/日々の終わり3 残響
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その兵士に初めて会ったのは、雪の日から数日が経ったある日。
晴れ渡る空は先日の雪の脅威など忘れたかのよう。雪に当たり続けたアラタの体にも後遺症らしきものはなく、その日も外へ飛び出していった。
行き先は森の方角。幼いアラタは、未だベッドで寝込んでいるキノウに、川辺に咲く花を持って行ってやろうと思ったのだ。
だが道中、異変は不意に起きた。
頭痛、吐き気、そして体の中心から燃え上がるような感覚。気づけばアラタは地面に伏せて身をよじっていた。
――あれ、なんだこれ。どうなって……わからない。僕は、なにしてるんだ。ぼくは、なんだっけ?
自分が何者であるか分からなくなる。狂気がチリチリと頭を焦がし、端から記憶を侵食し始める。
己の内側に潜む何かが切望している。早く、肉体に出させろと。
土を掴む指先から鋭利な爪。顔や腕、あらゆる場所から灰色の毛。体勢は曲がり、二つの足で立つことは忘れた。だがこの時のアラタには、自身の体の表面に起きる変化に気付く余裕もなかった。
自我は、人と獣、二つの肉体の間で混濁する。どちらが本当の自分なのか。
違う自分に戸惑い、混乱し、捻じれる迷子。
そんな時、声が聞こえたのだった。
「大丈夫だ、怖がることはない。何も考えず、自分の中を空にするんだ。落ち着いて、ゆっくり、ゆっくり……。次に風が吹く時まで待っていろ。じきに本当のお前が、お前を迎えに来る」
その時も、兵士の声は毅然としていて揺るぎがなく、だから信じることができたのだ。
❆
そんな懐かしい記憶を思い出した。
かつてと同じ。一度は空にした器が、自分の存在で満たされてゆく。
そうして戻ってくる。恐ろしい姿も記憶も悪い夢だったかのような、混じりけのない自分。
再び風を感じ、アラタは目を覚ました。
最初に目に入ったのは、薄明るい空。夜明けの空だ。
「気がついたか」
声が聞こえた方へ顔を向けると、そこには焚火に当たる兵士の横顔があった。
朴訥な男だった。短く切りそろえた黒髪に、張り詰めた顔。軍人ということを差し引いても、彼ほど遊びを排除した人間はいないだろう。そう感じさせるほど、彼という人間性に特徴はなく、故に研ぎ澄まされている。
彼のことは知っていた。古い記憶にある。会ったことは何度か。話をしたのは数えるほど。
「……カムル、さん?」
その兵士――カムルは一瞬間を置きつつ返答する。
「憶えていたか。久しいな、アラタ・マクギリ。随分と背が伸びた」
懐かしい再会の割に、彼は視線を寄越すことはなく声だけで返した。
カムルは度々タリエ村に派遣されてくる兵士だった。その目的は様々だが、主には周辺で目撃された魔物や狂獣を討伐するために。
彼のみならず、アルトラン軍は魔物や狂獣の討伐のため、あらゆる場所へ軍を派遣し、その際には近隣の町村でキャンプをする。
雪が融けたころ、カムルは村に来た。その時に出会った。
アラタは重い頭を起こした。まだ調子はおぼつかない。
「いえ……あなたは恩人ですから。調子の悪かった僕を救ってくれた」
「瞑想は続けていたようだ」
「それは、あなたに教えられたから……」
アラタが日課としている瞑想。あれは体調が優れない時の回復方法としてカムルに教えられた精神統一の手段だった。最初に出会った六年前以来、ずっと続けている。
それが今回も自分を救ってくれた。まさかこんな時にも役に立つなんて。
自分の身に起こった出来事については憶えている。その目に見たことも全部。
聞きたいことが山ほどあった。何から切り出すべきか。混乱から立ち帰ったばかりの心は、まだ少しの準備もできていなくて。
「…………ここは、どこですか?」
「タリエ村ではない。そこから一山ほど離れた場所。安心しろ、狂獣はいない」
「そう、ですか」
木々の中にひらけた広場。ここはタリエのものとはまた別の林なのだろう。
「村は……」
アラタは静かに問うた。その答えを知るのは恐ろしかったが、もはや怯えの前に諦観があった。
「お前以外に助けられそうな者は見なかった。村人も俺の仲間も、狂獣に喰われたか、狂獣と成ったか……今やあの村は狂獣の巣だ」
淡々と事実のみを告げるカムル。
「……そうですか」
アラタに驚きはない。想像した通り、いや目にした通りだ。血の惨劇も、狂獣と化した村人の姿も。
嫌な光景を思い出す。父親の最期と、母親の服を着た狂獣。まるで現実味がなく、どう受け取ればいいのかも分からない。悲しむことも、今は上手くできない。
ここにいるカムルも、どうやら新郎の護衛に含まれていたらしい。結婚式の時は気づかなかったか、見回りにでも出ていたか。
混乱の中、自分とカムルだけが、生き延びた。
「何があったっていうんですか? 人が狂獣になるなんて……意味が分からない」
アラタは何も見ていない。だが、あるいはカムルならば、現場に居合わせ決定的な瞬間を見ているかもしれなかった。
「俺にもよく分からん。警戒のため外に出て、戻ってきた時にはあの有様だった」
「僕も……友達と待ち合わせをしていて、みんなからは離れていました」
友達という言葉は、キノウを言い表すには違和感がある。けれど他に当てはめる言葉は見つからない。そんな曖昧な関係のままだったのだ、自分たちは。
「ならば、あの披露宴の場で何かが起こったか」
カムルの眼は、焚かれた火の揺らめきを映す。光と影が幾度も入り乱れ、やがて一つまばたきをすると言った。
「……変成の病。人がその身を変質させ、狂獣へと堕する現象」
初めて耳にする病の名だ。聞いただけで、それがいかに恐ろしい現象なのか分かる。
「病気とは仮に付けたもので、実際は原因不明の現象だ。昔から確認されていたようだが、滅多に起きるものではない。治療方法は、見つかってはいない。精神を安定させ病状を食い止めることが精々だ」
「そんなものがあるなんて」
「知る人間は少ない。これまではほとんど事例がない奇病でしかなかったからな。だが今回のような集団での変成となると……。何か条件が一致したか、人為的なものか」
カムルは偶然と口にしない。これには発端があると考えているようだ。
「あの男」
そして彼は心当たりがあるかのように呟く。
アラタにもこの惨劇の引き金として、一人の顔が浮かんでいた。
「金髪の、雷を纏った……」
二人が言葉で示したのは、恐らく同一の人物。
その男の顔、所業を思い出した途端、身体を流れる血が熱されたように感じた。
「その雷の男は俺に言った。自身の『フェイク』という名前。そして自分が壁の向こうからやってきたということを」
壁の向こう、それは〈揺籃〉の先。キノウの故郷と同じ場所から、あの男は来たのだ。
「フェイク……」
その名を口にし、結びつける。雷の男、村に現れた男、そしてキノウの中身を抉り取った……。
思い出したようにこみ上げる吐き気を、アラタは噛み殺そうとした。こらえきれなかった分は涙となって目から滲み出た。
キノウを返してもらう。歪んだ口はそう言った。確かに彼女の名前を口にした。であれば彼は、キノウを迎えに来たとでもいうのか。
空々しい嘘だ。実際に男が手にしたのは、キノウの……。
「あの男が……!」
握り込んだ拳が震えた。
「……怒りは頭を鈍らせるぞ」
「あいつの仕業だ! キノウが死んだのも、村のみんなが狂獣に変わったのも! みんな幸せだったのに。平和だった日常も、ソラノさんの未来もジュドの夢も、全部あいつが壊していったんだ!」
火を眺めるばかりのカムルが、初めてこちらを見た。
何も言いはしないが、きっと彼もこの事態の原因がフェイクという男にあることを感じ取っているのだろう。だからこそカムルは、否定さえしない。
「ソラノさんは今日、恋人と結ばれてカディアラで暮らすはずだった。あの人、ずっと楽しみにしてたんですよ。向こうには色んな食べ物があるから、料理のしがいがあるって。ジュドは近いうちに軍に入隊して、多くの人たちのために力を尽くすつもりだったんですよ。そのことを話してくれた時、ジュドは清々しい顔をしてた。そんなことをあいつは少しだって知らないで、未来を奪っていった! キノウだって……!」
キノウと自分との関係は永遠に止まった。交わした約束は果たされることなく、返事も返せないまま。
いつか聞こうと思っていた壁の外のことも、とうとう何も知らないままだった。なぜキノウがアルトランに来たのか。そして、なぜフェイクに狙われていたのか。彼女について知っていることは、あまりに少ない。
出会う前の彼女には会えない。これからの彼女は見失った。切り取られた過去の彼女だけを、思い出の中で変えず失くさず持ち続けるしかないなんて。
「……キノウは、どうなりましたか?」
横たわった彼女を思い、アラタは問うた。
「あの時傍に倒れていた娘のことか?」
カムルに対し頷きを返す。
「フェイクが去った後、あの場には狂獣が押し寄せた。俺はお前を背負って逃げるより他なく、彼女の体はどうすることも出来なかった。……すまない」
「いや、責められるべきなのは僕です」
このことに関してカムルに非はない。彼はあの全てが混乱した状況の中で可能な限り手を尽くしたまで。結果的に一度ならず二度までも自分の命を救った恩人だ。
悪いのは自分。キノウをあの場に置き去りにしてしまったのは、力のない弱い自分だ。
辛うじて持ち帰ったのは、手の中に握っていた彼女のペンダントだけ。
「こんな小さなものしか、持っておいてやれないなんて…………」
そんなことを思っていると、急に涙がこみ上げてきた。あまりにも自分が情けないから、涙は際限なく溢れて止まらなかった。声も出して、カムルの目をはばかることなく。惨めな自分に、失うものは何も残っていなかった。
キノウはもういない。それだけで、自分は驚くほど空っぽだった。だからいつまでもキノウに縋って、縋って、離れることができなかった。
「キノウ……どうして…………キノウ……………」
そんなアラタを、カムルが慰めることはない。
「しばらくしたらここを発つ。それまではゆっくり休んでおけ」
そう言って彼は火ばかりを見つめ続けた。
夜は白み、明けゆく空に日の光が射し始める。どうしようもない日の到来に、落ちこんだ顔を上げることも出来ない。
だから涙を流し続けて、光を求められる時を待った。そんな時が来るものかと、絶望の泥に沈み込み、けれど涙を流して頭は軽くなる。
そうやって感情を忘れてしまうのは怖いことだ。
出発の折、アラタはペンダントを胸に当てた。そうして彼女の重みだけは忘れないように、胸にしっかりと留めた。
❆
その日、北に落ちる雷光が観測された時、蒼氷色の壁は既に見えなくなっていた。
それは一時の錯覚ではなく、正しい現実として残り続ける。
古ぼけた劇場が人知れず幕を開けるように。
あるいは、長く続いた夢がようやく醒めるように。
アルトランを囲っていた〈揺籃〉と呼ばれる壁は、跡形もなく消失した。
安寧の日々を、過去に閉じ込めて。
次回からは一話ずつの更新となります。
次は明日12/20の17時ごろに更新です。
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2022/1/6追記
最終部分を少し変更しました。




