第24話
体を洗ってやったあとでベッドに寝かせると、リジンは深く沈んでいくように眠ってしまった。きっと自分も血生臭いのだろうと、カンファーもそそくさと風呂に向かった。
頭から湯を被ると、目元を隠すための塗料が落ちて、流れていく水が濁る。何度も何度も繰り返して、ようやく重みが取れた気がした。大した重量ではないはずなのに、すべてがとてつもなく重く感じる。
部屋に戻ると、ボルネオからもやはり血の匂いがした。
あの部屋にいるだけで服にも髪にも肌にも匂いが染み付く。目に見えないものに纏わりつかれるのは、鬱陶しい。
ボルネオは例の手紙を見ていた。
「女か」
香水に気付いたのだろう。手紙を投げ捨てるようにローテーブルに置いて、ソファにふんぞり返った。
「この女は馬鹿か? こんな文面じゃ、狙いはリジンだってわかる。リジンが狙いなのだとわかれば、恨みを持ってる奴だってわかる。こんなの、リジンがぶん殴った令嬢の仕業に決まってんじゃねえか。まさか処刑人一家に手を出す罪の重さを知らねえほどの馬鹿なのか? 頭大丈夫か、こいつ」
処刑人一家はその職業の特殊さを鑑み、特権により、身分を絶対的に保証される。小さな脅迫文ひとつで簡単に刑罰がくだされるほどだ。
リジンが死刑になった経緯を知れば、令嬢の思慮の浅さもわかる。自分の日頃の罵詈雑言、暴力暴言を棚にあげて、たった一度の反撃で死刑だ死刑だと騒ぐのだから。
もちろん、怒りを爆発させたリジンにも非はあったのだろうけれど、積み重なった悪行を見れば令嬢のほうに罪があると言えなくもない。
裁判所も両成敗で済ませればよかったのだ。
今後、メイドを物として扱うでない。
今後、誰にも手を上げてはならない。以上。
それで済んだ話なのに、地位がそれを邪魔した。
人は皆平等。
処刑の前に、公爵も王も平民もあったものではない。
罪人は罪人だ。
罪は誰しもが背負っているというのに、相手が公爵令嬢だからと平民であるリジンだけが責め苦を負うのは間違っている。
そのくせ、死刑を免れて処刑人の妻になったことを幸福だと思い込み、蹴落そうと躍起になって攻撃を仕掛けてくる。
いや、蹴落とすのではない。
誰も、人の上に立っていないから、蹴って落とすのは無理だ。
引きずり落とそうとしている。
自分が堕ちたその場所まで、必死に腕を伸ばして縋りついて、引きずり落とそうとしているのだ。まさか自分が人として堕落しているとは、令嬢は気付いていないだろう。
「こいつ、とことんリジンを嫌ってるみてえだな」
リジンのどこに嫌われる要素があるのだろう。こんなに清らかで純真なのに。一緒にいて、なにも苦痛に感じないのに、どうして令嬢はリジンを厭うのだ。
人ってわからない。
「また襲撃してくるだろうけど、どうする。一番手薄になるのは水曜日だ。カンファーがいるのと、いないのとじゃ、攻撃力が桁違いに変わってくる。俺は全力を尽くす。けど、自信はない」
ボルネオは体が弱かった。
走れば息が切れて呼吸ができなくなるし、筋力をあげようとすれば関節や骨が悲鳴を上げる。いくら食べても太らず、いつまでも細いままだ。大人になって少しはマシになったけれど、それでも体ひとつで戦う攻撃力には何倍もの差がある。
どうすればいいのだろう。
どうすれば、リジンを守ってあげられるのだろう。
仕事をやめるか?
けれど、今の段階では誰かが代わりに処刑人になる。あるいは、機械がそれをする。そのとき、本当に罪人は痛みを感じずに逝けるのだろうか?
罪人達の目と声がたちまち現れる。どれもが助けを求め、見なくて済むのなら見たくない、聞かなくて済むのなら聞きたくないものだ。
痛みを与えない。それが、処刑人の最大の仕事なのだ。
それを自分以外の誰かが、なにかが成せるとはまだ思えなかった。
その代わり、自分の匂いは消せない。
あの部屋のように染み渡って侵されて、上から取り繕っても芯は血でべったりだ。
リジンはその芯を見て吐いた。
自分のためにケーキを作ってくれたリジン。守ってあげたい。全力で守りたい。
まさか自分がこんな気持ちになるとは思わなかった。
カンファーは答えを出した。
ベッドで眠るリジンの腕についたままの枷を外す。そして自分も外して、床に落とした。
リジンを揺り起こす。
「……おまえ、なにしてんだ」
ボルネオが背後で問うてくるけれど、気にしない。揺さぶると、リジンはゆっくりと瞼をあげて目を覚ました。
その寝惚けた瞳に告げた。
「出て行って」
その瞳は、一度、瞬きをした。
意味が伝わっていないようだから、再度、繰り返す。
「ここから出て行って、リジン。今すぐに」
ようやく、意味が伝わった。
「……えっ」
「おい、カンファー!」
ボルネオが割って入ってくる。
けれどカンファーの決意は硬かった。
間違っていた。
自分が誰かと一緒になろうだなんて、そんな希望を持ったのが間違いだった。
あのとき、手を握り締めてはいけなかった。
あのとき、指を絡ませてはいけなかった。
彼女が欲しいと望んでは、いけなかったのだ。
──生きてる
彼女がそう言ってくれたから、あのとき、死の寸前で美しい微笑みで美しい言葉をくれたから、どうしても欲しくなってしまった。
自分が一緒にいたいと思っていれば、ずっと一緒にいられると思っていた。一緒にいたら駄目なこともあると、誰も教えてくれなかった。
「出て行け」
そうしないと君が傷付いてしまう。
一緒にいたら、いつか自分のもっと深いところを目の当たりにして、ぼくを嫌ってしまう。
嫌われることだけは耐えられない。
君が傷付いてしまうことは、もっと耐えられない。
「母親のところに行って、隠れて暮せばいい」
せめて、処刑人の声音で。
カンファーとして言おうとすると、どうしても言葉選びが下手になってしまって伝わらないから。
離れていても好きだから。
離れていても、夫婦は続けていけるから。
好きだから、一緒にいないほうがいい。
そう伝えようとしても伝えられないし、伝えたらリジンはきっとここにいると言ってくれてしまうから伝えられない。
早く行ってくれ。
ぼくが強くいられる間に、早く逃げてくれ。
カンファーは傍に置いていた大剣を手に持ち、振り上げた。
「今すぐ出て行け」
振り下ろした先に、もうリジンはいなかった。




