第5話
その日はあっという間に眠りについてしまった。
屋敷中が暗いのと、カンファーがいなくなってひとりになってしまい、急に疲労を覚えたのだ。それもそのはずで、令嬢を殴打したその日から捕らえられ、ろくな食事もなくずっと牢屋にいたのだ。寝具類の一切ない牢では熟睡できるはずもなく、リジンは久しぶりに温かいベッドに包まれたといえる。
(それにしても、目を開けても暗い)
自分が目を開けているのか、瞑っているのか、それさえもわからない暗闇には慣れるのに時間が掛かりそうだ。手探りでキャンドルを見つけ、やはり手探りでマッチに火を灯す。
そうしてやっと身動きできるようになった。
身支度を整えて部屋を出る。
左右と正面に伸びた廊下をそれぞれ見て、右に決めた。右から来た記憶がある。──と、勢いこんでみたものの、リジンはすっかり迷ってしまった。
「……カンファー様ー……」
呼んでみても返事はなく、まるで洞窟に向かって声を掛けているみたいに静寂の中にいた。
「困りましたね……」
本当ならばこんな暗いところにひとりで長居などしたくない。いっそ走り出してしまいたいところなのだけれど、小さなキャンドルの火が消えてしまったらそれこそ一大事だ。手をキャンドルの風除けにしながらゆっくり進む。マッチも一緒に持って歩かなければならないと学んだ瞬間だった。戻れるのであれば、取りに行きたいくらいだ。戻れるのであれば。
「カンファー様、いらっしゃいませんか?」
角を何度曲がったのかわからなくなったころ、階段が現れた。このまま二階を彷徨うより、一階に行ったほうがいいかもしれない。
リジンは慎重に階段を下りた。
また複雑な蟻の巣みたいに伸びた廊下を進むと、突き当たりにぶつかった。なにやら扉がある。
(もしかしたら、裏口かもしれない)
リジンは逸る気持ちを抑えて、ドアを押し開けた。
そこもやはり暗かったけれど、これまでの道とは決定的に異なる点があった。
人がいたのだ。
髪を刈り上げた逞しい青年が、そこにいる。しかも物音に気が付いて振り返ってきた。
目が合う。
「うわあああああああああ!!」
「──本物ッ!?」
青年が叫んだので、リジンもそれが廊下に並べられた作り物ではなく生きた人間と知る。
そうなると互いに、この屋敷に主以外には生けるものがいるとは思っていなかったのかパニックになって叫び始めてしまった。──特に青年が。
「なんだよ、お前! 刺客か!?」
「あ、あなたこそ、どちらさまでしょうか!」
「なんで俺がお前なんかに身分を明かさなきゃならねえんだよ! 早く出て行け! 殺すぞ!」
どうやらここは厨房に繋がるパントリーだったようだ。あらゆる食材が積み上げられていて、さらには刃物類も揃っている。青年はその一本を振り上げて威嚇してきたのだ。
鋭い刃がきらめいた。
「お、お待ちください! なにか誤解があるようです! 私は侵入者などではございません!」
「怪しい奴はだいたいそうやって言い訳すんだよ!」
「本当です! 私は昨日からここに住むことになりましたリジンと申します! メイドをやっておりました!」
「メイドを雇う話なんて聞いてねえ!」
「いえ、メイドして雇われたわけではなく──!」
「ごちゃごちゃうるせえ!」
青年が突進してくるのが見えて、リジンは反射的に目を瞑り両手で頭を庇った。そのせいでキャンドルが床に転がり、火が消える。青年が用意していた明かりも、どうやら彼の勢いによって生まれた風で消えてしまったらしかった。
暗闇が沈黙を引き連れて舞い戻ってきた。
先までと同じ闇のようでいて、だが、それは明らかに違う。
なにかがいる。
リジンの闇のせいで見えない目でもその圧倒的な存在が重く感じられた。
(目の前に、誰か、いる……?)
初めは闇に包まれたせいで青年が目標を失って立ち止まってしまったのかと思った。けれど、重そうな存在感のほうへ手を伸ばしてみるとそれは確かにいた。
人だ。
まさか──。
「カンファー、様……?」
問うと、誰かが動いた。
視界がぱっと明るくなる。
ランプだ。
ランプが差し出されていた。
受け取ると、やはり相手はカンファーで、白いシャツにひとつもシワを付けることなく青年を気絶させていた。床に倒れた青年はすやすやと眠っているようにも見える。
「あ、あの、彼は一体……?」
「……あに……」
「……あに、とは……? あ、お兄様ですね」
あまり似ていなかった気もするが、そこは触れないほうがいい気がしてやめた。
それよりもカンファーだ。
カンファーは、昨日のあの白クッションにそうするようにリジンの頭をぺたぺたと撫でている。なんだなんだとカンファーの目を見上げると、カンファーも真っ直ぐと見返してきて目を逸らさない。終わりが見えなかったので、とうとうリジンが訊ねた。
「……怪我はありませんが、なにか……?」
ぺたぺた。
なにか違うことを聞きたいか、伝えたいのだ。
(わからない……。なんだろう。あっ!)
「大丈夫、もう怖くないです!」
思い付いた勢いで言ったからか、リジンは無意識にカンファーの大きな手を取っていた。そのせいなのかは定かではないけれど、カンファーは硬直してしまう。
大きな手はやはり冷たかった。固くて、乾いている。何人もの首をこの手で斬首してきた恐ろしい処刑人。
けれど──。
どこからともなく現れたのは、リジンを助けるために違いなかった。
誰かを殺した手はリジンを助けた。
今は、この手に恐怖を抱けなかった。