はじまりの雪5 凍え
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少年と少女は手を繋ぎ、拙い足取りで寄り添い歩く。
白い壁から抜け出せば、そこは寒風を遮るものもない極寒の世界。
立っているだけで体は固まり、意志がくじけそうになる。ふと疲れを覚えた時、途端に心中に浮かび上がってくるのは後悔だ。
あのかまくらから出るべきではなかったのかもしれない、と。
あそこに居続けていたならば、こんな寒さを味わうこともなかったのに。
「アラタ、くん」
か細い声と、左手を握り返してくる感触が、マイナスな思考を頭から追い出す。
「どうしたの?」
あそこにいてもどうにもならなかった。緩やかに、けれど着実に冷えていく体を、本当に動かなくなるまで放っておくだけ。良くなることなんて一つもなかったはずだ。
「お腹、空いたなぁ」
「ごめん。今はなにも持ってないんだ。村に着くまで我慢して」
「そっかぁ。じゃあ我慢するー……」
力なく緩んだキノウの口調に、焦る気持ちが増す。
白日の下に見るキノウの顔はリンゴのように色づいていた。熱は思っていた以上に彼女の体を蝕んでいる。それと対照的な白銀の髪の一筋が湿った首に貼りついて、すぐにでも融けだしてしまいそうだ。
腹が減ったのはアラタも同じ。今朝飲んだスープがいやに懐かしい。
「村に着けばきっと母さんがスープを作ってくれる。温かくておいしいんだ。キノウも気に入ると思う」
村に辿り着きさえすれば。もうすぐで全部が良い方向に向かう。
なんてことはないはずの、昨日までは当然のようにあった光景ばかり、強く切望している。帰り方を忘れたようだ。べそをかきそうな顔の子供が、必死になって足をさまよわせている。家に帰りたい、それだけなのに。
それは既に遠くぼやけた色合いになってしまった、幻のように思えた。
「あ、あれ……」
隣のキノウがぼうっとした目で雪面の先を見つめている。視線を追うと、白い大地になにかの影がうずくまっているように見えた。
それが視界に入った途端、悪寒がからだを貫いた。
「おとうさん……?」
キノウは呟くとそちらへ歩みよろうとする。
「ダメだ!」
キノウを引き留める。まだそれが何なのかわからないというのに、心臓が早鐘を打っている。
曖昧に思い描いていた嫌な予感は、どうやら外れてくれなかったようだ。
影がおもむろに動いたと思えば、四足の輪郭となる。体の上部で二つ、鮮血よりもなお熱烈な赫が灯っていた。
その存在に憶えがある。動物よりも原初的な欲求に忠実、かつ凶暴であり、この世の条理から外れた証として、二つの赫眼を宿す。
血に狂ったが如きその獣を、人は忌みを込めて、『狂獣』と呼ぶ。
「逃げるんだ……」
あれにかかれば人などものの数ではない。飽くことなく絶やし続ける狂った獣。村に出現すれば、村人を滅びつくすか、己が倒れるまで、殺戮をやめない。
キノウは呆けたように狂獣を見つめていた。その姿に別の誰かを重ねているのか。そうしている間に、遠くの狂獣のシルエットは動き始めている。
「キノウ!」
強く呼びかけると、我に返ったキノウがアラタを見つける。声を狂獣に聞かれたかもしれない。
アラタが「走るよ」と声をかけ、二人は狂獣と反対方向へ駆けた。
動きづらい足場を懸命に踏みつけていく。自分の足や幾重にも身に着けた衣服が、重くて邪魔なものに思えた。
狂獣が本当に追ってきているのかどうかも判然としない。それでも気配は背中のすぐ後ろにまで貼りついてきている感じがする。確認をする余裕はない。
左手にキノウを握っていることだけを確かめて、ただ走った。
風の音と、二人ぶんの荒い吐息。それだけだ。それ以外、何もわからない。
あらゆる感覚が吹き飛んでゆく。白い雪に融けて混ざり込んで。左手の感触だけは忘れないように。
「わ……わたし…………も……だめ……」
やがてキノウは膝をついて倒れ込んだ。繋がったアラタも足を滑らせて尻餅をついた。休止したことでやっと喉の奥からこみ上げる血の味に気がついた。
どれだけ走ったのか。あまり長い時間ではなかったような。
ちゃんと逃げ切ることができたのか、確認しようと振り返った。
目と鼻の先に、巨大な狂獣の体躯が覆いかぶさるように屹立していた。
「――――――あ」
息が止まる。体は酸素を欲しているというのに。呼吸が足りないと脳は喘いで、代わりに視覚を取り上げてゆく。
ぼやけた形の捕食者。対する自分は為すすべもなく立ち尽くす被食者。種の始まりから続いている至極単純な関係、弱肉強食の理がここに成り立っている。普遍のルールからは誰も逃れられない。
けれど。
来ない。
待ち受けているはずの結末は、いくら時を数えようとも。
目を見開き、見上げる獣のからだ。
空を隠してしまうほどの体格は、四本の足で立っていてもなお大きな彼我の差を生む。大きく突き出た顎には連なる刃のような牙。身にまとうのは滑らかな銀の毛並み。恐ろしくも美しい、強靭な存在。
そんな狂獣の、これは動かぬ彫像だ。
狂獣はそのままの姿で凍結してしまっていた。その目に赫眼を怪しく光らせたままに。
「――――――――キノウっ」
長いあいだ忘れていた呼吸を再開するとすぐさま名前を呼ぶ。
その姿に、心臓が一気に収縮した。
キノウは雪に突っ伏したままで反応しない。アラタは名前を呼び続けた。傍まで行って体を揺すっても同じ。体を返して、つららで織ったような白銀の髪を手でよけて、彼女の顔を見つけ出す。もう一度名前を叫ぶと、青白い唇がわずかに動いた。
「…………いた……い………。おと……さ……、おかあ…………」
言葉にならない声を発している。曖昧な形では誰にも届かなくて、風にさらわれ散り散りになる。
キノウは激しく消耗しているようだった。表情に生気はなく、もう、立ち上がる力すら残っていない。
風の中にかすれた息遣いが聞こえた。それは凍り付いた彫像から発されているようで、見れば狂獣の赫眼がこちらを追うように動いていた。前足の先は凍結を解こうと震動している。狂獣はまだ生きていた。
「……僕に掴まれるかい?」
残留した恐怖を抑えつつ、アラタはキノウの腕を自分の肩から胸の前へ巻きつけた。彼女の体勢を変えて試行錯誤して、やっとの思いで背負い込む。
「キノウ、もうちょっとだよ。頑張るんだ」
そうして狂獣から離れて、また歩みを再開する。
足の重みはいくらか増えたけれど、そんなのは関係がない。自分はまだ歩けるのだから。彼女の分まで、動き続けないと。
この時のアラタは、自分でも驚くほどに自己犠牲の塊となっていた。普段は呼び起こされることのない熱が、今は心底までかよっている。
だって、嫌だと思った。
キノウが雪の上に倒れた時、その光景が何年も前からそうし続けていたみたいに、とても自然なものに見えたのだ。瞬間、死というイメージをつぶさに描いた絵画が立ち現れたように感じた。
まるで、そうなることが決まっているようだ。
運命のようだ。
――自分の運命が決まっているとして、それを、受け入れられる?
彼女に問われたこと、先ほどは真意もわからず流してしまった言葉が、実体をもって突きつけられている。
「いやだ。いやだ。いやだ。そんな運命なんて知らない。信じるもんか。従うもんか。だってキノウは何も悪くない。一人ぼっちで凍えていただけじゃないか。暖かい場所に行きたかっただけなんだ……!」
否定をこぼす。今にも消えてしまいそうな女の子を守りたいという、義務感めいた意志の炎にありったけの薪をくべて。それを抗うための原動力にする。
運命なんて陳腐なものに彼女をさらわれてたまるものか。