第26話 改めて
男の命が切り落とされたあと、ボルネオはリジンを抱き締めた。
男の命を切り落とした鉈を持ちながら、その手で愛しそうに生きているリジンを抱く。
生と死が、共存しているみたいに思えた。
人を殺したその腕で、人の命を尊ぶ。どこか、なにか、おかしい。けれどどこがおかしいのかわからなくて、漠然とした疑問だけが胸の奥のほうに残った。
ボルネオはリジンの頭を抱き寄せて、そのままくしゃりとリジンの髪を握った。髪をとおして、額に強いキスが落とされた。
「行くな、って、言っただろうが……!」
息が苦しそうだ。途切れがちなのに、ボルネオの言葉は力強い。
「でも、カンファー様が……」
「あいつは、口下手すぎんだよ。わかってんだろ、そんなこと」
「え……で、でも、もう要らないって──」
「そんなこと、言ってねえじゃねえか……ッ!」
ぎゅうぎゅうと胸板に押し付けられる力が心地よい。必要とされている実感が、生きていることを喜んでくれている実感が湧く。
けれど、それ以上に気掛かりなのはボルネオの呼吸だ。浅くて速すぎる。
「帰るぞ」
「え。えっ……? それは、カンファー様がお許しにならな──」
「いいからッ!」
強引に連れ戻されてしまう。
ふと、背後に死を感じて、手を引かれながらも振り返った。
生きていた命の面影は、もはやそこにはなかった。彼は生きたかっただけなのに。リジンを殺す代わりに、生きたかっただけ。
この世界はなんなのだ?
罪が多すぎて、なにが罪なのかわからない。
皆、罪人なのではないか?
よくわからない。罰せられるものと、そうでないものの境がわからなくなってしまった。
◇◆◇◆◇◆
屋敷に戻って玄関を閉じると、ボルネオは我慢の限界に達したみたいにその場に蹲って咳き込んだ。血の付いた鉈を持つ手が白くなっている。
「く……っそ……!! 久し、ぶりに、走っ、て、……息が……!」
「ボルネオ様、お薬は、お薬はどちらにあるのでしょう」
ひゅう、ひゅう、と喉が鳴っていてリジンまで苦しくなりそうだった。早くなんとかしてやらないといけない。
どうしていいかわからず、背中を擦る。焦りばかりが募った。
「ボルネオ様、お薬は? すぐに取ってまいりますから、どこに──」
「……これ……」
ぬるりと現れたカンファーは、もう剣を持っていなかった。その代わりにグラスに一杯の水と、小さな紙に包まれた粉薬が握られている。リジンはそっと薬を受け取り、ボルネオの顔を上げるようにして口に流し込んだ。
「……これも……。胸を温めると、楽になるらしいから」
さらに熱いタオルが渡された。ボルネオのシャツのボタンを開けて心臓の上にそっと置く。手で軽く押し当てると、ボルネオの肋骨が激しく上下しているのがわかった。
少し呼吸が楽になったのだろうか。はあ、と長く息を吐いた感触がある。
ボルネオの体は、やはり傷だらけだった。
どれも古くて、茶色くくすんでしまっているところからして、幼少期の傷だとすぐにわかる。むしろ、カンファー以上の傷の多さに、リジンは胸が苦しくなった。こんな体を、自分は酷使させてしまった。
「ボルネオ様、助けてくださってありがとうございました。こんなに苦しくなるのに、走ってくださるだなんて……」
「……約束、しただろ……! ずっと、この家にいるって、約束、したじゃねえか!」
「でも、私──」
「守ってやるから……! カンファーが、いねえときは、何度だって俺が、守るから……ッ! どこにも行くな!」
喋らせてはいけない。
わかっているのに、ボルネオが必死にリジンの腕を掴むから。
どこにも行かせはしないと、行かせるもんか、行かせてたまるかと、苦しいはずなのに全力を込めて腕を掴んでくれるから、言わずにはいられなかった。
「私、いてもいいんでしょうか……?」
その質問はカンファーに向けていた。
ボルネオの様子を、立ち尽くしながら見守っていたカンファーは打ちひしがれたみたいに項垂れている。狼のように鬣や耳と尾があれば、それらすべてがぐったりと垂れ下がっていることだろう。
その頬が赤く腫れていると、やっと気が付いた。
「あにに、怒られた」
「……怒る?」
ボルネオを見ると、努めて呼吸を繰り返している。先よりかは、やや安定してきていた。
カンファーが続けた。
「ぼく、リジンに嫌われたくなかった。こんな仕事してるの、嫌われちゃうと思った」
「そんな、嫌いになんて──」
「これからもずっと、あの部屋はずっと血の匂いが続くんだよ。襲撃の可能性があるときには、やっぱりあの部屋が一番安全だから、あには、きっとまたあの部屋を選ぶ。そんなことを繰り返すうちに、もう嫌だって、思っちゃうかも」
「でも、それは──」
「それに、これからも誰かに狙われ続けるかもしれない。リジンがこの家にいる限り、怖い思いをし続けないといけないかもしれない。それを、どうにかして守らなくちゃと思ったんだ」
リジンは、思った。
気付いてしまったのね
人といるということは、人を慮ること。人を尊重すること。自分本位ではいつか壊れてしまうことに、気付いてしまった。
「だから出て行ってもらうのがいいと……。けど、あには、それは違うって言った。手放すことと、放り出すことは違うって……。ぼくがやってるのは、放り出すことだって。無責任なことするなって。
最期まで守り抜けって
怒られた。
だから、ごめんね。ぼく、また自分のことしか考えてなかった。伝えるのが難しいからって、伝えなくてもいいとは違うのに、また間違えちゃった。考えてるうちに、あにが飛び出して行ってくれた。怖い思いをさせてごめんね」
カンファーは言いながら、逞しい腕を伸ばして、その指からは想像もできないほど優しくリジンの頬を撫でた。それはおそらく、カンファーがつけてしまった一文字の傷があるところだ。
「怪我させて、ごめんね」
カンファーは泣いていた。
崩れたことのなかった表情をぐちゃぐちゃにして、雨のように大粒の涙を流した。涙が頬に降ってくる。
温かい雨だった。
カンファーの心は、とても温かかった。
生きている──
あの檻の中で感じた温もりは、やはり間違ってはいなかった。
「私、いてもいいんでしょうか」
あなたに、見放されたわけではないのでしょうか。
あなたに、見限られたわけではないのでしょうか。
あなたに、愛されていないわけでは、ないのでしょうか。
あなたと、いてもいいんでしょうか。この家でいつまでも、おふたりと、笑っていてもいいんでしょうか。
問うと、カンファーは頷いた。
それに対して、ボルネオが悪態をついた。なんならカンファーの脚を蹴りさえした。
「ちゃんと言えって……!」
掠れた声に叱責されると、カンファーはリジンの手をおそるおそる取った。
そして、膝をつく。
「結婚してください」
泣きながらの言葉は、涙に濡れて美しく輝いていた。
「一生、ずっと、護るから、もう誰にも傷付けさせないから、だから、だから──」
ぼくの奥さんになってください。
これを聞いて、いったい、誰が断るというのだろう。




