はじまりの雪6 熱を持った心
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歩く。歩く。
足は重くて次の一歩が限界だ。けれどその限界を、いとも容易く踏み越えて。
帰り道がわからない。けれど見据えた先にあることを信じ切って。
「……ア、ラタ、く――――アラタ、くん」
耳元でキノウが呼びかけている。
「迷惑かけて、ごめんね」
「迷惑なんかじゃない」
「重いよね、私のからだ。ふふ、恥ずかしいなあ」
「キノウのからだなら、重くても持ち上げるよ。二人でも三人でも」
「重いっていうの、否定はしないんだね……」
そんなことはない。今の状況でなければ、もっと軽々と背負えていたはず。
本当に、女の子のからだは軽くて、すぐにでも壊れてしまいそうで。
「ね、もういいよ」
なにがもういいのか。呟いたキノウの顔が見えない。
「私を降ろして。私は自分で、ひとりで歩くから」
「……僕が勝手にやってることだから。ホントに平気だよ。気にしないで」
「嘘ばっかり。でも、あなたは優しいね。……さっき、どこから来たのって聞いたよね」
もう遠い昔のように感じる、数時間前。かまくらに二人宿っていた時のことだ。
「教えてあげる。でも他の人には秘密だよ。知ったらきっと、私を遠ざけるだろうから。……私はね、壁の向こうから来たの」
「壁の向こう……?」
「そう。誰も通り抜けられない、絶対に壊せない、〈揺籃〉って呼ばれてる結界。あなたたちが嫌いな向こう側から来たの。お父さんと、一緒だった。はぐれちゃったけど」
アルトランを覆う蒼氷色の壁、〈揺籃〉。キノウはその向こうから来た、と。
昔話を思い出す。壁の向こうからやってきた侵略の魔王。彼は雪を降らせながら、アルトランに攻め入った……。
「どう? これでも私を、あなたの村に連れて行ってくれる? それとも私を嫌いになっちゃった?」
「キノウは、悪い人なの?」
「どうかな。あなたたちからすれば、そうなのかも」
そっか、とアラタは微笑んだ。
「――じゃあ誤解されないように、僕がついていないと。キノウは寒いのが苦手な、ただの女の子なんだって、言わないとね」
耳のうしろでキノウがはっと息を吸う音がした。
アラタは、もう何度目になるだろうか、空を見る。
この雪は美しい。儚い幻想のようなすがたをして、何ものも寄せ付けないような気高さで見下ろしながらも、一たびこちらが手を伸ばしたなら、降りてきて手のひらに収まってくれる。
降りた雪は人の温かさを奪って、自分は耐えきれず融けてしまうけれど。
キノウはいま雪によって体力を奪われている。
ただの人。か弱い、ただの女の子だ。
魔王とは関係ない。運命だって、似合わない。
「大丈夫だから、一緒に行こう」
「あなたが……私といてくれるの?」
「うん」
前ばかりを見ているからキノウの表情が見えない。それでも、どこか張り詰めていた糸が緩んだような空気は、確かに感じられた。
「よかった――――」
そしてキノウはアラタの背の上で、静かな眠りについた。
「キノウ……!?」
ぞっとするほどに自然な眠りだったので、そのまま死んでしまったのかもしれないと心配したけれど、すぐに安堵の息をつく。彼女は温かい吐息を、自分の首筋に伝えているから。
キノウはほんの少しのあいだ夢を見るだけだ。
せめて夢では安らかに。
「進もう」
ならば行進を続けよう。彼女が生きているのであれば、その限り。
足並みは誰ともそろわない。景色も流れず、変わらず、嘲笑うかのようにそこに在り続ける。
いや、白の世界は人に無関心だ。いるのは勝手にもがいているひ弱な自分だけ。
棒切れの足を、決死の覚悟で動かして。
凍てついてしまいそうな心臓に熱を注ぎ、悲鳴をあげながら働かせて。
「大丈夫……大丈夫……だいじょうぶ――――」
その言葉ごとに一歩ずつ。次を踏み出すための勇気をもらう。
守らなければならない誰かのためなら、弱くてちっぽけな自分でも強く在ろう。
虚勢を張って向かい続けろ。
偽物の爪で大地を掴め。
無き牙で理想に喰らいつけ。
それらは幻想だが、幻想こそアラタが頼ることのできる武器だ。
白い視界は自分を見失うのに好都合。脆弱な自分が見えなくなれば、嘘でからだを塗り固めるのも容易いだろう。そうして幻想にて武装した自分はどこまでも進み続けられる。目指すべき暖かい場所まででも。
それは近くて遠い、少年にとっての帰る場所。遠くて近い、少女にとっての夢の場所。
それでも困難が降り注いで二人を覆い尽くしてしまうのなら。かき消されてしまいそうな存在を精いっぱい世界に示してやろう。
アラタは気づけば大きく口を開けて叫んでいた。意味などない。感情もわからない。ただ無性にそうしたくなっただけだ。
少年にとっての、初めの咆哮だった。
赤ん坊のわめき声のような、動物の遠吠えのような、秩序のない一心不乱の叫び。それが世界の果てまで轟くことはない。自分がいるほんのわずかな範囲にだけ響き渡る、それだけで十分。自分の中の何かを変えることができるのなら。
ただの強がりだってかまわない。
降りしきる雪花。敷き詰められた純真の園。足跡を残し続ける少年。
雪の日は、いずれアルトランの大地に融け消える。
❆
暗い視界だ。いつの間に暗闇に迷い込んだのだろうと記憶を探るが、どうにも頭がぼやけて何も思い出せない。自分は何をしていたんだっけ。
暗い背景の上に、一面の白い景色の残光が絵に閉じ込められ浮かび上がっている。それととある少女との、めくるめく走馬燈。
キノウ。
その顔の持ち主を思い出した。すると途端に心臓が燃えるように熱くなる。
心を焦がす灼熱にたまらず目を開けた。
そこは自分の部屋の、ベッドの上だった。
「帰ってきた……」
あの寒空の世界から抜け出した。そんな実感を、被った毛布の温かさでじわじわと噛みしめる。
アラタが起き出した直後に、部屋のドアが開いて両親が顔を覗かせた。
テツロウとシンシアは驚きながらもアラタの傍まで寄って、それぞれ言葉をかけた。まずは目を覚まして良かったと。そして言いつけを破ったことに対して叱りつけた。アラタも目を伏せ謝った。
「――――キノウはっ!?」
部屋を見回し、彼女の姿がないことを確認する。二人の戸惑う顔を置き去りにして、部屋から出ていった。
「あの子なら――」
うしろからのテツロウの言葉も耳に入らない。
杖を突くナガミの傍を横切って別の部屋を探した。テツロウとシンシアが共同で使っている部屋のベッドの上。
そこに窓を眺める小さな背があった。
彼女が眺める窓の外からは暖かな陽光が射しこんでベッドに落ちる。もう朝だ。
永久に続くかと思われた雪は止み、降り積もったものはその大半が融けて消え、端々に残された白い塊が名残惜しそうに光っている。
寒冷の脅威は、次の朝に雪のわずかな残骸だけを残して、何事もなかったかのように終わりを告げたのだった。
「キノウ…………」
かけた声にも反応しないで、キノウは綺麗な瞳を窓へ向けていた。
外を眺め、雪のない世界に手を伸ばし、泣いていた。
次回の投稿は明日12/18の昼頃になります。
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