第28話
途中から歩幅を調整してよかった。
ボルネオと自分とでは足の長さがまるで違う。だから、教えられた数字通りの歩数では辿り着かないと気付いたのだ。閃きが早くて助かった。歩き始めてすぐに、ほとんど大股で歩くようにして、出口に繋がる階段が見えたときにはほっとした。こんな地下道を永遠と彷徨うのは、ぞっとする。ふたりが助けに来てくれたとしても、自分を見つけるのはきっと至難の業だったはずだ。
鉄扉から抜け出た一軒家は、やはりひっそりとしている。物が動いた気配はなく、無機質な空気で充満されていた。
「入口を隠してくださって、ありがとうございます。今度、お掃除しますね」
誰も住まない家に侘しさを覚える。用途を無視された存在に、なぜだか見て見ぬふりはできなくて、壁を撫でて言ってやる。せめてもの贖罪だった。そして、ただの自己満足であるともわかっている。でも仮に自分が窓際に掛かっているカーテンだとしたら、テーブルに置かれた空っぽの花瓶だとしたら、やっぱり一言あるだけで気持ちも変わってくるだろうと思ったのだ。
物にまで心があると思うなんて。
人との接触が限定されたからなのか、リジンは自分が繊細になりつつあると自覚していた。
(早く薬を届けてあげないと)
ぱんぱんっと頬を叩いて鼓舞する。
玄関扉を開けると、街は相変わらずの様子だった。
人々は笑顔で行き交い、時折、子どもが泣いていて大人があらあらと苦笑している。店のおじちゃんがお菓子をおまけしてあげて、ありがとうの会話。太陽は明るくて、土はきらめいていて、空は青くて、誰も背後を警戒していない。
(別世界みたい)
神が人間界に降り立つことができるとするなら、こんな気持ちなのかもしれない。
(この世界って、こんなに鮮やかで美しかったのね。そう感動するのだろう)
迷わずに歩き始める。
薬屋の場所は覚えていた。前回の買い出しのときにボルネオがリジンのために日用品を揃えてくれた店があった。その店が兼ねた薬屋だったのだ。
店は賑わっていた。
日用品だけでなく、薬を買い求める高齢者や、子の親が多くいる。リジンはボルネオから書いてもらった薬のメモを、あわあわと走り回る店員のひとりに渡した。忙しいだろうに、そんな状況をおくびにも顔に出さないのはベテランといえた。店員の説明によれば、どうやら粉薬はいくつかの種類の薬を混ぜて作る仕様になっていて、調製に時間を要するらしい。30分ほどしてから受け取りにきてくれと言われた。代金もそのときでいいと。
そうなると、暇つぶしをするしかなくなる。
適当に店の中を見ることにしてうろついてみるも、店内がそれほど広くないわりに、相当に混雑しているからなかなか買い物の邪魔をしている気分になって、そそくさと外に出た。
人混みから離れすぎた。
ほんの少しの人だかりでも、疲れてしまった。
街を往復してみよう。
歩くだけなら、きっと誰とも関わらない。
茶屋の呼び込みをやんわり断り、肉屋の豪快な買い時文句をさっと避け、青果店の安売りから目を逸らすと、外れのほうに公園があった。
誰もいない、ベンチと大樹があるだけの小さな公園だ。子どもたちもいない。公園を縁取る花壇にはたくさんの花が咲いている。
そういえば花を見ることもなくなった。
公爵家は見栄えを気にして多くの花を植えていた。水をあげるのは使用人による当番制で、自分の番になると久しぶりに再会した花の成長を感じたものだった。
(どんな花があるのかしら)
正直なところ、花の種類はわからない。色と形の違いだけが判別できて、名前はひとつも知らないのだがそれでも見るだけならいいだろう。どちらかといえば、花を生けるのは好きではなかった。土に根を張り、生き生きと咲く花を見守るほうが好きで、手入れといえば水を与えるくらいの知識しかない。
公園に足を踏み入れると、爽やかな風が吹いた。
いい香りだ。
花と土と太陽の、軽くなるような香りが風に乗って撫でてくる。くすんだ肺腑を浄化してくれるみたいだ。
もう少し風に当たりたいと、ベンチにでも座ろうかと思った矢先、誰かがいるのが見えた。先程は見えなかったが、ひとりの背中がある。
先客ならば仕方がないと踵を返そうとしたとき、それが怪我人であるのがわかった。
男だ。
太陽のように爛々と輝く橙赤色の髪を短く整えた男の人。
腕と背中に怪我をしていて、素肌が赤く染まっている。脱いだ服を傍らに置き、傷口にガーゼを当てようとしているのだが、背中には届いていない。ならば腕だとばかりに、包帯を巻こうとしているのだけれど、なにせ片手では巻きづらいのだろう。巻こうとしては失敗し、見ていて、もどかしくなる。
(あー、どうしよう)
これも職業病なのか。どうにも構ってしまいたくなる。やってあげたい。手伝ってあげたい。
でも自分は目立ってはいけない。処刑人の妻として、目的以外のことはせずに帰宅するのが最も安全で、それが仕事のひとつなのだ。ボルネオにも真っ直ぐに帰ると約束したし、カンファーの悪びれた顔も後ろ髪を引く。
(戻ろう。私は薬を届けないと!)
と、思うものの、足は男のほうに向かって歩き出していた。
(あー、私って本当に馬鹿。なんで放っておけないの……)
自分の性格にうんざりしつつ、だって仕方がないもの、と諦めつつ、静かに声を掛けた。
「……あの、手伝いましょうか」
できるだけ低い声で話し掛けると、男は驚いた様子で見上げてきた。なにを言っているのか、わかっていないかもしれない。
「包帯。やりますよ」
「……あっ、そういうことか。すまない、頼む」
(私、なにやってるのかしら)
まあ、これが終われば薬の出来上がる丁度いい時間になるだろうし、と言い訳をしてみる。
リジンは男の隣に腰掛けて、左腕に包帯を巻いてやり、さらに背中の傷にガーゼを当てて包帯を胴体に巻いてやった。少しキツめに巻いてしまったが、外れてしまうよりはいいだろう。
男は感触を確かめるように肩を回してみたりして、満足げに頷いた。
「すまない。どうも手先が不器用なんだ」
「ひとりでは難しいこともありますよね」
包帯を巻き終えたところで、男の服を取ってやる。かつて主にしていたようにシャツを広げてやると、男が目を見開いた。
「手慣れてるな。どこかの貴族の従者か?」
「い、いえ……!」
咄嗟に誤魔化す。幸いにも、男はあまり気にしていないようだった。
男がシャツを羽織るのを待って、もう離れたほうがいいだろうと去ろうとしたとき、そのシャツの模様に気付いた。
それは、国の騎士のものだった。
しかも、国のエンブレムの装飾が施されたシャツを着られるのは、その中でも優秀とされる幹部だけだ。並の隊員であれば、上着の1箇所にだけエンブレムが装飾されている。シャツは優秀の証なのだ。
なぜ、そんな人がひとりで公園なんかで手当をしているのだ?
通常であれば、国のお抱えの医師達がいて、専用の施設があり、それはもう手厚く看護をしてもらえるはずなのに。
その視線の意味に気付いたのだろう。男は苦笑して、シャツを撫でた。
よくよく見ればベンチの裏に剣やら、騎士団の上着やらが置かれている。
「不思議か?」
問われ、素直に応えることにした。
「……少し」
「私の任務のせいなんだ。任務が特殊で、ちょっと仲間から嫌われてる」
「この傷も、そのせいで?」
「まあ。仲間には、やり返せないからね」
これは、ちょっと嫌われているレベルなのだろうか。どう考えても、人に対してするような行いではないのだが。しかも、仲間に。
考えていると、男が問うてきた。
「"処刑人の右腕"って、どう思う?」
「えっ──」
処刑人。
まさかこの外の世界で、外の人間の口からその単語が出てくるとは思わなくて、リジンは声を低くするのを忘れて反応してしまった。幸運にも、やはり男はリジンの性別に関して疑いを持たずにいてくれた。
「私は通称"処刑人の右腕"と呼ばれる護衛なんだ。処刑人が住む家まで送り届ける役目を担う、唯一の騎士。聞こえはいいけど、悪い奴を守る最低の騎士だって、仲間からずっと厭われていてね。なかなか辛いものがある。医師も、私には手当をしてくれないんだよ」
そんな──
処刑人だけでなく、こんなところにまでその余波があったとは。
自分達だけが苦しんでいるのだと思った。
当事者だけが。
よもや、他にも処刑人のせいで苦しんでいる人がいるとは思いもしなかった。なんて傲慢だったのか。少し考えればわかることだったのに。
絶句していると、問いに対して思い悩んでいると勘違いしたのか、男は慌てて否定した。
「いや、いいんだ。少し愚痴ってしまいたくなっただけだから。私は任務に誇りを持っているし、ただちょっと、その──」
「女に相手にされねえからって、男に手出すのかあー?」
闖入者は公園には似つかわしくない騎士達だった。
どこからともなく現れて、ふたりを嘲笑うようにして、けらけらと腹を抱えている。気に食わないなら通り過ぎればいいのに、3人の騎士はわざわざリジン達に向かってきた。
こういう輩は知っている。
気に食わないから張り合ってくるのではなくて、馬鹿にしたいから絡んでくるのだ。
リジンはこういう人間を知っている。
文句を言いたくてあら探しをしたり、理不尽で支離滅裂な物言いをする奴。
男のひとりがリジンに向けて言った。おちょくっているとわかる間延びした口調だった。
「あんたも気を付けたほうがいいぜ? このロイ様は処刑人を守る悪党だからな」
無視をする。
すると今度は、隣にいる男に対して絡んだ。
「志はどうした? 国民のために奉仕する気持ちは、どこにやったんだよ。頭ん中は空っぽか?」
こんこん、と男の頭を小突く。男は蝿を振り払う手振りでそれを制した。
「……処刑人は、処刑という仕事を負ってくれている、れっきとした国民だ……」
悔しそうに顔を歪めながら、ロイと呼ばれた男が言った。
まだシャツのボタンも留めていないのにその上から上着を羽織って、がちゃがちゃと剣を背負っている。
「国民を殺すのが国民と言えるのかよ」
まだ男達は諦めずに言い掛かりをつけた。
ロイも言葉で応戦する。
「彼は殺してるんじゃない。罪が死に値すると判断された罪人を、処刑してるだけだ。殺すのと、処刑するのとは意味が違う」
男達は虫を払うように手を顔の前でひらひらとさせた。御託が鬱陶しいという表れだ。
リジンは嬉しかった。
カンファーが殺人鬼でないと知る人が家族以外にいてくれて、心から歓喜する。そうだとも、カンファーは望んで殺しているわけではない。そうなのだ、彼は本当はとても優しい。
3人のひとりが舌打ちをした。反論に窮してきたのだろう。
「屁理屈ばかり言いやがって。現に殺してるじゃねえか」
「……私は任務を遂行するだけだ」
ロイはとうとうひとりで踵を返した。
リジンはどうしようか迷ったけれど、薬屋に戻らなくてはならないし、奇しくもロイは薬屋のある道のほうへ向かってしまったし、残されてこの騎士とは関わりたくないしで、結局、ロイの後を追う形になった。
その行為が、ふたりが連れ立っていると勘違いしたのだろう。男達は今度は狙いをリジンに変えて並んで歩き、絡み始めた。
「あんたは右腕の恋人か?」
(この人達、しつこいなぁ)
うんざりしつつも、努めて冷静に。冷静に返した。
「いえ」
「一夜限りの相手とか?」
(なんて無礼な)
「いえ」
「じゃあ誘われただけか」
「彼に構うな。手当てを手伝ってくれただけの民間人だ。初対面だよ」
あまりの失言の連続に、ロイが痺れを切らして仲裁に入ってくれたけれど、騎士達は気にしない。君達こそ国民に奉仕する志をどこで腐らせてきたのだと言いたい。
「あんた、処刑人の右腕をどう思う? 殺人鬼を守る騎士なんて、裏切り者だろ?」
「それなのに税金から給料が出てるんだぜ」
「信じられないだろ? 処刑人なんて、たんまり金を貰ってるらしいぜ。人を殺して楽しんで、酒を飲んで女を囲って、豪遊してるに違いない」
「最低の野郎だよな」
なにを勝手なことをずけずけと。
彼らの傷をなにひとつ知らないくせに。
彼らの日常を、何も知らないくせに。
彼らがどうやって毎日を乗り越えているか。
彼らの苦しみを、知ろうともしないくせに。
「なあ、あんたはどう思うよ」
聞かれ、答えてしまった。冷静さなど、こんなときにまで保っている必要なんてないと思ってしまったのだ。
「処刑人が、処刑を楽しんでいるとは限らないと思います」
水曜日の彼の目を知っているか。
あの輝きを封じ込めた目を。
無理矢理に感情を押し込めているあの目を。
あんな目をする人が、斬首を楽しんでいるはずがない。
はちきれてしまいそうなほど悲しくて辛くて、本当はやりたくないから、だから必死に心を抑えているのだ。何日も何ヶ月もそうやってきて、とうとう手に入れたその技法が切ないと、なぜわかってくれない。
言った直後、リジンは自分のカッとなる性格を直したいと強く思った。
「なにこいつ、騎士様に歯向かいやがって」
「細くて小さくて弱虫のくせに」
「口だけ達者かよ」
その会話が、リジンを痛めつけてしまうことへの賛同だった。騎士のひとりが鍛えた拳を振り上げたのだ。
(それがどうした。カンファー様の拳のほうが、もっと強いに決まってる)
強がりというか、開き直りというか。
処刑人の妻としてここだけは引けないと、リジンは男の拳を睨んだ。




