/日々の終わり2 堕落した決意
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――戯れはここまでだ。
雷鳴が轟き、木々の乱立した林地帯に黒々とした焼跡が穿たれる。その規格外の力は、周囲に蠢いていた獣の群れを一撃の下に炭へと転じさせた。
中心にただ一人が立つ。
金色の髪を背まで伸ばした長髪の男。整った顔立ちを、今は不快に歪めている。
焼けた白シャツの袖からは筋肉が見え、力の余波に脈打っている。細かな雷は男の体表で時おり弾ける。その瞬きが金の髪を照らし出すように光らせる。
彼は呟くと、倒れた狂獣には目もくれず、目的の場所まで迅雷のごとく駆け抜けていった。その時間は十秒にも満たない。背中から発する雷の推進力は、さながら天使の翼のようであった。
間もなく、開けた丘の上に男は現れ出た。
そこには地面に横たえられた白銀の少女。男はその存在を視界に認めて、顔に何の感情も浮かべないままに、視線を次に移す。
少女の傍で寄り添うように佇む、狂った赫眼の狼へと。
「貴様はなんだ」
金髪の男は獣に問いかけた。無論、狼が言葉を口にするはずもなし。
男にとって不可解だったのは、その獣が大人しいことだ。
自我なき狂獣は、他種族を喰い殺すという本能のみに生きる。本来であれば、視界に入った瞬間、もしくは獣の嗅覚が嗅ぎつけた時点から襲いかかってくるはずだ。
灰色の狼は向かってこなかった。だから問うた。
男の目にはわずかばかりの好奇が宿っていた。それは狼に許された猶予だ。生かすも殺すも、裁量は狼に委ねられた。
だが灰の狼は、男の存在を一顧だにもしない。
沈黙の間に、男に宿っていた好奇の光は地に堕ちた。
「……意思を示さない。やはりただの狂獣か」
獣への興味を失した男は冷然と宣告する。
たとえ獣に意思らしきものがあったとしても、この結果を選択したのは獣自身だ。
「消え失せるがいい」
ジジジジ、と男の左腕から光がほとばしる。およそ人の常識を逸脱したエネルギーを左腕に集束、電力の塊と化した雷の腕は、触れるもの一切を消し炭へ変える。
その腕をもって、男は灰の狼へ迫った。
するとそれまで見向きもしなかった狼が、突如として男に牙を剥いた。
手のひらを反すような不意打ちだ。狼は男の眼前へと躍り出る。
けれどその程度の不意打ちは男の予想の範疇。電力を絞った左腕を即座に振りぬき、狼の首を刎ね飛ばすくらいの用意はあった。
だが、それにしても気にかかることはある。
男は頭にあった計画を改め、右腕で狼の首を掴むと動きを封じた。
「獣風情が妙なことをするものだ。所詮は浅知恵にして愚策に過ぎなかったが、その心意気は買ってやろう。――もう一度問う。貴様はあの娘の何だ」
繰り返される質問。それは狼の正体を人と看破したうえで、その内面へ向けて問われるもの。
少女の傍に寄り添う狂獣。縋るべき相手は既に亡骸であり、自身は獣と成り果てているというのに、この執着。
だが狼は言葉を失った。思考すらあるのか疑わしく、牙を剥いて唸るばかり。
「言葉がなければ行為をもって証を立てるがいい。それさえできない非力な凡夫ならば、誇りを踏みにじられたまま死ね」
金髪の男は冷たい口調のまま。口元には酷薄な笑みすら浮かべて嗤う。首を絞める手の握力は強まる。剛堅な狂獣を絞め落とすなど、およそ人間業ではないのだが。
男の言葉を聞き入れたか、否か。ただ狼は苦しみに暴れ悶えた。そこに秩序立ったものはなく、行動は結果に届くことなく霧散する。
悲しみがあったのかもしれない。怒りがあったのかもしれない。けれどそれだけ。そればかりでは、何も得られない。狼は、何を変える力も持たない。
声を荒げるばかりで、積み上げられるのは空虚な残響だけ。
「…………分かった」
狼の暴れようを間近にした男は、それ以上の進展がないことを見て取った。
これこそが、燃え尽きた灰の狼の始終。その燃える様は、あまりに小さく収まったと。
「貴様には、何も守れぬ」
落胆の声と共に、男は右手の狼を放り出した。
宙を舞い、やがて丘の下へと転がった狼。土に塗れたそれが這い上がり、赫の瞳に映し出したのは、次のような光景だった。
男の振り下ろした腕が、少女の中心に突き刺さり、真っ赤な中身を持ち上げる。
「アァ……ギ……のぉ…………」
それで、狼の折れた意志は、さらに地に引きずり落とされ、穢れてしまった。
「キノウ・ホワイトは返してもらう。獣よ、安心するといい。貴様の苦痛は全てが幻だ。初めから通すべき信念などありはしない。虚ろの夢は、彼方に在りて掴めぬ非現実のまま、今あるこれらが全て正しい。だから必要なのは〈揺籃〉なのだ。貴様には、私が引導をくれてやる」
この結末こそが、狂うことなき正常。彼女に与えられた運命なのだと、男は言う。
そして男は、今度こそ狼に永久の眠りを与えるべく、左腕を振りかざした。
集束した雷の量は先ほどの比ではない。束ねた光の糸が腕全体を覆うように織られ重なって、巨大な腕を形成する。
それはいっそ慈悲とでも言うような。一人の人生を光に融かし、終わらせるにふさわしい代物だった。
狼は、遂に目前に迫った自身の死に、抵抗する素振りもなかった。
悠然と歩み寄り、目と鼻の先に立った男を、自分には関係のない景色のように見過ごす。
狼は夢を見ていた。
叶うことのない夢を。変わることのない永遠を。
動かない時、都合のいい空間で、同じ日々を繰り返しながら、狼はカラカラと笑い続けていた。
それはそれは、とても滑稽な悪夢。
だが、その夢想は突如として現れた影に打ち切られることとなる。
「――貴様……!」
その存在をいち早く察知した金髪の男は、即座に雷の左腕を後方へ回す。万物を砕いて塵に変える塊は、しかし空を切るのみだった。
焼き払われた空間には何もいない。何故なら影は、腕が回されるより先に、男に密着して掻い潜っていたのだから。
側面を取られた男に刃が迫る。銀の剣が繰り出す刺突は致命の一撃。右手に荷物を抱えた男は、肉を削られながらも身を捻り、雷の翼を生やして大きく飛び退った。
影は――アルトラン軍の制服を着たその男は、獣へ振り向いて言う。
「この村の住民が狂獣と成るのを見た。お前もその一人だろう」
兵士の口調はこの状況にあって毅然として、力強くそびえる大樹のような自己があった。
そしてその声は、狼の記憶にもある。
「集中して意識を閉じろ。思い出せ。お前は誰だ」




