幸福な日2 内なる存在
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大人たちは早くに起きて作業を開始している。アラタが家を出た頃には、槌を打つ小気味の良い音が既に聞こえていた。
普段とは違う、どこか浮足だった村の様子。
作業は何日も前に始められ、タリエ村は今、明日に迎える式の場として着々と整えられつつある。
村人が総出になって行われる結婚式の準備に、大人も子供も関係ない。みなが作業に手をつけ、一つの婚姻を祝う。それが小さなタリエ村の慣例なのだ。
アラタが自分に割り当てられた作業場に近づくと、それに気付いた青年が軽く手を挙げた。
「お、やっと来た。お前はいつでも遅れてやって来るな、アラタ」
悪い悪い、とアラタは頭を掻きつつ、彼が運ぼうとしていた木材を一緒になって持ち上げる。
「なあ、ジュド。君は信じられるかい?」
木材を村の外れの鐘楼へと運ぶ道中、アラタは前方を歩く彼へと声をかけた。
落ち着いた目つきと口もとの青年。その様が大人びているとさえ感じさせるが、時たま見せるノリの良さが親しみやすい。アラタが最も気が合うと感じる友人だ。
捉えどころのない質問にジュドが返す。
「何のことだ?」
「この結婚式のこと。あのソラノさんが都会の男と結婚だなんて。そんな雰囲気なかったように思うんだけど」
「なんだ、妬いてるのか?」
「まさか」
ソラノ、というのは今回の新婦の名前。彼女は村長の娘であり、アラタと同じ世代の子供にとっては世話焼きな姉のような存在だった。
小さな頃から遊んでもらうことが多かった。だからだろうか、どうしても彼女と結婚という単語が結びつかない。
妙に納得のいかない思いに頭を悩めるアラタを、ジュドは笑った。
「誰しも知らないうちに変わっていくということだよ、アラタくん。っていうか、お前は鈍感すぎだ。あの男と話してるところを見てれば、誰だって気づくさ」
ふうん、と相槌を打つアラタは、まだピンときていない。
相手の男は、首都から度々やってきていた行商人の息子だという。滞在期間中は村人との交流も深かったので、その人のことはアラタもよく知っていた。
「実のところ、俺は妬いたよ。ほら、あの人は俺たちの憧れみたいな人だったろ? それが、カディアラから来た男なんかに取られるって思うと、やっぱり納得できない」
式が終わった後、ソラノさんは新郎の暮らす首都カディアラへと連れられてゆく。村から離れてしまうのだ。
それを直前にしてか、ジュドは珍しく自身の心情を吐露する。彼のうちに秘められた思いを、アラタは初めて打ち明けられたのだった。
「ジュド……きみ、ソラノさんのこと……」
「なんだ知らなかったのか? やっぱり鈍いな、お前は」
「言ってくれよ! 応援くらいさせてくれてもよかったのに!」
「バァカ、余計なお世話だよ」
「でも……」
「いーんだって! 旦那さんもよく見たらいいヤツそうだし。俺は喜んでソラノさんを送り出してやる!」
彼はヤケになったように空を仰いで叫んだ。
「ああ、これで心置きなく軍に志願できるってもんだよ」
「軍だって? あんまり自暴自棄になるなよ。なんだってそんなところに……」
「俺は本気だよ。これはソラノさんとは関係ない、前々から思ってたことだ。こんな小さな村も、いつ狂獣に襲われるかわからんだろ。そうなった時に守れる力を、今のうちにつけておかなきゃならない」
確かに、村に戦士は少ない。兵士としての経験があるのは、アラタの父親ただ一人。狂獣が現れた時、それを討伐することができるテツロウだけだ。村の安全は彼に頼っている部分が大きい。
だがそれは、その一人が倒れた時に村の崩壊は免れ得ないという意味だ。今は良くとも、年を経ればそういった危険は増すだろう。人の肉体は年月には抗えないのだから。
ジュドは、そんなテツロウの跡を継ぐという。
二人が鐘楼までたどり着くと、そこでは新郎新婦のための舞台が造られつつあった。
こういった行事ごとに木材を集めては一から造るので、なかなかに手間だ。いっそ台に関しては残しておけばいいのにと思うけれど、伐採から建設まで行うのが習わしらしい。
天高く昇る日の下、そこで愛の誓いが為される。
「アラタは? これからどうするつもりだ?」
木材を置いて腕を休めつつ、別の仕事を求めて行こうとした時だった。ジュドの問いにアラタは首を傾げる。
「どうするって、まだ何か運ぶ物が残ってるだろ?」
「違う違う。これは将来の話だよ。何になりたいかとか、何を為し遂げたいかとか、つまりはそういったこと。……そういえばこんな話をするのは初めてかもな」
「確かにそうだ」
少なくとも自分から持ち掛けることはなかった話題だ。
あえてその理由を言うのであれば、それは自分自身の未来が描けていないから。
そしてなんとなく、今の状態がずっと続くものだと、漠然と思っていた。
「僕にはそういうの、ないかな。そろそろ探そうとは思うけど」
「じゃあ例えば、お前は……キノウとのことはどうするつもりなんだ?」
「なんでそこでキノウの名前が出てくるのさ?」
アラタが純粋な疑問を返すと、ジュドはそこで心底から漏れたような溜息を吐き出した。まったくお前は、と小言まで聞こえそうな勢いだ。
「……これだけ出来上がった関係もないってのに、気づいてないのは本人だけ、か。まあ、お前たち二人の問題だから、俺がどうこう言っても仕方ないんだけどさ。時間の問題とはいえ、アラタの友人としては、ここを離れる前に見ておきたいものだよ」
一体何のこと、とアラタが言葉に出す前に、ジュドはさっさと次の仕事に向かおうとする。
「いつまでも鈍感ではいられないぜ?」
そんな言葉を格好つけて言い残すので、アラタはすぐに追いかけて、背中を殴ってやった。
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少しだけ、昔のことを思い出した。
雪の日のこと。
体力が尽き動けなくなったキノウを背負って、自分はただただ雪の上を歩いていった。
あの時とっくに足は限界を迎えていた。一歩たりとも進む力は残っていなかったはずだ。子供の足ではあの森を抜け出すことはできなくて、だから一度だけ倒れたことは、きっと夢ではない。
長い間、雪の中に顔を埋めていたように思う。
けれど何か大きな変化が起こって、自分は起き上がった。両手と両足を地面に着けたまま、いつもより低い視点。意識もどこかへ忘れたまま、足を動かし続けた。尽きないのは意志ばかり。燃やして進む、虚ろな獣。
あれは、何だったのか。
叫んだ自分は自分ではなかった。
残した足跡は、自分のものとは似ても似つかなかった。
弱くて無力な自分が、あの時だけは強靭な存在と成って、残った分の果てしない行路を踏破したのだ。
気がつけばすべてを終えた自分が、元の姿でベッドの上に寝転がっていた。
寝台まで運んだのは、探索から戻った父親だ。その前に父親が自分たちを見つけたのは、村の付近だったという。
あの日からだ。
自分の中に、矛盾した何かが存在する。これまでにはなく、新しくできたモノ。
それは自分ではあるけれど、自分よりずっと強固な存在。絶対的な精神性。
息をひそめ、ただそこにある。
いつまでも微睡に浸る自分を喰らい尽くす、その時を待って。




