破音作戦1 カフチカの戦い
ご無沙汰してます。海洋ヒツジです。
とりあえず新しいエピソードが完成しつつあるので、更新を再開していこうかと思います。
それと小説ページに表示される各話タイトルを、エピソードの区切りが分かりやすいように調整してみたので、これからはこの方式でやっていこうと思います。
登場人物紹介も若干更新してます。合わせてご覧ください。
破音作戦
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川の水面に、震えるような波紋が浮かぶ。
リレー川はアルトランの北部を水源とし、南西方向へと流れる、アルトランでも有数の大河だ。平地を滔々と下り、崖の遥か上から流れ落ちたリレー川は、崖の周辺に栄えるカフチカの町を通り抜け、石橋をくぐり、海へと流れ出る。
川辺のカフチカにはリレー川を渡るための橋があり、普段であれば両側から往来する旅の者でごった返すものだ。壮大なカフチカの滝を間近に見るため、わざわざ遠方から観光に来る者もいるほど。そういう者への商売として物珍しい品物を売る土産屋があちこちに並んでいるのも、この町の性質を表す情景の一つだった。
その若いアルトラン兵も故郷で待つ幼い妹への手土産にと、モザイク調の橋と滝が描かれた入れ物のキャンディを購入し、こっそり宿舎の背嚢に忍ばせていた。軽い気持ちで買ったはいいが、渡せる目途がつかないのでどうしたものかと思っていたところだ。
現在、カフチカは血肉が舞う、焦げ臭い戦火の舞台となっている。
この町には五万のアルトラン兵が駐留していた。住民の退去は二週間ほど前に完了しており、町の守りは万全だった。
広い橋がかかるこの場所は交通の要衝としての価値が高く、侵略戦争であればカフチカが狙われることは必定だ。
守備を固めた町に、カドラムもまた十分な戦力を以って正面からの突破を図った。そういう風に見えた。
その若い兵士が配属されている崖下の石橋上の防衛線には、まだ戦火は及んでいない。崖上の第一防衛線は会敵の魔想信号を放ったきりで、その後の状況は分からないが。
「何の音だ?」
靴紐を結び直そうとした時、彼は異変に気付いた。
せせらぎに紛れ、微かに聞こえてきている。耳の奥を焦がそうとする、金属が擦れるような高い音。
かの音を過去に一度でも聴いた者ならば、誰もがこの音にまつわる出来事に恐怖し、一刻も早い逃亡に走ったことだろう。
だがこの川辺の町にそうした兵士はおらず、脅威を想像すらできなかった。いや、如何なる脅威が訪れようとも、魔想がある限り対抗できるのだと信じていた。
「音が大きくなっている……近づいてきているのか?」
「心配いらんさ。何かあれば前線から魔想の信号弾が発射されるはずだろう?」
「そうだな……――――おい、大丈夫か?」
若い兵士は、隣の気分が悪そうな兵士に声をかける。その兵士は土気色の顔をして、額には脂汗を滲ませていた。
「クソ、気持ち悪い音が頭に響きやがる。俺は昔から頭痛持ちなんだ。雨の日なんかは特にひどい。今日は降りそうな天気でもないってのに。この音、妙だ……う、ぼぇ」
気分の悪そうな兵士は慌てて振り返り、胃液を吐き出してしまった。
「おい、しっかりしろ……」
若い兵士自身も、溜まりつつある不快感を覚えていた。熱に浮かされたように思考がぼやけ、視界が遠くにあるように感じる。
靴紐をほどいたままだということに気づき、紐を持った。作った穴に紐を通そうとするのだが、数秒後、気づけば紐を手放している。ぼうっとして忘れていたようだ。形の崩れた紐を持って、結ぼうとする。形を崩しては、再度結ぼうとして、また忘れる。
ほどけた靴紐が、いつまでも結べない。
こんな多少細かいだけの作業にも集中が保てないなど、おかしい。
「兵士たちよ! 気をしっかり持て!」
隊長の激が兵士たちに振り撒かれる。この兵士以外にも、似たような体調の不具合が出始めていた。嘔吐する者もおり、辺りに饐えた臭いが漂った。
音が近づくにつれて集中を乱す兵士は増える。
そしてある一人が魔想障壁を張ろうとして、その魔想が発動しないことに気づいた。
「隊長! 魔想が……」
「一般兵は魔導兵の耳を塞げ! 我々は既に敵の攻撃を受けている!」
急ごしらえの対策。それはささやかな期待以上に兵士の不調を緩和した。やはり不調の原因は音だったのだ。
だがその時、敵の集団はもう目視できる距離にまで迫っていた。
「前方にカドラム軍を発見! この石橋へ真っすぐ向かってきます!」
「もう防衛線を突破したというのか!?」
崖上の防衛線から、町の中心へと続く坂道上に配置された兵士の数々。その攻防がどうなったのか、考えを巡らせる必要すらない。
魔想信号は確認できなかった。幾多に張り巡らされた策は、この音を前に封殺されたのだ。
「魔想準備!」
部隊長の命令が下る。混雑した音の中、細かな命令を通すにも手間がかかった。ようやく各種の準備が整った頃には、カドラム軍は橋の至近にいた。
不快な音の源であると思われる機械もまた彼らの後方に見えていた。平たい丸型の箱の上に黒い巨大なラッパが乗せられた機械。自律的に移動をするため、それ自体が乗り物となっているようだ。下方のフロントガラス越しに運転手らしき人間が見える。
石橋上のアルトラン軍は、かろうじて使える魔想で前衛に壁を、後衛からは火球による射撃を展開。耳を塞いでいるとはいえ金属音の中、その威力は半減していた。
だが音を聴いているのはカドラムの兵も同じこと。何らかの対策をしているのか、アルトラン兵士ほどではないが、その行軍の足は機敏とは言い難いものだった。
疲弊してゆく両軍の兵士。飛び交う怒声。着実に積み上げられていく死体。
戦場に満ちる音は悲痛の叫びにも似て、そのカフチカの石橋で行われる戦いは、狂乱に満ちていた。
「臭ぇ戦場だ。どいつもこいつもゲロを垂れ流しやがる。腕まで腐っちまいそうだ」
カドラムの男が一人、傲慢にも味方を押しのけ前へ歩み出る。異様に大きい左手で耳を掻きながら。
その左手は鋼鉄製だった。なくなった左手の上から取りつけられた機械の腕。さらにその男の背部、腰、足などにも同じような鉄が取り巻き、男の全体像を本来より大きく見せていた。
「それにこの音、前聴いた時より酷ぇな。煩わしい耳栓をつけても、これじゃ意味ねえ。〈蓄音機〉ってのは汚ぇ地獄を振り撒く機械の名前だったか」
男は後方で怪音を鳴らす黒い角笛を睨んだ。その音が、彼にとっても忌々しいものであるというように。
彼――かつて同じような異音の戦場を経験したギアーノ・ラオスは、ようやく掻き出した耳栓をおざなりに放り捨て、おもむろに空を仰ぐ。
「あぁ……ここは糞溜めだ。早く終わらせて、静かな場所で肉でも食いたい……」
思いを馳せる切実な表情で、ラオスはゆっくりと正面に視線を戻す。視界に入ったアルトラン軍の存在が彼の表情を段々と捻じ曲げ、その顔が残虐な笑みに染まりきった時、彼は走り出した。
外骨格によって強化された足は、他の兵士を軽々と追い越すスピードで目的に向かう。
橋にめがけて一直線に走るその兵士へ、アルトラン魔導兵は火の弾を浴びせる。だがラオスは足を止めず、自身に降りかかる魔想を機械の左手で払い落した。
アルトラン軍が至近に近づいてきた敵のために地表面に貼り付ける炎の網も、ラオスは驚くべき跳躍力で飛び越える。そして複数の魔導兵によって展開された魔想障壁を、鋼鉄の腕で打ち砕いた。
これによりカフチカの防衛線は崩壊した。魔想障壁を壊したラオスが暴虐の限りを尽くすと、その隙にカドラム兵も続いて流入する。音のために本来の威力を出せない魔導兵はカドラム兵を撃退できないまま、威力の変わらない銃弾に貫かれていった。
アルトランの若い兵士の元にも暴虐の戦士は迫った。機械腕は兵士の首を持ち、その体を宙に浮かせる。
「幼い妹が! 俺の帰りを、待ってるんです……。だからどうか、助けて……」
「…………妹というのは、お前と同じアルトラン人のことか?」
若い兵士が震えながら頷く。その返答に、ラオスは笑みを深めた。
「そうかァ。安心しろよ。妹も同じように、俺の手で殺してやるからよ」
そして、命の軋む音が鳴り始める。
アルトランの兵士は思った。カドラムはあくまでこちら側を滅ぼすつもりなのだと。一片の慈悲もなく、ただ目障りな虫を焼くように。
妹へ渡す土産のことを気楽にも考えていた、自らの愚かさを知った。そんな遥か遠くの極小の可能性を考える暇など、この戦場にはない。
知った時には、その首は胴から離れ、妄想も止まった。




