衷心記 第九章 第十章
いつもご愛読ありがとうございまする。
今回で最終部分となります。
若者たちの運命の交錯をお見逃しなく!
第九章 若様
あくる朝、目覚めた若様は気力が充実していた。
いよいよタケノヒコと相まみえる。
その喜びが体を支配していた。
彼は十八歳になる眉目秀麗な美しい王子だ。しかしその見た目とは裏腹に、どんな汚れ仕事も厭わない。田畑にも喜んで入り、民とともに汗をかく事もある。ヤチトと似たような性格だが、唯一違うのは天真爛漫である事だ。しかし嫌味がなく真っすぐで、必ずしも独り善がりでもない。国中から慕われ、押しも押されぬ国王の継承者である。
側近の者が報告に来た。
「手はず通り準備が整いましてございます」
「ご苦労。では潜伏部隊は先発せよ」
「承知いたしました。若様、どうかご武運を」
その美しい側近の者は、微笑みを浮かべて部隊へ戻った。
彼は若様とともに育った若者で名をエイと言う。タケノヒコの読み通り、ツヌガ軍はテイの献策に従って兵二百を森の中に潜伏させ、時機を見てムラの横腹を突く作戦であった。その大将がこのエイである。テイの推薦もあったが、若様の望み通りに動けるのは自分しかいないと志願した。潜伏部隊という遊軍を率いる事が若様の盾となり矛となり得る。何が何でも若様を守りたい。役に立ちたい。それがエイの想いであった。
エイの出発を見送った後、若様の本軍も準備を整えアヤベノムラを出発した。
若者たちの運命は、いよいよ交錯する。
タケノヒコは朝早くから目を覚まし、警戒にあたっていた。何よりも天候が気になった。物見台に登って空を見ると思ったように流れの速い雲が西から東に動いている。風も出てきた。火をかけるには風向きが大切だ。川幅が広いとはいえ、ムラに飛び火しては困る。しかしその心配はなさそうだった。
「タケノヒコ様」
呼ぶ声が聞こえて振り返ると、カエデが物見台にあがって来ていた。
「どうした?カエデ」
カエデはタケノヒコを見つめるばかりで話そうとしない。
「そなたは集会所に避難せよ」
いきなりカエデはタケノヒコに抱きついた。
「敵は一千。かなうことなら私はタケノヒコ様をお守りしたい・・・」
タケノヒコはカエデを抱きとめ、その左腕をカエデの背中に回した。
「そなたには、いつもやっかいをかける。しかし私なら大丈夫だ」
「どうか、御無事で・・・」
タケノヒコの胸に顔をうずめ、カエデは震えていた。ほほを一粒の涙が伝った。
その様子を物見台の下でムネがうかがっていた。しかし何も言わなかった。
昼前、楼門にあがっていた見張りが敵影を認めた。
「敵じゃあ!皆のもの!敵が来たぞ!」
その声に呼応して物見台の鐘が打ち鳴らされ、ムラ中が敵の来襲を知った。
持ち場に就くタケノヒコ一行。ムラ人たちも武器を取って立ち上がった。
烈風の向こうにツヌガ本軍が姿を現した。その数一千。若様はその中央でテイと轡を並べていた。
タケノヒコは昨夜と同じ六名で楼門から柵の外に出た。守るばかりでは勝てないから、押し出している。
「あの出てきた六名が昨夜の六名だな」
そう言う若様に、テイが答えた。
「左様でございます。中央の二人がタケノヒコとヤスニヒコ」
若様は身震いした。いよいよ相まみえる。この日をどれほど夢見てきたか。
「よし。では、かかれ!」
若様の号令でツヌガ軍一千が一斉に前進を開始した。
烈風とともに土埃を巻き上げながら進む。
「来たぞ!銘々持ち場を死守せよ!」
タケノヒコが叫んだ。
「私の合図で火矢を放て!」
ヤスニヒコが号令した。
昨夜回収した大量の矢を、序盤は火矢として使うことにしていた。火を点けることで敵の注意力を削ぐためだ。風向きはそのためにも重要であった。
今回は、初めから柵の外の前面で六名が戦う。左右はサルとキヨが守っているが、頃合いを見て森の中へ向かう。柵の中では竹やりを構えたムラ人たちがいて、その後ろに盾で守られた弓の者が待機している。その者達の動きを物見台に登ったシンが指示するのだ。
ツヌガ兵は、どんどん迫ってくる。
敵の回収を恐れ、矢は射かけていない。ただ兵のみが攻め寄せてくる。
敵兵が眼前に迫った時、タケノヒコは気の昂ぶりを感じた。昨夜と同じだ。これならいける。そう思い全身全霊でその剣を振った。蒼白い光の波動が大地を震わせながら敵兵に放たれた。
多くの敵兵がなぎ倒されたが、波動の幻術を事前に知っていたツヌガ兵たちは、動じずに迫ってくる。
ヤスニヒコが右手を高々と掲げ、そして振り下ろした。
ムラの中から一斉に火矢が飛び、ツヌガ兵を射抜いていった。
激しい乱戦となった。
「すごい幻術だな。一体どうすればあのような・・・」
若様は言葉を呑み込んだ。
「あの幻術は、昔イズツの都でトヨが使った術に似ていますな」
「テイ殿は見たことがあるのか?」
「はい。その場に居りました。確かあの時は赤い光で、今よりも弱い力であったかと」
「タケノヒコ殿も、トヨ殿も・・・一度酒でも酌み交わし話してみたいものだな」
「そのような。妖しい術は人を惑わします。処分すべきかと」
若様はテイの横顔を見た。冷静な物言いに感心もしたが、あまり近づけたくない人物であるとも思った。
「まぁ、よい。とにかく今は敵同士。戦いを進めよう」
楼門前、横一線に展開したタケノヒコら六名は、相変わらずの強さで敵を打倒し、また斬り伏せていった。ムラからは大量の矢が降り注ぎ、ツヌガの兵たちはやや押されていた。
「押されておりますな」
森の中。エイを補佐する将軍がそう言った。エイは笑顔を見せながら答えた。
「そうですね。将軍。でもこの程度は織り込み済み。やがて一刻もすればあの六名も疲れて一旦下がるでしょう。その時が我らの出番です」
果たして。ちょうど一刻後。
タケノヒコは予定通り、「一旦引け」と六名に指示した。楼門の上にいるムラ人たちが一斉に矢を放つ中、六人は柵の中へ退避した。これからしばらくは矢と石礫、そして竹やりだけで戦う。ムラの安全なところで六人は一休みした。
クロが倒れ込むように座り、つぶやいた。
「まったく。次から次。きりがないわい」
タクがクロの頭を小突きながら笑顔で言った。
「弱音を吐くな。これぐらい。わかっていたことだろう」
クロはムッとした。
「誰が弱音など!」
タクは笑った。
「おまえじゃ。おまえ。いいからほら、水でも飲め。小半刻もすればまた出るぞ」
「わかっとるわい!」
クロはタクの手から竹筒を受け取った。
敵兵は柵に群がり、ムラ人たちが懸命に戦っていた。
六人がムラの中に入り、しばらく経った頃。
「よし、もういいでしょう。我々も出ましょう」
エイが将軍に言い、将軍もうなずいた。
その時、前面にいた兵たちに爆発的な火が付いた。
何?
エイがそう思う間もなく、前面の兵たちに次々と火がつき、烈しい風とともにあっという間に燃え広がった。サルとキヨが火を放ったのだ。燃え盛る炎を背景に飛び去るその姿をエイはかすかに見た。
なぜ?こんなことが?
エイは逃げ惑う配下の兵を目の当たりにして呆然と立ちすくんだ。
サルは熱した油に火をつけ、さらに川の水を注いで爆発的な火炎を起こした。昨夜からムラ人たちと準備した仕掛けだ。森の形状を考えて敵の布陣を予測し、その上で油を緻密に配置していた。烈しい風と相まって火炎は次々と木々に飛び火して伏兵たちを包んだ。
伏兵の異変は若様からも見えた。
何という・・・
タケノヒコは、森の中の伏兵も知っていたというのか。
それより、エイは無事か?
若様が呆然としていると、テイが言った。
「あれが、タケノヒコです。油断も隙もありませぬ。こうなったら、本軍のみでも
ムラを押しつぶしましょう」
若様は心の動揺を抑えつつ、テイの言葉にうなずき、左右の将軍達に命令した。
「伏兵たちにかまうな!今はムラを押しつぶせ!」
将軍たちは呼応し、兵たちにさらなる攻撃を命じた。
その一方で、テイの密命を受けて、その部下が森の中へ走った。
ムラを見下ろす小高い丘で、森が炎に包まれる様子を見ていた者たちがいた。
「派手だな」
そうつぶやいたのはヤチトであった。
「まことに」
微笑みながらうなずくヤカミ姫の姿もあった。
ヤチトは三カ国合わせて一千五百名の兵を連れてようやくムラに到着した。
ヤチトの陣触れに、ヤチトの新しい治世に希望を抱いた者達が呼応し予定より多く集まった。また、二ノ国は王族も将軍も同道しておらず、その兵はヤチトに預けられた。ヤカミ姫もイナバの百人を引き連れていたが、ヤチトの配下に置いて、自らは連合軍の副官となっていた。二人は馬上にあって、戦いの様子を俯瞰していた。
「しかしまぁタケノヒコ殿は相変わらず無茶をなさる」
「我々が来なくても勝てるつもりだったのでしょうか」
ヤチトは笑った。
「そうだろうな」
「あのような大軍相手に・・・」
「強いお方だからな」
そう言って笑うヤチトの横顔をヤカミは見つめた。強さには色々とある。あの敗戦から懸命に国を立て直そうとしているヤチトこそ、強いお方なのだとヤカミは思っている。
「セイ、そなたはムラへ走りタケノヒコ殿へつなげ」
側にいたセイはうなずいてムラへ向かった。
「では、姫。まいろうか」
姫は微笑みを湛えて答えた。
「承知いたしました」
ヤチトは右腕を高々と掲げ、そして前へ振り下ろした。
三カ国の連合軍千五百が一斉に丘を駆けくだった。
右手の爆発に続き、左手から大きなどよめきと鬨の声が聞こえてきた。
若様は何事が起ったのかと周囲に聞いたが、誰も答えられない。ただその場にぼんやりと突っ立って他人事のように様子を眺めている。こんな時、エイなら若様の言葉よりも早く様子を確かめに走る。やはり私にはエイが必要なのだと思った。周囲の者たちへの不満を抑えて冷静に命じた。
「誰か、急ぎ見て参れ」
すると将軍の一人が聞き返した。
「どちらでしょうか、右ですか?左ですか?」
若様は呆れた。右についてはさっき結論が出たはずだ。エイに任せこの正面に注力すると。なのに、その状況も理解していない。そのような者達が多いから、大川のムラ侵攻の大将をテイの部下であるカクに任せ、左手の伏兵もエイに任せたのであった。
やはりエイは手元に残すべきであった。
この戦場という急場において、自制心を保つのは大変なことであったが、若様はそれでも穏やかに命令した。
「左手の騒ぎの元を確かめて参れ。トイ将軍に任せる」
そこまで具体的に言って初めて将軍は動いた。
「テイ殿はどうお考えか?」
若様はテイに向き直って聞いた。
「はい。おそらく二ノ国の援軍かと」
若様はテイを快く思ってはいないが、こういう判断は信用している。
「うむ。そうだろうな。して兵力は?」
その質問をした時、ムラの中から爆発的な歓声があがった。
何事?援軍の報せが届いたのか?
若様は正しく推察した。もちろんテイもだ。
「若様、今の歓声から察するに、思った以上の兵力だろうと思います。百や二百ではありませぬ」
「そうだな。三百か四百」
「はい。二ノ国は最大でも六百が限度。ならばその半数か少し上かと」
テイにはテイの事情があった。かつては豊富な人材を配下に持ち、盛んに諜報活動を行っていたが、アナトノ国の宴会襲撃失敗で有能な部下を多く失った。今はあまり諜報活動を行っておらず、このような誤った判断を下した。
「いずれにしても、慌てることはないな。落ち着いて対処すれば勝てる」
「御意」
若様とテイの推察通り、セイの一報はムラ人たちを歓喜させた。
ヤチト様が・・・
千五百もの兵を率いて駆けつけてくれるなどと思いもしなかった。
これで生きていられる・・・
その思いのあまりムラ人たちは、皆涙を流した。
ムラ長も、顔役も、ナツも。重苦しくのしかかっていた戦がやっと終わる。
ある者は手を叩き、またある者達は肩を抱き合いながら、明るい笑顔で涙を流していた。
タケノヒコは石に腰を下ろしてその報告を聞いた。
「そうか」とだけ答えると、ふぅ。と一息ついた。
彼にしても重苦しい戦いだったのだ。一行の武人達も安堵の笑みを浮かべ、カエデは手で口を押え、うつむいて涙を流した。
そこへ、サルとキヨが帰ってきて、ムラ人たちの騒ぎを見て驚いた。
「何じゃあ?あ?今は戦の最中だぞ」
ヤスニヒコが応えた。
「サル、キヨ。ご苦労であった。援軍だ。ヤチト殿が援軍を率いてこられた」
「ああ、それであの大きな鬨の声が」
「うむ。千五百もの大軍だ」
「千五百!私の見るところ、敵は正面に一千、森の中に二百。他はいませぬ。なるほどそれで皆喜んでいるのですな」
タケノヒコが立ち上がり、大声で言った。
「よし、皆、もうひと踏ん張りだ。気を入れていくぞ!」
あちこちから呼応する声が上がった。大きな歓声の中、タケノヒコ一行は再び持ち場に戻って行った。
トイ将軍の報告は要領を得ないものだった。敵の数も国名も何も調べておらず、また、優勢なのか劣勢なのかも言わず、ただ、たくさんの敵兵が攻め寄せました。と言ったものだった。そんな事は見に行かなくてもわかっている。将軍たる者が、ごく初歩的な事もできていない。ツヌガノ国は本来好戦的な国ではない。エツとの戦いも攻めてきたから応戦しただけで、正面からのにらみ合いや、ちょっとしたぶつかり合いくらいのものだった。今回のように何が起こるかわからない局面はかつてなく、豪族の長である将軍たちも普段はそれで十分務まった。
若様はそれでも自分を抑え、トイ将軍を労って持ち場へ戻した。それからテイに振り返って、その部下の手慣れた者に詳細を調べてくるよう依頼した。
ヤチトとヤカミは、盛んに押した。
長弓隊の援護を背景に歩兵隊が矛や鉄の剣を振り回し敵兵を圧倒した。先の敗戦で、ヤチトは戦い方を変革していた。
ヤカミは長弓隊の指揮をしつつ、馬上にあって自ら矛を振り回し、ヤチトと共に戦った。
「ふふ。一千の敵と言っても、もろいものですね」
ヤカミがそう言って笑った。
「ああ。そなたの采配も見事だ」
「ヤチト様こそ。私は副官なれば、あなた様の意のままに」
ムラの方からどよめきが起こった。
二人が見ると、蒼白い光がツヌガ兵を薙ぎ払った。
「あれは?」
そう言うヤカミ越しに見たヤチトは、すぐに分かった。あれはトヨの幻術だ。しかしトヨの姿は見えず、タケノヒコが放っているように見える。
タケノヒコ殿もより強くなっておられる。
そう思いヤチトは笑みを漏らした。セイの報告で、イズツから進呈した鉄の剣にトヨの力を込めてあのような幻術が使えるようになったと知っていたが、その威力を目の当たりにするのは初めてだ。
「あれは、トヨ殿のお力だ」
不思議そうに眺める姫に、ヤチトが説明した。
戦いの全体を見渡すと、ヤチト軍は敵の包囲を始め、ムラ正面はタケノヒコ一行の働きで押し戻されつつあり、森の伏兵はサルの奇襲で逃げ散った。要は、ツヌガ軍に敗色が漂い始めた。
「敵はどうやらイズツ、イナバ、二ノ国の連合軍で、一千五百ほどのようですな」
物見の報告を受けたテイが、若様に告げた。
「一千五百と?」
さすがの若様も驚いた。かつて経験したことのない大軍同士の戦いの中心にいる事になる。もはや継戦を諦め、和議すべき局面なのではなかろうか。タケノヒコと手合わせしてみたいなどと思った自分の軽率さを呪った。これは現実の戦いで、血しぶきをあげて人が死ぬ。我が方の左翼は連合軍に押されて混乱しながら後退している。そもそもテイの口車に乗った父国王の蒙昧さが問題であったかも知れぬ。しかし、そんな心の内を顕わにはできず、今は毅然と采配を振るう以外にない。こんな時こそ、忌憚なく相談できるエイにいて欲しかった。そんな思いが去来する中、若様にとってまさに凶報とも言うべき報告が来た。
時は既に夕刻であり、日は落ちつつあった。
第十章 太陽の御子
「タケノヒコ様!」
そう叫んで、トヨは不意に目を覚ました。側ではタクマノ姫がきょとんとしていて、ジイは二日酔いでずっと寝ていた。ゼムイは外で夕餉の支度をしていた。
「トヨ様。よかった。お気づきで」
半身を起こしたトヨを姫が支えた。額には脂汗が浮かんでいて、姫がふき取った。
「戦ってはならぬ者たちが戦っている・・・」
トヨはそうつぶやいたが、姫にはわからない。
「よいか、タクマ。明日の払暁出陣する」
それだけ言うと、トヨはまた眠りに落ちた。
「姫様?いかがなされた?」
ゼムイがそう言いながら小屋に入ってきた。姫にも訳がわからず、ありのままをゼムイに説明した。ゼムイにも訳が分からなかったが、いつの間にか起きていたジイが言うには、かつて多くの戦を止められたように、今回も止めに行かれるおつもりだろう。ヤスニヒコ様からお預かりしていた祈祷の衣装と鏡二枚を出しておこうという。陽の光を受けて輝くトヨの姿は、二人とも知っていて、あれを我々がやるのだと思った。
「エイが討ち死にしたと・・・」
若様は目の前が真っ暗になった。唯一頼りにしていたエイが死んだなどと信じられない思いだった。しかし目の前にエイの首が置かれている。体がふらついて倒れそうなところをやっとの思いで持ちこたえていた。テイの指示で森の様子を見に行った者が報告していた。
「はっ。森の中で火付けを働きし者どもが、混乱の中我が兵たちに斬りかかり、エイ殿は力戦及ばず討ち死にされた由」
黙って話を聞いている若様の側で、テイの目が冷たく笑っていた。
「して、森の中にいた者達の様子は?」
同じく報告を聞いていた将軍が尋ねた。
「火炎に巻き込まれた者、敵の手にかかった者は数知れず。傷を負ったり、逃げ出した者多数。もはや森の中に我が軍はいませぬ」
「全滅・・・か・・・」
将軍がため息をつく中、若様が聞いた。
「エイを討ち取った者は・・・、その風体は?」
報告者はテイに目配せした。テイは小さくうなずいた。
「はっ。タケノヒコだと言うことでした」
これまで自制を重ねてきた若様の感情の奔流がついに堰を切った。
「おのれ、タケノヒコ!」
そう叫ぶと若様は片膝をついて地面を殴った。二回、三回、四回と、その激しい様を見た将軍が慌てて止めた。羽交い絞めにして止められた若様は血の涙を流しながらムラの方を指さしてさらに叫んだ。
「あれにタケノヒコがおる!皆、タケノヒコを討て!」
しかしツヌガ軍に今そんな力がないことは、凡庸な将軍たちにも分かっていた。左から連合軍が迫りつつあり、正面も勢いづいたムラ人たちが押し返している。将軍の中で最も席次の高い者が怒鳴った。
「皆!一旦撤退じゃあ!後方、川の向こうまで引け!退き鐘を鳴らせ!」
他の将軍達も同意した。このままではこの本陣も危ない。口々に撤退の旨を叫んで本軍を撤退させた。本陣では屈強な男たちが、わめきさわぐ若様をひっかついで撤退した。
ツヌガ軍の撤退を見て、連合軍は攻撃を停止した。
タケノヒコもムラ人たちに攻撃停止を命じた。
双方から大きな鬨の声と歓声が上がった。
ツヌガ本軍は二~三百の戦死者を出したが、連合軍の被害はことのほか軽微だった。圧勝と言っていい。さらに、戦いの停止とともに滝のような雨が降り出し、森の火災を消し止めた。「トヨ様の神通力かのう」と、スクナがつぶやいた。
その夜、タケノヒコと顔を合わせることが憚られるヤチトはムラに入らず、大量の食糧がムラに届けられただけであったが、ムラ人たちは大いに安堵し、明日には決着がつくだろうと気勢をあげていた。
ムラ長と顔役はヤチトの元へ報告に向かった。
報告の場でもタケノヒコ一行の話は出なかった。正式にはその名は出せない。しかし帰り際、ヤチトに呼び止められ、内々に話があった。「タケノヒコ殿とは敵同士ながら我が心の友。そなた達も彼を信じ、よく持ち堪えた。ありがとう」そう言って頭を下げたヤチトを前に、長も顔役も自らの不明を恥じ、涙がとまらなかった。
収まらなかったのは若様であった。
敵の援軍が来た以上、深入りせず撤退すべきという将軍達の意見を退けて、明日も明け方から攻撃に出ると皆に言い聞かせた。おかしな策略でエイを討ったタケノヒコを彼はどうしても許せなかった。
翌、未明。
ツヌガ軍はアヤベノムラを出て大川のムラへ向かった。夜明けとともに決戦を挑む予定であった。カクを先鋒に必勝の態勢を整えたつもりであったが、今や兵たちは戦う意欲を失っていた。どんなに押してもびくともしない鉄壁のムラや、妖しい幻術、それに倍近い兵力差となった現状が皆の心を折っていたのだ。若様の想いとの乖離は大きかった。普段の聡明な若様ならばこんなことはなさらぬはずだ。怒りを鎮めて元にもどってほしいものだと兵たちは口々につぶやいていた。
ツヌガ軍が大川のムラの対岸に着陣した。
昨日まで激しい戦闘があったムラの前の広い田畑には、ヤチトの連合軍が盾をならべて布陣していて、煌々と松明を灯し臨戦態勢を維持していた。ツヌガ兵たちは、勝てる気がしなかった。皆は若様が冷静になって欲しいと切に願った。
両軍は川をはさんでにらみ合いの恰好となった。
山際が白み始め、薄桃色の空となり始めた時、若様は最前面に出てきた。
「よいか!皆の者、敵はタケノヒコただ一人。他には目もくれるな!」
若様の指示に、兵たちの反応は薄かった。それを察する冷静さを失っている若様は、かまわずに右手を高々と掲げた。それが振り下ろされる時、戦いは始まる。ツヌガ兵ばかりでなく、アナトも、ヤカミも、タケノヒコも注視していた。
若様がその右手を振り下ろそうとした、その時の事であった。
ツヌガ兵たちがざわめき出し、一点を見つめた。指をさす者もいた。ムラの方からは鐘が鳴り響き、憎しみに凝り固まった若様も異変に気付いた。
「トヨ殿だ」
タケノヒコがつぶやくと、周囲にいた一行の者たちが歓声をあげた。鐘は真っ先に気づいたシンが物見台の上で打ち鳴らし続けていたものだ。
「ヤチト様、後ろの丘に・・・」
ヤカミが指す方をヤチトは振り返って見た。
「ああ。トヨ殿だ」
ヤチトにとって久し振りに見るトヨの神々しい姿であった。
ヤチトの本陣から後方にかけてなだらかな斜面になっていて、その頂上に朝日を受けて清々しく光り輝くトヨの姿があった。
「この戦い、やめよ!」
トヨは大音声で叫んだ。やはりトヨの声は不思議である。聞こえないほどの距離があっても、皆の頭の中心に直接響く。
左右にゼムイとジイが鏡を持って控えていて、後方にはタクマノ姫が控えていた。その姿はきらきらと輝く鏡の反射光と相まって、とても神々しいものであった。
「そなた達は、戦ってはならぬ!」
トヨの叫びが、また響き渡る。
ツヌガ軍のざわめきと動揺は激しくなった。トヨの話を噂程度に知っている者はいたが、今この場にこの世のものとも思えない景色が現出している。まさに神が舞い降りたかのような神々しい姿に怯える者、涙を流す者、頭を抱えて地に伏せる者が続出し、戦えるような秩序は崩壊していた。
状況はヤチトの連合軍も似たようなものだった。特に何度も恐怖を植え付けられたイズツ軍は動揺した。
「我が名はアナトノ国のトヨ!皆に神の御心を申し渡す!戦をやめよ!よいか!戦をやめよ!」
背中がゾクっとするような寒気を覚えたのは若様だった。
これが、トヨ殿・・・
振り上げた右こぶしに汗が滲んでいた。
報告では聞いていた。しかし、聞いた以上の気迫が恐ろしい圧力となって若様の全身を襲った。
しかし・・・
このまま負け戦では終われない。
エイの仇を、必ず。
トヨの気迫を押し返し、若様は怒鳴った。
「あのような幻術に惑わされるな!者ども、続け!」
若様は馬に鞭打って、川に入った。
「若様!いけませぬ!」
将軍の一人がそう叫んで、若様を止めようと後に続いた。
しかし、大勢の兵は動かず、というより腰が抜けて動けず、わずか二十名ほどが渡河を始めた。
「ヤチト様、いかがいたしましょう?」
ヤカミの問いに、ヤチトは笑顔を見せて答えた。
「長弓を放て。ただし、当ててはならぬ」
ヤチトの連合軍から放たれる矢を前に、二~三人が恐れをなして脱落した。それでも若様は突撃を止めず、連合軍に迫った。
トヨの気迫に押され、戦いをためらっていたツヌガ軍の兵士たちの前に、髪は焼ただれ、顔はすすだらけで、ぼろぼろの衣をまとった男が進み出た。
「そなた達、何をしておる!戦え!若様をお守りするのだ!」
男の名をアコという。エイの副官だった男だ。
「よいか!既にエイ様はおられず、この上若様までも討ち死にさせてよいものか!よくよく考えよ!若様まで失えば、我がツヌガに光はない!」
アコは吐き捨てるようにそう怒鳴ると、若様の後を追った。
兵たちは戸惑いながらも、アコの言うことは正しいと思った。若様こそ、ツヌガの未来そのものなのだ。その若様が今は怒りのまま突撃している。若様を諫め、何とか生き延びさせなければならない。その様な声が方々で上がり、兵たちは遅ればせながら渡河を開始した。
ツヌガの兵たちが動き出した。
その様子を見ていたトヨは、何としても戦いを避けたいと思い、その心の昂ぶりとともに全身を覆う赤い光が輝きを放ち始めた。
「戦をやめよ!」
トヨの大音声が再び響き、同時に天地を振るわず衝撃波が赤い光を纏って戦場を走った。不思議なことに、ヤチトの連合軍は素通りしたが、若様の元へ真っすぐに進み、その一団のみを弾き飛ばした。その様子を見ていた敵も味方も、声を失った。
静寂が、戦場を支配した。
もはやトヨの力を侮る者はどこにもおらず、両軍の兵が息を呑んで成り行きを見つめていた。
若様は落馬し、仰向けに倒れていた。
明けたばかりの青空がまぶしかった。
戦場の真ん中にありながら不思議な静寂の中、ふと、風が渡って行き、春めいた大地の匂いがその鼻をくすぐった。
右手で傍らの草を握りしめた。
負けたのか・・・エイの仇も討てず・・・
そう思うと、不覚にも涙がこぼれそうだったので、慌てて左手で顔を覆った。
指の隙間から差し出される右手が見えると、驚くほど自然に、その手を受けた。
差し出したのは、タケノヒコだった。
「そなたは・・・」
立ち上がり、そう言う若様の顔からは、怒りが消えていた。
「私は、タケノヒコ」
「そうか」
それだけ言うと、若様は再び青空を見つめた。
連合軍の兵たちが道を開き、その中からトヨを先頭に、ヤチトとヤカミが歩み寄ってきた。
トヨは、若様の前に立つと、不意に若様を抱きしめた。
「よかった」
トヨは、そう言った。
トヨの体温に温められ、若様の心は洗われていった。
「そなたは今、戦うべきではない。そなたの愛しいエイもそう願っている」
何?
その一言は、若様の心を溶かした。一度は抑えた涙が再び溢れかえった。
「エイは神の御許へ戻って行った。そなたの事を私に託して・・・」
若様はトヨの両肩をつかんで引き離した。
「エイは、エイは、他には?・・・」
トヨは微笑み、答えた。
「そなたの良いところをたくさん話してくれた。民の事を思い、一緒に汗を流すとかな」
本当にエイの魂がトヨに語ったのだと、若様は素直に信じた。死者と話ができるという事は報告で知っていた。彼は涙が止まらなかった。
「それに、エイを討ったのはタケノヒコ様ではない」
トヨは若様の後方に控えるアコを指さした。
「あの者に聞くと良い。そなたとエイの忠臣だ」
振り返ると、ぼろぼろとなった身なりのアコがいた。若様はアコに駆け寄った。
「トヨ殿の話は本当か!」
若様はアコの胸倉をつかんで怒鳴るように質問した。
「はい。私はお側におりましたゆえ」
「それで、誰が、誰がエイを討ったというのか!」
「それは・・・まことに申し上げにくいことながら、森が焼き討ちに遭い、部隊が壊滅した責任をテイ様の部下の方に追及されまして、御自害を・・・」
若様は崩れ落ちた。地面を何度も叩きつけ、泣いた。
「そんなこと・・・そなたさえ生きておればまた機会はあっただろうに・・・」
「テイ様の部下の方は、私に口止めなされて、我が軍の戦意高揚のため、タケノヒコ様に討たれたことにしようと。私も一晩中森の中を彷徨っておりましたが、今朝がた、本軍を見つけて合流いたしました。やはり本当のことを・・・」
「エイの、最期の様子は?・・・」
「それはもう、若様の御為だと申されて、晴れやかなお顔で・・・」
地面に伏せて、若様は泣き続けた。
ヤカミは自分を庇って戦死したタオの事を思い出し、心が重かった。ヤチトがその肩を優しく抱き寄せると、ヤカミは思わず両手で顔を覆った。
タケノヒコは黙って様子を見守っていた。
「戦があるから・・・」
トヨがそう言った。
「戦があるから、悲しみは増える」
タケノヒコは、トヨの横顔を見つめた。トヨは慈愛の目で若様を見守っていた。
「探すのだ。共に生きる道を・・・」
そう言うトヨを若様は見上げた。
それは太陽のようにまぶしく、そして温かい。
若様は、そう思った。
このエピソードは、どの歴史書にも書かれていない。
トヨノ御子 「麗しのヤマト 前編」 衷心記 了
完読御礼!
さて、次回から・・・
と言いたいところですが、東征記と我が名は日御子編はまだできていませんのでこの物語は一旦終了です。
ご愛読ありがとうございました。
次回作にご期待ください。