第9話
数え切れないほどの人を殺してきた自覚はある。その中には子どももいたし、泣き叫ぶ女もいたし、暴れる男もいた。
それでもそのときは一瞬だ。
カンファーはいつも執行の直前に、牢屋で過ごす死刑囚を下見する。
体型、首の長さ、心理状態を見ていたほうが的確な道具を選べるからだ。ただ精神に関しては、牢では落ち着いて見えても執行台に移ると打って変わって別人のように暴れたりするから、あまり当てにはならない。
リジンの下見も、やはり習慣だった。
背骨の浮いた痩せぎすの彼女は、暗闇の中でひっそりと座り込んでいた。髪もボサボサで、汚れた肌に、白い肌着を着付けただけのみすぼらしい彼女は、暗闇で出会ったなら怨霊と勘違いされてもおかしくない出で立ちだった。
カンファーが目を引かれたのは、その微笑だった。
あと少しで死ぬというのに、生きることへの執着があまりなく、むしろリジンは幸せそうに微笑んでいた。記憶の中に意識を置いて、幸福である思い出に生きているのだった。
羨ましかった。
今まさに命の灯火を断ち切られんとしているのに、その微笑みを浮かべられる彼女の美しさが羨ましかった。
そして思い出した。
──会ったことがある。
自分は、この子と会ったことがある。
どこだっただろう。
いや、ありえない。自分は穴ぐらに生きる蚯蚓だ。水曜日になれば穴から這い出て命を喰らい、また穴に戻る。そんな生活をしてきた蚯蚓が、こんな美しい子と会ったはずがない。
けれど強烈にその一瞬が頭に残っている。
その一瞬も、やはり彼女の笑顔だった。
そして、その一瞬も、カンファーは彼女を手に入れたいと思った記憶がある。
チャンスは、2度はない。
養父がよく言っていた。観覧者たちは一度で処刑が成功するのを期待している。2度、3度と刃を振り下ろすのは、罪人に対しても、観覧者達に対しても失礼な行いだ。
1度だ。
逃せない。
そうしてカンファーは、自分の手にある最初で最後の権利を使ってリジンを手に入れた。
いそいそと服を作っている最中、カンファーは集中しすぎて時が経つのを忘れていた。ふと気付くと、5着の服が出来上がっていた。
おそろしい時の流れだ。
今は一体、何時なのだろう。
リジンの部屋は誰もいないし、ボルネオの部屋も、やはり誰もいなかった。
ということは食事だろうかと食堂へ向かうも、誰もいない。だが厨房から話し声が聞こえてきたのでそちらに向かった。
ふたりは並んで食事を作っていた。
すっかり髪の短くなったリジンはどこか凛々しくて、後ろ姿だけでは美女なのか美男なのか見分けがつかない。
むっとしたのは、リジンがボルネオの服を着ていたからだ。長過ぎる袖を三つ折りにして、やはりズボンの裾も大きく捲っている。
だめ。
リジンは僕の奥さん。
僕が作った洋服だけを着せるのだから。僕だけのリジンにするのだから。
大股で歩み寄ろうとすると、リジンが気付いて振り返った。
「あ、カンファー様。今、ちょうどお夜食をお持ちしようかと思っていたところです」
夜食。
そんなに夜更けなのだろうか。
ということは、ふたりは既に何度かの食事を共にしたのだろうか。昼ご飯と、夜ご飯と。いや、朝ご飯も?
水曜日以外は時間の感覚がほとんど麻痺してしまう悪癖がここでも顕著に現れてしまう。
沸々とする怒りにカンファーは混乱した。
なにそれ。
どうして、ふたりなの。
けれど、どういった言葉でこの気持ちを伝えられるのかがわからない。外で使うような、ぶっきらぼうな言い方では怖がらせてしまうかもしれないし、心を閉ざしてしまうかもしれない。
なんて言っていいか、わからない。
「……お気に召しませんか? ボルネオ様にカンファー様のお好きなものをお聞きして作ったものなのですが……あ、果物もございますよ」
自分の態度がリジンに気を遣わせているとわかる。なんとか打破したいのだけれど、相手が傷付かない物言いが思い浮かばない。
ふとシンクを見ると二人分の皿が重なっていた。
どうしても不愉快だった。
「ぼくの……」
奥さんなんだからボルネオとふたりきりで食事なんてしないで。
そう言いたいのに、結局、伝えられない。
「あ、そうですね。カンファー様のお部屋で召し上がられますか」
また違う意味で受け取られてしまう。否定しても話がこんがらがってしまいそうだから、カンファーは有耶無耶にして頷いた。3人は伴ってカンファーの部屋に向かう。
◇◆◇◆◇◆
部屋ではリジンの着せ替えが始まった。一番似合っていたのはハイネックのセーターだ。ざっくりとした編み込みはリジンの痩せ過ぎな体を隠してくれるし、男には見えない華奢な首もまた然り。それでいて落ち着いた紺色だから、リジンの中性的な魅力をいっそう引き立てた。
「にあう」
ずっと、それを着ていて欲しい。ズボンは未だボルネオのものだけれど、カンファーは幾分か満足した。
リジンは服の出来に驚いて、くるくると回っていた。
「手先が器用なのですね。こんな短時間で仕上げてしまうだなんて」
「天は2物も3物も与えるんだよな、気に入ったやつには」
「ボルネオ様は、なにか特技や趣味がおありですか?」
「ねえんだよなぁ……強いて言うなら、絵を描くことかな」
「油絵ですか?」
「そう」
「とても楽しそうですね。ぜひ、見せてください」
「おう。なんなら今から俺の部屋に来るか? 目が冴えて眠れそうにねえし」
「奇遇ですね、私も眠れそうにありません。カンファー様はいかがなさいます?」
突然、聞かれて、首を振ってしまった。
本当はふたりきりでいて欲しくないのに、驚いて反射的に返事をしてしまった。
消えていくふたりの後ろ姿を見送る。少しばかりボルネオが視線を寄越していたが、わざと見ないふりをした。
真っ暗になる部屋がいつもよりも広い気がした。
足音が遠ざかっていくのが、なんだか、もどかしい。
「僕の奥さんなのに、どうして僕をひとりにするの」
相手がいなければ伝えられるこの言葉が憎らしい。すんなりと口から飛び出てくれればいいのに、肝心なときに出てくれないんだから。
「寂しい」
情けない。
「ひとりは嫌だ」
辛い。
「あんなふうに笑ってよ」
リジンのために作った服を抱き締めると、なんだか虚しくなった。
そこで、ふと影が生まれた。
振り返ると、リジンがドアを開けていた。
ボルネオと行ってしまったのではなかったか。幻かと疑いたくなるほど幻影的だった。
「ボルネオ様が仰っておりました。カンファー様は、本当は寂しがり屋だから、強引に連れて来いと。一緒に行きましょう、カンファー様」
微笑むとその影が動いてすぐわかる。
カンファーは、もう返事を間違えなかった。ひとりの空間に現れたリジンに差し伸べられた手を取って廊下に出る。
柔らかな手だった。