はじまりの雪2 むかしむかしの伝説
「じゃあ俺はそろそろ出かけるとするよ」
テツロウは席を立つと、外出の身支度を整えていった。シンシアもいそいそと席を立ち、暖かそうな上着や帽子をテツロウに差し出す。
最後に彼は一振りの剣を握りしめた。
「どこに行くの?」
アラタは何か期待するような目つきで父親の方に寄っていく。
「雪の原因を少しでも確かめないとな」
「そんなのどうやって……」
「これが普通の自然現象なら確かめようもないが、もし他の何かが原因なら、目で見れば分かる」
雪は、自然現象のはず。
けれどアラタには、それ以外の可能性が自ずと思い出されていた。
「侵略の魔王?」
「お、よく勉強してるじゃねえか」
テツロウは満足げな笑みをアラタに向ける。
「これを起こした得体の知れない誰かさんがいるとすれば、恐らく北の森。あっちの空が他より濁っている」
「僕も行きたい!」
「……駄目だ。遊びに行くわけじゃないんだぞ?」
当然、遊びなどで父が剣を携えることはあり得ないと知っていた。
村で唯一、軍役経験のある父だ。自分がみんなを守らねばと思っており、こういった非常事態に対する責任感は人一倍強い。
アラタはがっくりと肩を落として諦めるしかなかった。
「森は危険なのよ。恐ろしい狂獣が出るんだから。アラタにはまだ早いわ」
シンシアにも念押しされ、もはや家でじっとしていることを余儀なくされる。
そんな時、アラタは背中に極寒の視線を感じた。振り返って見れば、微小をたたえたナガミと目が合う。
「アラタ。まさかアタシから逃げようとしているのかい?」
どうやら祖母は、昔話を聞かせてやると言った途端、アラタが家から出たがったことに腹を立てているようだ。面倒がって自分から逃げようとしているのではないかと。
白状すると、祖母の読みは当たっている。
「だっておばあちゃんの昔話、何度も聞いて飽きちゃったんだもん」
「だからって逃げることはないだろ? それとも何かい、年寄りの長話には付き合う意味がないとか思ってないだろうね。おばあちゃんの話は嫌いかい?」
「そう言ってるんだ――」
「このお馬鹿!」
ナガミはそばに立てかけていた杖でアラタの頭を殴りつけた。
「いってえー」
「大事な話なんだ。何度でも聞いて、ようく頭に刻み付けておくんだよ。友達にも教えておやり」
「誰もそんな昔話、聞きやしないよ……」
「いいから。こっちに。お座り」
癇癪を起こすと暴力を振るう人だ。子供相手に容赦がないというか。正直なところアラタは、そんな祖母が少し苦手であった。
退屈な話なんて、こんな特別な日に聞くものじゃないというのに。
大人しく座らされるアラタに、テツロウは頼もしい笑みを残していった。
「行ってくるよ。この家を頼んだぞ、アラタ」
❆
――雪がふる。
叛逆の徒が一人、終末を携え、白く埋めつくす漂白の世界を行く。その身は裏切りに染められ、醜い虚偽を周囲に振り撒いた。
選ばれし英雄が一人、栄光を携え、神聖なる大地に立つ。その身は神から授かりし愛に満ち溢れ、周囲にもその愛を分け与えた。
巡り巡る闘争の果て、神の威光は雪を晴らし、白の脅威は消え去った――
これがこの大地に伝わる物語。その終末風景。
この象徴的な最後の戦いから、争いは『白の戦争』と呼ばれる。
ある時、魔王は恐ろしい軍隊を引き連れ、雪を降らせながらアルトランを侵略しようと迫って来る。彼の圧倒的な力に民は絶望したが、そこへ一人の英雄が立ちはだかった。
英雄は悲しみの人だった。最愛の人を魔王との戦争で失っていたのだ。二度と同じ悲しみを生むものかという絶望への祈りが、彼に戦う力を与えた。
かくして両者は衝突する。
互いを喰い合うかのような混沌とした力の応酬に、大地は割れて嵐が巻き起こった。そのあらゆるものを終わらせる決戦は、この世の滅亡とも見紛う。
やがて嵐が収まると、雪を降らせる雲に晴れ間が差した。生き残ったのは英雄だった。
アルトランは国を守る戦いに勝利した。
だがその代償は高くついた。
〈揺籃〉と呼ばれる、大地を断絶させる檻。
魔王が残した最後の呪いはアルトランを覆った。それは壁となってあらゆるものを弾き、何者も通り抜けることは叶わない。
以来、アルトラン王国は孤独の地となった。周辺諸国との国交は途絶え、外から物や技術が流入することはなくなった。
そして闘争の終結から今日に至るまで、雪が降ることはただの一度もなかった。
❆
クリーム色の空模様に晴れの兆しはない。濁った雲の隙間からはいつまでも雪が滑り落ちてくる。
寒風吹き付ける外に立ったアラタは、このただならない天気をまたも見つめ続けていた。夜更けの時間帯のような静寂を纏う村に、やはり人影はない。
ナガミから聞く昔の戦争の話は、あまり現実のことに思えない。いつ聞いてもそうだ。
かつての戦と同じ不吉な空。おとぎ話が本当なら、どこかに恐ろしい魔王がいて、今もアルトランを攻め滅ぼそうと行軍しているのかもしれない。
「今日はよく見えないなぁ」
北にそびえる〈揺籃〉は、雪の向こうに霞んでしまっている。
壁に近い場所で暮らすタリエの村人たちにとっては、それは太陽よりも、星よりも、よく目にする風景の一部のはずだった。
敵から受けた呪いが、今では日常の一部。改めて考えると奇妙なものだ。
透き通る蒼氷色の壁からは特殊な力場が発生していて、近寄ろうとしても見えないものに阻まれる。遠くからの砲撃すら、壁に達することさえできない。さらに力場は景色すら霞ませて、その外側にあるものを判別できなくする。
壁によってアルトランは外に出られない。
だが壁によって、外からアルトランに侵入することも不可能なはずだった。
己を縛る鎖が、己を守る盾となっている。これもまた奇妙な話。
その〈揺籃〉は、今は見えない。
「何だろう。胸がざわざわする」
胸の鼓動は何を示す?
雪の向こうで、もし本当に壁がなくなっていたら。魔王がアルトランを侵略しようと歩みを進めているのなら。
この胸のざわめきは、その予感なのか。
北の森にアラタは視線を向ける。青々と茂る木の群れは、今はどれも白髪かぶり。
いずれ来るかもしれない脅威の予兆に、しかし不思議と嫌な感じはしない。
何故かは分からない。確かなのは、そう感じる自分がいることだけ。
空が、静かに降りしきる雪の天井が、寂しげに映るからだろうか。
森を眺める長い時間の中、アラタは遠い木々の隙間に瞬く光を見つけた。
「なんだ、あれ……」
不思議な光の明滅はアラタの関心を捉えた。チカチカと不規則に、消え入りそうに弱々しく灯る。そうして数秒後には本当に途絶えてしまった。
雪で視界は濁りきっている。あんなにも遠くの光が見えるはずがない。
それでも勘違いと見過ごせないのは、あの森にはテツロウがいるはずだからだ。
「父さん……何かあったのかな?」
その時アラタの足は、自然と森の方へ向かおうとしていた。
気づいた時には、この後自分が何をするか決めている。
「……よし。行こう!」
テツロウが気がかりだ。
いや、そんな理由じゃない。屈強な父のことは知っているし、帰ってくることを信じている。
だからそう、自分はただあの光の正体を知りたいのだ。
大丈夫だ。ちょっと確認するだけ。
どこか高揚したような、思い切った足どりで森へと歩を進める。ざっくざっくと雪を踏む、靴裏のリズムに心を軽くして。
導かれているのか。引き込まれているのか。
奥底にて運命は待つ。