスイさんはお見送りをしてくれるそうで、図書館の奥へと案内してくれました。
どうやら、あの螺旋階段をのぼるわけではないようです。よかった……。
「この扉の先が図書館の外ですわ」
「かなり下った気がするのだが」
「あれはまた特殊なものですから。気になるのでしたら、またゆっくりお教えいたしましょう。知らないことを知る。それもまた、未知の世界の楽しみ方かと」
スイさんは私にそっと微笑みました。
優しい表情です。消えたわけではない不安が溶かされていくようです。
「それでは、トワコ様、イナバ様、行ってらっしゃいませ」
お別れの言葉を想像していた私は少し驚き、応えることができないでいると。スイさんが丁寧に言葉を紡いでくれます。
「あなた方はここから新たに旅立つのです。この先の結末がどうであろうと、門出であることに変わりはありません。だからわたくしは祈るのです。トワコ様とイナバ様の旅が素敵なものであるように、と」
ぎゅっと手を結び、胸の前で抱くスイさん。
「あなたの物語が幸せでありますように」
「……はい。ありがとうございます、スイさん」
私はトランクを抱き寄せて扉の向こうへ歩き出しました。
振り返り、手を振って言うのはお別れの言葉ではありません。
因幡さんも耳を立てて柔らかな顔をします。
「行ってきます、スイさん!」
「ではまたな、スイ」
「はい、行ってらっしゃいませ!」
お読みいただきありがとうございました。
心配性なエルフ、スイさんのご登場でした。
うさぎさんはいいぞ。