第8話
パントリーの整頓が終わると、リジンの部屋に集まってリジンの変身大作戦が早速開始された。
まずはお風呂だ。
バスタブに湯を張って浸かるなんて贅沢をした経験がなく、リジンはその快感に驚いた。疲れが流れ出ていくような感覚だ。
髪は3度洗った。1回では泡が立たず、2回では絡まりが解けず、3回目でようやく以前の状態に戻った。滑らかな指通りを何度も確かめたくなってしまうほどだ。
体を擦ると、見たことのない垢が浮いてぎょっとする。
(こんなに汚れてたんだ……)
洗い終えると、皮膚が一皮剥けた気分になる。
再び浴槽に浸かると、新しい皮膚に湯が染み渡った。蝋燭に囲まれた浴室は幻想的でもあり、気分がいい。いつまでも浸かっていられると思えるほど、気持ちがよかった。
そうしてたっぷりの時間を要して部屋に戻ると──
「……え!? そんな顔だったか!? めっっっちゃ肌キレイじゃ──!!」
待ち構えていたボルネオが、またリジンの頬を両手で包もうとしたところで、やはりカンファーに阻止されて、仕方なく腕を組んでいる。ボルネオは、本当にリジンに触れるのに興味以外の他意がないらしい。カンファーが阻むから、よくわからないけれどやめておく、そんな顔だった。
「綺麗だなぁ。髪切るの勿体ねえかなー。いやぁ、人命優先だろ!」
ボルネオはしゃきしゃきと鋏を開閉してみせた。炎にきらめく鋏はとても新しく見えた。問答無用でリジンの髪を切っていく。
「そ、そんなに切るんですか?」
「ばっさり行ったほうがいいんだよ。どうせすぐ伸びる」
「は、はあ……。いつもボルネオ様がカンファー様の髪も切ってらっしゃるのですか?」
「そう。カンファーはあんまり見た目を気に掛けねえから、暇潰し。お前もそろそろ切るからな!」
声を掛けられたカンファーは、返事もしなかった。身なりを整えるのはあまり好きではないらしい。
「絶対に似合うから、安心しろよな」
とはいえ、生まれて初めての短髪にどぎまぎしてしまう。
髪が短くなるだけで、頭部を守る部位がなくなったような、なんだか少し頼りがないような、それでいて軽くなって楽であるような、複雑な気持ちになった。
髪を切ったあとでまた髪を洗う。
あとはカンファーによる採寸だ。ボルネオの大まかな測り方と異なり、カンファーはメジャーを用意していた。腕の長さ、首周りなどなど、貴族がそうされるようにリジンも傀儡になる。
終わったかと思うと、カンファーはいそいそと部屋を出て行ってしまった。それも蝋燭の類をなにも持たずに。
あれでは不便だろう。
ランプを持って追いかけようとしたが、ボルネオに制された。
「カンファーなら大丈夫。あいつ、天才だから。目が暗闇に慣れるの早ぇし、どんなに暗くても、見えてるみてえにスムーズに動き回れるんだよ」
「そうなんですか……」
「生地と糸を選びに行ったんだよ。この屋敷じゃ、そういう作業が暇潰しにちょうどいいんだ」
天性の才能なのか、厳しい訓練によって得た技術なのかはわからないけれど、リジンは凄いと褒め称える気分にはなれなかった。切ない過去が垣間見えたからだ。
◇◆◇◆◇◆
「ねえパパ! どうしてあいつの死刑が執行されないの!?」
モルファインが詰め寄ると、さすがの公爵も愛娘相手では威厳を保っていられず、狼狽えてしまう。
結果だけを伝えることにした。
「死刑は取り消しなんだそうだよ」
モルファインは大袈裟に両手を広げて訴えた。
「なぜ!? どうして!? あの女ったら、私を殴ったのよ!? それなのにお咎めなし!? パパはそれでいいの?」
公爵は努めて諭す口調を心掛けた。モルファインを逆撫でしてしまうと、事がさらに面倒になるのは明白だ。
「いいかい、モルファイン。あのメイドは裸も同然で、男の看守だらけの牢屋に何日もいたんだ。辱めを受けたのと同じだ。それに牢屋っていうのは、ほとんど食事もなく、とても冷たい場所だよ」
「だから!?」
「そのうえでの死刑取り消しなのだから、充分に罰を受けたと、上が考えたのかもしられない」
「ありえない!」
モルファインは顔を真っ赤にして腕を組んだ。
気難しい子に育ってしまった。
なんでも自分が一番でないと気が済まず、なんでも自分が輪の中心でなければ面白くない。貴族同士では表面上取り繕うということを身に着けたものの、屋敷に戻れば鬱憤を誰彼構わずぶつけて発散する方法で心のバランスを取ってきた。
弱い子なのだろう。
自分で自分の感情をコントロールできない子なのだ。
公爵は、あのメイドに思いを馳せる。
気の利くメイドだった。1を用意して欲しいと頼めば10は用意してくるメイドで、だが身分を弁えて決定は主に任せる慎ましやかなところもあった。名前も思い出せないが、畏怖もなく真っ直ぐと公爵を見返してくるのは、あの女メイドの他にいなかった。
惜しいことをした。
モルファインさえ騒ぎ立てなければ、メイドを辞めさせると脅迫でもして、言いなりにして妾にでもしてやれたものを。
「ねえ、パパ聞いてる!?」
「あ、ああ、なんだい?」
「だから、もう一度あいつを訴えましょうよ!」
なにを馬鹿なことを。
あの女は処刑人の妻になったのだ。
真実が喉まで出かかったが、これには厳しい緘口令が敷かれている。あの場にいた、ほんの数名しか知らない事実だ。他に明かしてしまえば、飛ぶのは自分の首である。
「それはできないんだよ、モルファイン」
「なぜ!?」
「あの子は罰を受けて、それで自由になったんだ。既に罰を受けた罪を、再び訴えることはできないんだよ」
「そんなのっておかしいわ!! あいつには死刑がぴったりなのに!!」
コンプレックスなのだろうか。
殴られた恨みというよりは、どこか、あのメイドだから徹底的に痛めつけてやりたいという魂胆がみえる。自分にはない清らかさがあると、もしかすれば本能のどこかで感じ取っているのかもしれない。
男の庇護欲を掻き立てる、脆さと色気のようなもの。
あの女には、それがたっぷりと滲み出ていた。
「これじゃあ気が済まない。絶対に苦しめてやるんだから! そうだ、母親よ!! あの醜い母親を訴えればいいんだわ!」
「無理だよ、できない」
あのメイドの母親は、処刑人の姻族にあたる。無闇に手を出したら痛い目を見るのはこちらだ。貴族よりも重要視される処刑人は、やはり、そこらの貴族よりも潤沢な資産がある。そんな相手を敵に回すなど、あってはならない。
だが、モルファインは納得いかないようだった。
「ちょっとパパ! どうしてそんなにやる気がないの!? なぜ!? 殴られた私は可哀想じゃないの!?」
「なにを言うんだ。娘が殴られて、なにも感じない親なんていないよ。腫れた頬を見るたびに胸が張り裂けそうになる」
「じゃあ、どうしてあの女を罰してくれないの!?」
さすがの公爵も堂々巡りの会話にうんざりした。珍しく声を張り上げる。
「もう罰を受けたんだ!」
「全然足りないわ!」
「それを決めるのはお前じゃない!!」
悔しかったのか、言い返す言葉がもはやなかったのか、モルファインは癇癪を起こして悲鳴を挙げた。悲鳴を上げながら頭皮を掻き毟る様は狂っている以外のなにものでもない。
耳をつんざくほどの高い声は、公爵の神経を逆撫でした。
こんな娘を毎日相手にしていたのじゃ、メイドが手を上げてしまいたくなるのもわかる。ましてや唯一の肉親である母親を侮辱されたのだとしたら尚更だ。
「あー、もう、うるさい!」
「パパの馬鹿ぁ! なんでわかってくれないのよぉー!!」
それはこっちのセリフだ。
「パパぁ! パパったらぁ!!」
「黙れ! お前のほうこそ少しは成長したらどうなんだ! 赤ん坊みたいに喚いて! 恥ずかしいと思わないのか!」
普段は甘い公爵に叱責されたとあって、モルファインは目を見開いて顔を真っ赤にした。唇をへの字に歪めて、大股でずんずかと部屋を出て行ってしまう。
公爵は、ようやく静かになった部屋で脱力した。
どこから教育を誤ったのだろうか。あんなに可愛らしい少女だったのに、今ではこんなヒステリックで手に負えない娘になってしまった。
「さっさと諦めてくれればいいのだが……」
処刑人はあの女を手放すまい。
同じ男として、わかる。
上手く立回らなければ──。
公爵は深く溜息をついた。