第25話
残虐シーンが少々あります。
リジンは混乱の真っ只中にいた。
カンファーが自分に刃を向けた。
その意味がわからないながらも、生きたいという本能がリジンを走らせた。
振り返る。
追ってきてくれていたボルネオが、廊下の途中で苦しそうに胸を抑えて蹲っているのが見えた。
駆け寄ろうとして、ゆらりと部屋から現れたカンファーに肩を震わせる。
「リジン……行くなッ!」
乱れた呼吸でボルネオが言う。
けれど、一歩、また一歩と迫ってくるカンファーの目はまさしく処刑人だった。だからリジンも、一歩、また一歩と後退する。
自分は、彼に処刑されるはずだった。
その事実がまざまざと思い起こされる。死の直前で、こんな処刑人が現れたら絶望以外のなにも感じないだろう。それほどに、処刑人のカンファーは闇のようだった。
けれど、恐怖に押し負けてボルネオを放っていくなんてできない。せめてボルネオを介抱してから、と近付くのと同時に、刃が暗闇を裂いた。
鼻先を掠めた切っ先。
一瞬、カンファーの瞳が見開かれた気がした。まるで傷付けてしまったのは誤算だとでもいうように。
頬から流れる生温かい生きている証が訴えてくる。
ああ、本気なのですね
「やはり、私では駄目だったんでしょうか」
静かに問うと、カンファーの目に戸惑いが浮かんだ。
「私にはなにも取り柄がありません。地位もお金も、美しさも、なにも。そんな私を妻にしてくださるカンファー様のために、なにかをしてあげたいと思ったのに、私が、私が、お仕事場で吐いたりなんかしたから、見限ってしまわれたのですね。私では駄目なんですよね」
「ちがっ……リジ、ン……話を、聞け……ッ」
ボルネオの喉が笛のように鳴る。
自分は、ここにいてはいけないのだ。
もう、嫌われてしまった。仕事のできない妻など妻ではないと、判断されたのだ。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
こんな私なのに、ふたりの傍にいたいと思ってしまって、本当にごめんなさい。
リジンは踵を返して走り出した。
すっかり廊下の配置を覚えて、置いてある装飾品にも驚かずに角を曲がって玄関に辿り着く。幾重もの施錠を解いて外に出ると、雨が降っていた。
「そうですか……今日は、雨が降っていたのですか」
そんなことも知らなかった。
外の天気など気にもせず、血の匂いを恐れて小さくなっていただけの自分が恥ずかしい。雨の中、濡れて帰ってくるカンファーのためにタオルの1枚も用意してやらなかった。着替えのひとつも、湯を沸かすことさえ。
それは、嫌われてしまいますよね。
当然ですよね、私なんて、いらないですよね。
気が利かないから。
仕事ができないから、そんな女、いらないですよね。
リジンは振り返らずに外へ飛び出した。
自由の世界に飛び込んだはずなのに、暗い屋敷から光へ飛び込んだはずなのに、行く先がまったく見えなかった。
真っ暗でなにも見えない。
なにも。
◇◆◇◆◇◆
勢いよく飛び出したはいいものの、街に向かうほどの勇気はなかった。
もし母の家に行ったとして、途中で誰かに見つかったら?
それに、母にまた自分という重荷を押し付けるのはどうなのだろう。やっと母が自由になれたのに、そこに逃げ込むなんて。
あるいは、母が既に引っ越していたらどうするのだ。手紙は旧住所に送っても転送されるけれど、行き先までは教えてくれない。
とどのつまり、街まで行く気力がなかった。
とぼとぼと泥濘を歩いていると、なんだかとても疲れてしまった。大木の下にある石に腰掛けて、自分の足を見つめる。土で汚れた足は凍えているみたいに冷えていた。
寒い。
雨が冷たい。
ひとりは、とても寒い。
「これから、どうしましょう」
やりたこともない。
生きていく方法もわからない。
どうして自分は逃げ出したりなんかしたのだろう。
あのまま、カンファーに処刑されてしまえばよかった。そしたら、ひとりで打たれる雨がこんなに冷たいものだと知らずに済んだのに。ひとり放り出されたこの世界のほうが真っ暗なのだと、知らずに済んだのに。
そのとき、急に空が陰った。
振り仰ぐと、見知らぬ男が立っている。
あまり綺麗な服を着ていないところを見るに、彼も同じように家のない人らしかった。髭が伸びているせいで年齢はわからない。白髪混じりであるからして、なかなかな高齢にも見える。
「あんたがメイドか?」
「……メイド?」
「あんたが、モルファイン公爵令嬢のメイドだった女か? 処刑人の妻の?」
「……違います」
もう妻ではない。
そういう意味で否定したのだけれど、男は勘違いしたらしかった。
「そうか……残念だ。この山をうろついているから、ひょっとして、と思ったんだが……。まあ、いいさ。殺して心臓を持って行けば、令嬢も残っている金を渡してくれるに違いない。この山に遺体を置いてきたと確認させれば、嘘も真実になる。悪いが、俺のために死んでくれねえか。金が必要なんだ。金がないと、生きていけねえんだよ」
男が振り上げたのは、剣でも弓でもなく、単なる大きな石だった。彼には武器を買うお金もなかったのだ。
彼は、どうやら金があれば生きていけるらしい。
そうか、それもそうだよな。お金さえあれば、生きていける。
でもリジンは考える。
自分は今、目の前にお金があったら生きていこうとするのだろうか。
ひとりぼっちになってしまって、街に出るのも怖くてできない臆病な自分は、果たして生きようと命を燃やすだろうか。
しないだろうな、と思った。
放置して朽ちていく命なら、せめて彼の生きる糧になってやろうか。
母はきっと、自分が幸せに生きていると信じ続けてくれるだろう。兄弟はきっと、自分は母と慎ましやかに暮らしていると信じ続けてくれるだろう。
せめて、3人の想像の中だけでも笑って生きていたい。そうすれば、この命が彼の生きるための金になったとしても、もう思い残すことはない。
ああ、死ぬのが少し遅れただけか。
ほんのちょっぴり、最後に夢を見ただけだった。もしかしたら、自分は今もまだあの牢屋の中にいて、記憶の中に生きているのかもしれない。
母と共に、ボルネオと共に。
カンファーと共に。
はっとしたのは、男だった。
穏やかな笑顔を浮かべたリジンに対して石を振り下ろす手が、ほんの一瞬、宙で止まった。
それが命取りになった。
彼の両手は見事に肘から下を両断され吹っ飛んだ。切断面から血が迸り出て、雨が赤く染まる。反射的に閉じた瞼に、ぽたぽたと赤い雨が降り注いだ。
男は断末魔の悲鳴を上げて尻餅をついた。腕がないからうまく起き上がれずに、じたばたと蠢いている。
そこにいたのは──
「ボルネオ様……?」
青空色の髪を持つ、ボルネオだった。
手には鉈。
頬に返り血を浴びた彼は、海よりも冷たい青の瞳で男を見下ろしている。
「俺の女に、なにしてんだよ」
肩で息をする彼は、相変わらず苦しそうだったけれど、その瞳は力に満ち満ちていた。
「俺だって処刑人一家の長男だ。人の殺し方くらい、ガキの頃から知ってる」
それからの彼の早業は、虚弱体質だとは俄には信じられなかった。




