はじまりの雪4 運命の少女
固まってしまった。十秒くらい。どうにもやり場のない空白ばかりが二人の間を占拠している。
座り込んでいる少女を、心を飛ばしたように見つめる。
やがて空白に耐えきれず押しつぶされる前に、アラタは声を発した。
「……………………あがっ」
さながら断末魔のようだった。
なぜこんなカエルが潰れたような声を発する羽目になったかといえば、寒風にさらされたアラタの口が思い通りに動かなかったから。
そして目の前の少女が言葉も忘れるほどきれいで、緊張してしまったから。
「こんにちはっ……!」
格好悪い自分に赤面しつつ普通の挨拶をした。高揚感も入り混じっていた。
勢い任せの挨拶に、少女はびくりと肩を震わせたものの、おずおずと口を開く。
「……こん、にちは」
ぎこちなく転がす、鈴の音色。
少女はどこか窺うような上目遣いで、穴から顔を出すアラタを見つめる。
自分と同じ年頃の少女だ。部屋の暗さのせいで断定はできないが、髪色は自分と同じ黒ではなく、白っぽい色をしている。村の中では見たことない髪色だ。長い髪は途中で一本にまとめられている。
服装は毛織物の暖かそうな上下。白と青を基調としたコートが体をふわりと覆っている。都会の人が着るような、鮮やかで質の良い服飾だ。
「ねえ、入れてもらってもいいかな? 外は寒くって」
アラタは言う。偶然にも地に平伏して最大級の礼を尽くすに近い格好で。素手で触れる氷雪は冷たく、融け出した水が膝から染み込み始めている。
少女は口を開かなかった。
「…………? おーい……」
少女がアラタに対して抱いた興味と驚愕は、一瞬限りのものだったようだ。今や少女は隠れるように、抱えた膝に顔を押しこんでいた。
無視されたアラタは途方に暮れる思いだった。返事がなければどうしていいかわからない。
「僕、この森の近くにある村に住んでるんだ」
「……そう」
「君のことは見たことないけど……同じ村の人じゃないよね、きっと。どこから来たの?」
また少女は口を閉ざす。膝を抱えたまま、肘と手首の間に額を押し付けて。自ら視線を遮り、あらゆるものを見たくないと駄々をこねるように。
「……何か困ったことがあるなら、力になるけど」
かける言葉は、それで最後。返事がなければ自分は去るだけ。
少女は、こちらを見ようともしない。閉ざした心に善意の言葉は虚しく響く。
お呼びでなかった、と諦めようとしたその時だった。
「入って、いいよ」
少女の声だった。うつむいたまま発せられた小さな声は、狭い室内ではっきり聞こえた。
アラタは折れそうだった心が温かさに包まれた心地で、ほっと笑みをこぼしながら少女の隣に腰掛けた。
「君は一人?」
「うん」
「名前は……」
訊こうとしたところで、自分から名乗った方がいいかもしれないと思い直す。
「僕はアラタ。アラタ・マクギリだ」
「私の名前は、キノウ・ホワイト」
少し顔を上げて、彼女は言う。
キノウ。その壊れ物のような文字列を、アラタは丁寧に復唱した。
「きれいな名前だ。僕の名前とは違う響きだけど、なんだか白くてふわふわで、懐かしい感じがするなぁ」
「そう。よくわからない」
「キノウはここで何してるの?」
「ここで……ううん、ここにいるだけ」
「いるだけかぁ」
間延びしたような不思議な空気感の中に二人はいた。
目に入る外の景色は、背の低い隙間から見える小さな世界ばかり。少しの光が差しこんでくることを除けば、部屋の中は外から隔離された別世界も同然だ。
アラタたちは時間が流れるままに過ごし、たまに話をした。ほとんどがとりとめもない、思いつきばかり。この雪の家はかまくらと呼ぶのだということも、キノウは教えてくれた。
緩いテンポの会話だ。人より少し遅いくらいの歩みが、二人の間だとちょうどいい。その中ではキノウも少しずつ柔らかい表情を見せてくれるようになった。
アラタは目を伏せがちなキノウの隣にいるだけだ。傍にいて感じられる体温として。彼女が寂しくなりすぎないように。
「外、ずっと雪が降ってるね」
いつしか緊張も解けたアラタが自然と口にする。
「そうだね」
「知ってる? 最後に雪が降ったのって、百年以上も前らしいよ。僕の父さんもおばあちゃんも、今日になるまで雪を見たことがなかったんだって」
「アルトランでは、雪が降らないものね」
「今日みたいな日には魔王が来るんだって、みんな信じてる。でも僕はそんなの嘘だって思うよ」
だってキノウみたいな人と出会えたからとは、さすがに格好つけすぎていて、口には出せなかった。
「このまま降り続ければ、この時間も続くのかな……」
届くか届かないかくらいの声。
言ったあとで気恥ずかしくなって、こっそりキノウの反応を窺う。
寒そうに折りたたまれた彼女の手足。腕に乗せられた彼女の横顔。今まで気づかなかったけれど、彼女の唇は小刻みに震えていた。
「私は、寒いのはいや」
その目は、かまくらの小さな穴から射しこむ微かな光ばかりを見つめている。キノウはそこに手を伸ばした。
そうすると手に握られていた宝石が零れた。彼女の細い首から宝石が提げられていることに、その時気づいた。
濃紺の夜空に白雪をちりばめた風景のような宝石だ。まるで今日の空模様を溶かして結晶にしたようだと感じる。
その色合いは、村から見た光によく似ていた。
あの光は、何のために自分の目に届いてきたのだろう。
「大丈夫?」
「寒いのは怖い。みんな私から離れていなくなって、私はひとりで震えて、冷えていって」
「雪にあたりすぎたんだ。僕の上着を使って」
「ねえ、あなたは――――自分の運命が決まっているとして、それを、受け入れられる?」
「ウンメイ?」
自分を見つめるキノウの眼が、その時はどこか虚ろだった。
上着を羽織らせた手をそのままキノウの額へやる。
「ひどい熱だ」
「答えてよ」
「よくわからないよ、キノウ。君の言ってることは難しくて」
「……あなたはきっと幸せな人なんだね。自分の体と心が自由なんだと信じてる。でもね、そんなのは、知らないうちに決められているものなの。大きなものには抗えない。最初から最後まで、運命は決まってる。私も、もうすぐ……」
うわごとのように言うキノウが、先ほどまでとは別人に見える。きっと熱で火照った頭がそれを言わせているのだと、アラタはキノウを心配そうに見やった。
「本当に大丈夫? 家はどこにあるの?」
「ずっと遠くだよ」
「帰れるの?」
「帰れない。もうどこにも帰れなくなっちゃった」
「それって…………」
何かを返そうとして、開けた口からはなにも出てこなかった。その残酷な事実に一拍おくれて気づいた。幸せな自分にとって、それは想像だにしないことだったから。
目の前の少女はひどく簡単に、どこにも帰れないと言った。
それにはどれだけの諦めが込められていたのだろう。
「私、もう行くね」
隣でキノウが手をついて這っていく。億劫そうに、危なげな足どりで。
帰る場所もないのに、どこへ。
「暖かい場所まで行かなきゃ」
キノウがふらついた拍子に、肩にかかっていた上着がアラタの傍に落ちた。
「待って」
アラタはキノウの肩を引き、上着を拾い上げて言う。
「よかったら僕の村に来てよ」
「連れて行ってくれるの? あなたが?」
ことりと首を傾けたキノウへ向けて、アラタは深く頷いた。
キノウのゆく道に自分も付き添っていくことは、彼女を一目見た時から決めていたように思う。ならばこの数奇な巡り合わせと、芽生えた感情が、運命と呼ばれる流れの始まりなのかもしれない。
彼女の終わりゆく運命を、自分が救う。
村で見た光は、きっと助けを呼ぶキノウからのサインだったのだ。
外では未だごうごうと雪が降り続き、収まる気配はないけれど。




