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第29話


 ぱしん──……。


 思った以上に軽い音だった。

 心は腐敗しているといえど、日頃から鍛錬を日課とする騎士だ。一般的な男性から比較すれば、やはり筋骨隆々の騎士に殴打されるとあれば、もっと鈍器で殴られたような、衝撃的で重量感のある音がするのだと思ったのだけれど、案外、軽かった。

 むしろ音が聞こえるより先に頭が割れてしまったと勘違いできるほどの撃破があると思ったのだ。


 だが、ない。


 それもそのはずで、振り上げた拳はロイが掌で代わりに受け止めてくれていた。

 騎士達と、リジンの間に割って入ったロイ。

 ロイの背中は大きくて、カンファーを思い出させる。


 ボタンを留めずにいたせいで、ふわりと浮いた騎士の制服が、天使の羽のようにリジンの頬を撫でた。


「民間人になにをする。いくら"処刑人の右腕"とはいえ、騎士たる仕事を忘れたわけじゃないんだぞ」


 おそらく、ロイは優秀なのだろう。

 与えられた任務が特異的で、かつ過酷のあまり、立ち位置が隊の中で危ういだけで、本来ならば隊員達に畏怖され、尊敬され、(おのの)かれるべき実力の持ち主に違いない。

 そして、この中できっと誰よりも強いのだろう。


 その証拠に、ロイの一言で3人は怖じ気づき、たじろいだ。


 おい。

 どうする。

 逃げとくか。


 3人はそれぞれ目配せをして、そんな会話を目顔で交わした。そして、先までの執拗さが嘘のように、あっさりとその場を立ち去ってしまう。


 ふう、と安堵。


 万が一にでも怪我をしたら、兄弟はもう二度とひとりでリジンを外に出してはくれなかっただろう。それでは、今日のようにボルネオの具合が悪くなったときに、あるいはふたりが動けなくなってしまったときに、なにも役に立てなくなってしまうところだった。


(危ない、危ない)


 殴られてやろうとしていた自分の度胸に、我ながら驚く。


 ひとりで安心していると、3人が公園を出て行くのを見守っていたロイが振り返ってきた。

 そして腕を組みながら言った。怒っているわけではないようだが、少し、呆れ顔である。


「君は、処刑人に理解があるらしい。それは"右腕"である私として非常に嬉しく思う。ありがとう。そして、すまない。私の仲間が大変な失礼をした。彼らに代わって謝罪をする。申し訳なかった」

「いえ、大丈夫です」

「そう言ってもらえると、私も気楽だ。彼らには厳重注意をするよう、隊長に伝えておく」

「はあ。でも、そこまでしていただかなくても──」

「だが、一言だけ言いたい」


 リジンの言葉を最後まで待たずに、ロイは続けた。どうしても言ってやらねば気が済まないといった具合だ。


「処刑人っていうのは、世論としては好感を持たれていない。そんな彼を擁護するような言葉を人前でひけらかすのは──」


 そこまで言って、突然、ロイが黙り込む。

 なんだ、どうしたのだ、と見つめていると、ロイの目が細まった。観察するみたいな、鋭い目付きになる。端正な顔の眉間に皺が生まれて、ほんの僅かに顔を近付けてきた。



「ちょっと待て、君、見覚えがあるぞ」



 はっとした。


 そうだ、彼が右腕なのだとしたら──




 リジンは一度、彼に会っている。


 しかも、素顔で。




 慌ててマフラーで顔を隠そうとするも、その手を抑え込む素早さはさすが処刑人の護衛といったところか。

 改めて、まじまじと顔を見つめてくるロイから、ぷいっ、ぷいっ、と顔を背けようとするも、追随してくるのだから堪ったものではない。


 何度かの攻防が続いて、とうとう、ぐわっとロイの目が剥いた。



「君っ、リジ──!!」

「しーっ! しーーっ!!」


 思わず叫びそうになるロイの口を手で塞ぐ。ここで名前を言われたら終わりだ。ただでさえ死刑が中断されたとあって有名なのだ。誰がどこで聞き、誰がリジンの名を覚えているとも限らない。


 立てた人差し指を自分の口に当てて静寂を指示すると、ふたりはきょろきょろと周囲を見渡した。公園に、他に誰もいないとわかると小声で非難し合う。


「見覚えがあると思ったら、処刑人の妻に選ばれた死刑囚のリジンじゃないか!」


 やはりロイは覚えていたか。

 それもそのはずだ。ロイは処刑人の護衛で、なおかつ右腕と称される彼であるならば、カンファーに死刑から救い出されたあの日、最初から最後まで付き従っているのだ。

 とすれば処刑人が誰を妻にして馬に乗せたのか、あの場にいた護衛ならば全員が知っているし、特にロイは顔を覚えるだけの時間があった。

 特に馬に乗り始めたときには素顔を晒していた。途中からカンファーに手渡されたハンカチで顔を隠したものの、顔の全貌を見られていることに間違いはない。


 なぜ覚えているのだと恨み言を言いたくもなる。

 いや、自分の迂闊さも呪いたい。気付くのが遅すぎた。


「静かに!! 静かにしてください!」

「君は、な、なんで、こんなところに、なにを……あーーーもうッ!!」


 苛ついたようにガシガシと短髪を掻きむしる彼は、頭を抱えながら深呼吸を繰り返した。天を仰ぐようにして、すうっ、と大きな息を吸ったかと思うと、再び周囲を見回す。努めて冷静を取り戻したらしかった。

 そして口調を改めたため、よりいっそう騎士らしく見える。

 厳かな雰囲気が彼に宿ったみたいだった。


「リジン様、こんなところでなにをなさってるんです? ご自分の地位を理解していないのですか?」

「してますよ! だからこんな変装までしてるんです! 髪もバッサリ切りました! こんなに!!」


 両手で切った髪の長さを表現する。短い髪が楽でいいと言いつつも、やはり失った長い髪も惜しかった。

 ロイは首を伸ばして公園中を見る。そして、じとりとリジンを見やった。


「まさか、おひとりですか?」


 それには素直になれない。言葉に詰まる。


「……ぐっ……」


 予想通り、護衛らしいお説教が始まった。


「なにをお考えになってらっしゃるんですか! よもや、女性であるリジン様がひとりで出歩くなど! いつ襲われてもおかしくありませんよ!?」

「やむを得ない事情があるんです! ひとつお店に寄ったら、もう帰りますから、安心してください!」


 これではいつまでも帰してもらえない。早々にその場を切り上げようとするも、ロイが付いてくる。いくら走ってみても、ロイの歩幅とリジンの歩幅とでは、彼にとっての早歩きで追い付かれてしまう。

 立ち止まって抗議する。


「なんなんですか!」


 すると、やはり小声でありながらロイも応戦した。


「私は一家の護衛を任されているのです! リジン様をおひとりにできるはずがないでしょう! 任務への背任行為になります! 職務怠慢は私が最も忌み嫌うものであります!」

「もう帰りますから、大丈夫なんです!」

「お送りします!」

「いりません!」


 ぎゃーぎゃーと喚きながら、ふたりはどちらともなく歩き始めた。けれど、さすがに街中に戻ると互いに押し黙った。目立つのを避けたいのは共通認識のようだった。処刑人の妻と、処刑人の護衛。どちらも処刑人に理解はあるが、襲撃は回避しなければならない。

 結局、薬屋までロイの付き添いを許した。(くっついてきた)

 店員から出来上がっていた薬を紙袋で受け取り、懐に収める。


 これでしばらくは保つ。咳止めだけでなく、解熱剤やその他諸々の症状に合わせた薬も買ったのでなかなかな値段になった。一括で支払うと、その紙幣の多さに視線が集まったけれど、今のところはロイがいるから強盗などの心配はいらない。その点は助かったと言えよう。その点は。


 薬を収めた懐をロイが訝しげに見つめてくる。


「まさか体調が悪いのですか? 水曜日に支障がありますか」


 どうやら薬を欲しているのはカンファーだと考えたらしい。リジンは首を振って否定した。


「いえ、違います。水曜日には、なんら影響はありません」

「ならば、安心です。次も時間通りに伺います」

「わかりました」


 と言っても、その時間があまりわからないのだけれど。


 さて、どうしようか。

 リジンは店の前で考える。


 秘密の出入口を知られるのはまずいだろう。あの家の存在は隠しておいたほうがいい。あの家に入ったとしたら、ここはなんだと根掘り葉掘り聞かれるのは目に見えている。リジンには、ロイの追及を躱す自信はない。

 となれば、なんとかしてロイを撒かなければならない。

 いや、このまま地下道を使わずに屋敷に送ってもらおうか。無理だ。人目がありすぎる。


 走るか?

 いや、走ったところで追い付かれる。ひとブロック進めればいいほうだ。


 痴漢だと叫んでみるか?

 いや、そんな注目を受けたら誰かがリジンを覚えているかもしれない。それに今の自分は男の姿なのだ。男が痴漢と叫ぶなど、この国では槍の雨が降るくらいにありえない。


(どうして声を掛けたちゃったのかしら)


 自分の行動の浅はかさを呪いつつ、ふと、思い付いた。

 逃げ仰せる方法ではなく、かねてから聞きたかったことだ。


「母は元気ですか」


 問うと、さすがのロイの表情も幾分か和らいだ。


「お元気です。ただ、残念ながら、私の任務は一家の護衛であり、姻族はその一家に含まれないと明文があります。なのでお母様の護衛は別の者が担っております。そのため、お母様の現況については護衛を経由した又聞きという形にはなってしまいます。ご承知おきください。


 しかし、お母様についている護衛は、知る限り、歴代の中で最も優秀な方でございます。ご安心ください」


「嫌がらせを受けたり、待遇に不公平が生まれたりなどは」


「ございません。護衛は、実は騎士を退役したものが毎日、常についておりまして、お母様の職場に潜入しています。一度たりとて、お母様に嫌味のひとつも浴びせることを許しませんでした。これからも、そのはずです」


「家は変わらず?」


「そのままの場所にお住まいです」


 ほっとした。

 さらに問う。


「屋敷で一緒に住むことはできないのでしょうか」


 それは以前から考えていたことだ。母の自由を奪ってしまうことにはなるが、安心はできる。

 だが、ロイは毅然とした態度で首を振った。


「できません。あくまで、処刑人一家は血筋を重んじます。姻族は一家に含まれないため、同居は許されないのです」

「……そう、ですか」


 姻族を屋敷に呼べないことに悶々としていたが、元気でやっているのなら救われた気持ちになる。

 そうか、元気か。

 それさえ聞ければいい。聞きたかった一番の言葉だ。


 リジンは思い出して、ポケットから手紙を取り出した。


「実は母に手紙を書いてきたのですが、渡していただくことはできますか」


 訊ねると、ロイは先とは打って変わって申し訳なさそうに目を伏せた。


「できかねます。姻族であると知られないために、私はお母様と一切の接触を禁じられています」


 そのほうが、母は安全ということか。娘に関わる人と関わらないほうが、母の平穏は保たれる。複雑な心境ではあるけれど、致し方ない。

 ならば構わない。

 手紙は郵送すればいいだけの話だ。

 リジンは持ってきていた手紙を、ついでに配達人に頼んだ。これで数日中には母の手元に届くはずである。


「母の話が聞けて、本当に嬉しかったです。ありがとうございます」

「いえ、どうぞいつでもお訊ねください。それとも、これからは処刑人に逐一報告しましょうか。週に一度にはなってしまいますが、それでもよろしければ無事に送り届けたそのときにご報告いたしましょう」

「そうしていただけると嬉しいです」


 これで、一方的に送り付けるだけでなく、一応の情報入手ができる。直接は会えずとも、その微かなやりとりだけで繋がっていられる気がするし、母もきっと同じ気持ちになってくれるだろう。


 さて、では残すところ問題はひとつである。


 どうやって逃げるか、だ。


 体で勝つのは無理だ。どんな手を使っても、ロイに捕まる未来しか見えない。とすれば、口で勝負するしかないとリジンは結論付ける。


 つまり、論破することにした。


「では、私は帰ります」

「お送りします」

「それは駄目です」

「駄目は駄目です。私の任務でありますから、送り届けます」

「だからです。ロイさんの任務は知る人ぞ知る、つまり周知の事実といっても過言ではありません。そんなロイさんが私を送ってくださるとなると、せっかく変装をしているのに、この私が処刑人一家と関係していると思われてしまいます!」

「ぐっ……!」


 ロイの頬が引きつった。痛いところを突かれた顔だ。

 リジンは間髪入れずに畳み掛けた。


「つまり! 今の私達はここで別れたほうがより安全だということです!」

「くっ……!」


 どうやら反論を思い浮かばないらしい。うーん、うーんと唸って唸って悩んで悩んで、ようやく納得してくれたようだった。


「……仰せのままに、いたします」


 渋々言った。

 そんな真面目そうな眉を寄せて眉間に皺を作るロイは、まだ幼く見える。20代半ばかもしれない。

 それほどに若くして優秀な人がカンファーの護衛をしてくれることに、リジンは誇らしくもあり、そして切なくもあった。心というのは白黒をはっきりとさせてくれないらしい。


 リジンは苦虫を潰したような顔のロイに向かって、ふと微笑んだ。


「ロイさん」

「はい」


 返事をするときには、ぴしりと背筋を伸ばすのが彼の癖らしかった。姿勢を正すと、思っていた以上に背が高い。

 リジンは頭を下げた。


「いつも守ってくださって、ありがとうございます」


 言うと、ロイはきょとんと目を見開いた。

 リジンは今日まで胸に溜めていた気持ちを打ち明けた。


「皆さんには、もしかしたら死を司る悪鬼に見えるのかもしれません。邪悪で、快楽殺人鬼で、傲慢で、いけ好かないと思っている人も多くいるのでしょう。彼を悪人だと罵る人だっているはずです。


 でも私にとっては、愛する夫なのです。


 そんな夫を、いつも無事に帰してくださって、心から感謝しています。ロイさんにお会いできたこと、光栄に思います。そしてこれからも、どうぞよろしくお願いいたします」


 言ったあとで、迷いながら手を差し出した。握手が妥当なのかと思ったが、ロイは一向に応えてくれない。差し出がましかっただろうかと、ロイを窺い見る。



 ロイの笑顔は眩しすぎた。



 表情のすべてから歓喜が滲み、喜楽が溢れていて、リジンが目を細めなければ直視できないほどにきらめいていた。

 こほん、と咳払いをひとつしてから、ようやく握手に応えてくれた。そして既に騎士の威厳をもって、謝辞を述べた。誰もが立派な青年であると太鼓判を押してくれるほどの立ち姿だ。


「身に余るお言葉です。正直、誰にも感謝されない任務を続けるのは、辛いこともありました。どうして自分が選ばれたのだと拗ねてしまう日もありました。けれど、これからはリジン様が屋敷でお待ちであることを胸に、精進してまいりたいと思います。ほとんどお会いできないでしょうけれど、



リジン様が私の任務の遂行を願っていると信じられれば、これからずっと"右腕"として働いていけそうです」


「いつか、お礼をプレゼントします」


「今の言葉以上に欲しいものなど、ございません。それでは、非常に! 非常に!! ひじょーーーーに、不本意ですが、私はここに残ります。どうぞ、お気を付けてお帰りください」

「わかりました」


 そしてふたりはどちらともなく握手を放して、別れた。


 リジンは気を引き締めて帰路につく。追手への細心の注意を払って家に戻ったが、問題なかった。ボルネオがそうしていたように、窓から街を眺めて不審な動きをする者がいないかを確認する。いなかった。そこには、別世界が普段通りに流れているだけだった。


(戻らないと)


 ここは、自分の居場所ではない。

 すべての施錠を施して、地下道へ潜った。


 母も幸せだろうか──ふと、思いを馳せた。

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