/日々の終わり1 異変
/日々の終わり
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逸る思いを抑えつつ、アラタは鐘楼の場所までたどり着く。
そこには結婚式に使われた舞台が放置されている。宴はまだ続いているのに、その場所だけは閑散として寂しげだ。祭りの後、解体されるのを待つばかり。
「キノウ?」
アラタが見回してみても、彼女の姿は見当たらない。
まだ来ていないのか。
妙と思いつつ、手持ち無沙汰を理由に辺りの散策を始めてみる。
「ん……これはキノウの……?」
ふと舞台に目を向けた時だった。日差しを反射するモノが落ちている。
傍に寄って手に取ると、それはキノウがいつも身に着けているペンダントだった。
濃紺の宝石の中には、白く繊細な雪粒がいくつも浮かび上がっている。
その宝石を、キノウはどんな服装の時でも首に提げ、片時も離そうとはしなかった。
母親に貰ったものらしい。故郷に帰れない彼女にとって、それはこの村で得たどんな物よりも思い入れのある大切な品なのかもしれない。
それがどうしてこんなところに落ちているのか。
持ち主はどうやらここにいないようだ。一度は来たものの、何か急用でもできたのかもしれない。披露宴の会場に戻ったとするならば、何故道中ですれ違わなかったのかは、分からないが。
どうしようかと考えて、アラタは一旦引き返すことにした。
待っていた方が賢明かもしれないが、どうにも引っかかる部分がある。
ちょうどいい。戻ったついでに何かを飲み物を貰っていこう。
先ほどから喉が渇いて仕方ないのだ。
一度通った道を駆け足で辿りなおす。村の中央までは木々に囲まれた一本道で、知らずに道から外れるということはほぼあり得ない。あえてそうする理由がない限りは。
「それにしても……やけに、気分が悪い……」
運動不足のせいか、小走りしているだけで息があがる。脂汗も止まらない。何か悪いものでも口にしたかのように、腹の奥が呻きを立てている。
これでは酒を飲み過ぎた祖母と同じだ。自分も酒気にあてられたのか。
ああ、気持ち悪い。
とにかく、喉が、渇いた。
何でもいい。渇きを、癒すものを。
いつの間にか走ることもやめ、アラタは重い足を必死に動かしている。
村の中央までがやけに遠い。ただ元の場所に戻るだけが、気が遠くなるくらい難しい。どうして。頭が変になりそうだ。
何か、ナニカがおかしい。
「おかしい……おかしい……オカシイ………………ハハ、オカシイ?」
呻くような呟きが、ぽっかりと空いたアラタの口から垂れ流される。
――えっと、何がおかしいんだっけ?
――そんなことより自分は誰だっけ?
――誰であるのが正しいんだっけ?
披露宴の会場が見えてくる。軽く意識を飛ばしながら、ようやくたどり着いた。
とにかく飲み物を。縋るような思いで、アラタは群れを成す人の中に混ざろうとする。
しようとした。だが、足がどうしてもそちらへ動かなかった。体力が尽きたわけではない。こんな状態だが、歩くことくらいはできるはず。
それでも足を向けようとする気が起こらないのは、視界の先にある光景に違和感があったから。
宴はとうに終わっていた。
日は陰る。魔が入る。平穏の時は、いとも容易く崩れ去る。
眼前に広がっていたのは、獣の群れ。それらは形も大きさも異なる魑魅魍魎。熊や巨鳥のようなものもあれば、不定形の液状生物、触手の塊のようなものもある。だがそれらの眼と思われる部分はみな一様に赫に染まり、血に狂っている。
狂獣ばかりだ。人の形はどこにもない。
人の名残は辛うじて、そこらじゅうに転がっている。それは半分だったり、歪な断面だったり、赤い塊だったり、建物やテーブルにべったりと張り付いた糊だったり。
「あれは、何だ……どうなって…………誰かいないのか」
誰か、息のある者は。
遠くの光景は、それでもはっきりとした死の映像として目に映るばかり。タリエ村の住民はみな知り合いのようなもの。横たわった誰かの名前も、アラタにはわかる。
誰も生きてはいないのか。
突然の出来事に頭がついていかず、途方に暮れた時、
「…………父さん?」
喚き声が聞こえた。恐らくは聞き慣れた父親のもの。しばらく後に、物陰から姿を現すテツロウが見えた。
「と、うさ、ん……!」
欠片ほどの理性に従ってアラタは呼びかけようとしたが、うまく声が出ない。もっとも、大声など出せば狂獣に気づかれていただろうが。
テツロウも何かを叫んでいる。それは自らを鼓舞するための戦いの声だ。四方を狂獣の群れに囲まれたテツロウは、剣を片手に奮闘している。彼は戦士の意地とばかりに、襲い来る狂獣を何体も切り伏せていった。
その鬼気迫る父親の戦いぶり、あるいは何かを振り払うような必死さを、アラタは初めて見る。
己を高める咆哮を口にしながら、次の狂獣を相手取ろうとする。その狂獣は四足で這う蜘蛛のような見た目の獣だった。
飛びかかってくる蜘蛛を剣で払い地に落とす。そのままとどめをくれようという時、テツロウの手が止まった。
何を思ったか、彼は完全に停止してしまっている。何もしなければ殺されるのは自分だというのに。なぜか躊躇ったまま、動けないでいる。
「こんなのは、間違っている……」
やがて、彼は剣を手放した。
その様は戦士であることを諦めたかのようで、そうなってしまえば後は自動的に、
「あ……」
最期は間もなく訪れた。
別のフクロウのような狂獣がくちばしを開き、上空から無防備なテツロウの頭を咥え、挟み切る。それで終わりだった。
「あぁ…………」
ここに居ては駄目だ。殺されてしまう。
アラタは踵を返して、村の中央から逃げるように離れていく。
気持ちが悪い。頭が痛い。
一つ、気にかかったのは、テツロウを殺したあのフクロウのこと。体には衣服のような布切れが貼りついていて、どうやらそれは見慣れたものだったということだ。
恐らく、母親の。
❆
居場所のない村の中をさまよっている。
誰もいない。どこにいるのか。どうしてこうなった。何一つ分からない。
木々の奥で動く影は、いつ自分を見つけるか。そこの草むらから、何が飛び出してくるとも知れない。
闇の隙間から何かが自分を覗き込んで狙っている。そんな恐怖のただ中、生きることを諦めてしまいそうになる。遠くでは雷鳴が轟いて、恐怖を煽っているようだ。
それでもアラタが立っているのは、右手に握りしめた希望を捨てられないから。
ペンダントの持ち主は、今どこに。
とっくに狂獣に喰われているかもしれないという最悪の予想は、考えないようにした。
おかしくなりそうな体を引きずり歩く。
そうして辿り着いた丘の上。彼女と踊ったその場所に、見つけた。
眠るように横たわった、キノウの姿。
「キノウ」
名前を呼ぶ。けれど反応はない。
アラタはすぐさま駆け寄った。軋むような体のことなどどうでもよかった。
覗き込んだ彼女の顔。目には光もない虚ろの眼球。
彼女の腹は、衣服の上から大きく裂けて、血を溢れさせていた。
「あ…………アラタ、だ」
瞳にアラタの顔が映ると、キノウはか細く声をあげる。
「生きてる……キノウ……!」
「はは、こんな格好じゃ、みっともないね」
「何、言ってるんだ――」
傍に膝をついたアラタを、キノウは身をよじり悲痛な表情を浮かべながら求める。
「おい……そんなに動いたら、お腹から血が……」
「アラタ……あれ、どこ」
さまようキノウの手を、アラタは壊れないよう、丁寧に包み込んだ。
するとキノウは抜けかけの表情にやんわりと笑みを浮かべて言う。
「……あったかい」
彼女の手からは急速に熱が失われつつある。止めたいのに、手を握るばかりの自分は何の手段も持たない。あまりにも無力だった。
「どうしてこんな。どうすれば……僕はどうすればいい」
「…………そばにいて」
キノウはアラタの手を包み返すと、自身の胸に当てる。
「眠りにつくまで見守っていて」
見上げるキノウが、風邪をひいた子供に見えた。一人になるのを恐れ、親に甘える。
いま、キノウが目を閉じてしまえば、次に目を覚ます時はないのだろう。そのことは、彼女自身がよく知っている。
鼓動は頼りなく、その存在は夢のよう。熱に触れ、いずれ儚く融けゆく、雪のひとひら。
否定したいのに。もっと話したい、もっと一緒に居たいのに。自分にできることといえば、歯を食いしばってそこにいることだけ。何よりも耐えがたいのは己の無力。
けれど役立たずのでくのぼうは、無力を棚に上げて世界を呪うことしかできなかった。
予感はあったのだ。妙な夢を予兆とするならば、それはもうずっと前から警告音を発していた。だからこの光景に違和感を感じない自分がいる。
頭がおかしくなるくらい、狂ってしまいそうなくらい、受け入れている自分がいる。
手の内に握りしめた宝物は、手を開いた時には壊れている。そんなことは、分かっていたのだから。
「僕は、君がいればよかったのに。キノウと一緒に居たかったのに……!」
そんな望みが得難いものだと知った。
「どうして……駄目なんだ…………」
世界は、彼女が生き続けることを許さない。
「泣かないで」
嗚咽を漏らすアラタの頬に、キノウの手が触れた。
その冷たい手の温度から温かさを受け取り、アラタは言う。
「守りたかったんだ」
誓いは破れた。意志は破壊された。
脆弱な自分を罵って、責めてくれたら、身も心も壊れてしまえるのに。
キノウは言う。
「あのね、私は、じゅうぶん……しあわせ――――」
そして、彼女は動かなくなった。
垂れ下がった手は二度と動かない。途絶えた息は途絶えたまま。わずかに脈動していた心臓も停止へ切り替わる。そこにあるのは少女のむくろ。
キノウは永遠に、どこにもいなくなってしまった。
「あ…………あァ……」
それからのことをよく覚えていない。
泣きもしたし、叫んだりもした。笑いさえしていたかもしれない。
ただ、信念の折れた自分は、理性を失い狂ってしまった。
そして肉体の不快感が頂点に達した時、異質な何かが徐々に自分の存在を侵食する。
形の変わっていく自身の肉体を目の当たりにして、村に突如として現れた狂獣たちの正体に行き着いたが、それすらもどうでもよかった。
最低な気分の頭では、守りたかった少女のことばかりがちらついていた。




