幸福な日1 六年後
幸福な日
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朝の気配につられて目を薄く開く。
夢で何か懐かしいものに出会ったようだ。それ自体は忘れてしまったけれど、わずかに胸が締め付けられる感覚ばかりが残った。また昔のことでも思い出していたのだろうか。
アラタは起き掛けに特有の気怠さに包まれながら、どこかから聞こえる小鳥のさえずりを耳に流れるままにしておく。
まだ朝も早い時間。見上げた天井の隅は眠っているように暗い。
起き上がるか、再び毛布を被ってしまうか。決めきれないままに、彼は微動だにせず自然と眠気が去るに任せる。
そうして過ごしていると、部屋の扉を叩く音がした。
「アラタ。……アラタ」
名前を呼ぶ声とノック音が数回繰り返されて、最後に扉を開く音がする。
アラタはといえば、薄く開いただけの瞼が眠気の重力に耐えかねて、夢の世界へ足を踏み入れる一歩手前だった。
「アラタ、起きて。もう朝だよ。起きないとスープ冷めちゃうよ」
鈴を転がすような声は心地よいので、逆に睡眠を促進してしまう。けれど体を揺すられてしまえば、朝に弱いアラタとて寝たままではいられない。ゆらゆらと揺らされる思考で、ある程度の決意を固めて瞼を開くことにしたのだった。
「おはよ……」
掠れた声で、自分を起こした彼女へ挨拶する。
「うん。おはよう、アラタ。いつも通りのねぼすけだね。早く起きてくるんだよ」
キノウは朝一番の元気な笑みをアラタに向けた後、部屋から出ていった。描きかけの紙片がそっと吹き込んだ風になびく。
白銀の髪が残した彼女の香りに、扉の隙間から朝餉の匂いが流れ込んで混ざる。そんなことで満たされてしまう自分の胸に、アラタは苦笑してベッドから抜け出した。
❆
温かな朝食の誘いにつられて部屋から顔を見せたアラタは大テーブルの席につく。テツロウとナガミは既に着席して、あとは食事が出るのを待つばかり。シンシアが木皿に盛り付けていく料理を、キノウが片端から運んでゆく。
いつものことながら、ここへ来たのはアラタで最後だったようだ。
最後の品が並べられて全員が食卓に揃うと、言い合わせたように各々が同タイミングで食前の挨拶をして食べ始める。
硬めに焼き上げたパンに、香辛料をまぶして炒めた羊肉をのせてひと齧り。肉汁を吸い込んだパンがちょうどいい柔らかさとなり、噛んだ先から旨味が染み出てくる。そうして濃い味を堪能した舌へ、野菜を入れた優しい味のスープを流しこんだ。
「――ん、おいしい」
素直な感想を漏らすと、隣に座ったキノウが微笑んだ。
数年前にキノウがシンシアに教わってから、今では朝食のスープはキノウの担当となっている。それ以外の家事、掃除に洗濯、足腰の弱いナガミの世話まで手慣れたものだ。
六年前、降らないはずの雪とともに、少女がひとり現れた。
寒さに震えるばかりだった彼女は、暖かい場所を求めて懸命に歩み、そしてこの家にたどり着いた。
か弱いお嬢様のようだったキノウが、気づけば十五歳。素朴な村娘の服に身を包んだ彼女は、すっかりタリエ村の――マクギリ家の一員となっていた。
「キノウ、良くできてるわね。おいしいわ」
「ありがとうお母さん。あ、後で洗濯やっとくね」
「だめよ。今日はあなたも行かなきゃいけないんでしょう? そんな時間ないわ」
「そんなに早い時間じゃないから大丈夫だよ。それにアラタとお父さんの服、汚れがひどいんだから。汗臭いし大変だよ」
「そうね……なら手伝ってもらいましょうか」
女同士の間では、何かと共感する部分が多いのだろう。キノウとシンシアは、本当の母と娘のように打ち解けて話していた。
一方で汗臭いよばわりされた男二人はムッと顔を見合わせる。
「ちょっとおばあちゃん! パンだけ食べちゃダメなんだからね。お肉と一緒に食べないと硬いでしょ?」
「うるさいわい! アタシゃパンだけで十分だよ。肉もスープも濃すぎるんじゃ。カー、これだから若い娘は、年寄りの舌を分かっとらん!」
キノウと対角線上に座るナガミは、悪態をつきながら頑固に硬いパンを齧り続ける。
さすがにひどいと、アラタが祖母をたしなめようと考えた時だった。キノウが席を立ったかと思うと、ナガミの隣まで歩み寄っていく。
「しょうがない。おばあちゃんは言葉と行動が不自由みたいだから、私が食べさせてあげるね。はい、ちゃんと口開けて。じゃないと熱いスープがこぼれちゃうよ」
そう言ってキノウは、スプーンの中に溢れんばかりのスープをナガミの口もとまで近づけてゆく。
「ギャアァー! お助けぇ! 野菜スープに溺れさせられるー!」
遅かったか。そんな無念と共にスープを啜る。キノウが祖母に対して行う『しつけ』を踏みとどまらせることができなかった。
この驚くべきところは、キノウが全くの善意で振舞っていること。決してナガミに対する報復行動ではない。時に母でさえ参ってしまう祖母の口の悪さを、キノウは意にも介していないのだ。
ともかくこれでしばらくは祖母もおとなしいだろう。意味もなく人を困らせる言動をしてしまう祖母だ。適度に良い薬となればいい。
ぎゃあぎゃあと朝から騒がしいやり取りを眺めていると、「アラタ」と父の席から声がかかった。
「昨日は遅くまで起きていたようだな」
「うん。絵を、描いてたんだ」
「またか」
テツロウは微かに笑う。その声音に含まれる呆れた調子は、父としては切実なものだったろう。
「なあ、絵を描くってのは……その、いいことだと思うよ。モノの形を把握する眼力が磨かれるし、集中力だって鍛えられる」
「別に何かの修行のために描いてるわけじゃないよ」
「わかってるさ。それが子供の遊びじゃないってことも。ただな……」
「また『勧誘』ってわけなの? 言いたいことはわかるよ。ペンを握るヒマがあるなら、剣の一本でも振るえってことなんだろう?」
慎重な彼の物言いに焦れて、アラタは手っ取り早く核心を引き出そうとした。
暇さえあれば芸術にかまけているアラタの将来を、父親はいつも心配していた。
テツロウはため息をついて、先ほどより柔らかい口調で言う。
「勧誘なんて、そこまでのことを言うつもりはないさ」
「そう? てっきり僕を軍に入れたいのかと思ったよ、テツロウ・マクギリ一等兵は」
「いや、それは――」
言いごもるテツロウの声に、キノウの声が重なった。
「アラタが軍に入るって? そんなのダメ。アラタには無理だよ」
いつの間にか隣に戻ってきていたキノウが、冗談じゃないと言わんばかりに身を乗り出す。
ナガミは野菜スープ地獄から解放されたらしい。小声で、決してキノウには聞こえないように、文句を呟きながら羊肉を食べていた。
「アラタに魔獣や狂獣の相手なんかできっこない。虫だってろくに殺せないんだから、目の前に化け物がいても、殺すのはかわいそうだー、とか言うに決まってるよ」
「殺すより避ける方が無難だと思うだけだよ」
「ただの怖がりなんじゃない」
「そうかもしれないね」
戦いは、自分にとって最も縁の遠い行為だ。戦闘に身を投じる覚悟、他の誰かを害する勇気なんてもの、持ち合わせてはいないのだから。
隣からの責めるような視線を頬に受けつつ、アラタはスープを飲み干す。
シンシアは「本当なの?」とテツロウに言葉を送った。
「……アラタが狂獣と渡り合う姿なんぞ、俺にも想像できんよ。その必要もないと思う。だから俺が言いたいのは、お前はそろそろ自分の生き方を決めなくちゃいけないってことだ」
父の言葉は意外なものに感じられた。父の主張はいつも、「男たるもの剣を持つべし」という平和な現在にはやや時代錯誤なもの。その教えを押し付けるかのように、父は手ずから自分に剣術の指南をしてきたのだった。
「お前ももう十六だ。これからどうするかは、自分で決めろ」
父はそう締めくくり、空の器を残して席を立った。
生き方、だなんて。
その人生の主題ともいうべき事柄について話すには、今日という日はあまりに効果的だった。空白のまま埋められない未来が、この日ほど重く感じる時はない。
今日は結婚式。その前日なのだ。