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第23話


 泣き出す彼女にカンファーは懇願する。


「泣かないで……泣かないで、リジン」

「ご、ごめんなさ──」

「もう大丈夫だから。カンファーがいれば大丈夫だから。な?」

「ちが──」


 これ、とリジンが指差す床を見ると嘔吐した跡があった。耐えに耐えて、それでも堪えきれなかったのだろう。リジンの手は必死に口が開かぬように抑えていたのだろう。やはり吐瀉物で汚れていた。


「ごめ……ど、どうしても、我慢、で、きなくて」


 泣きじゃくる彼女に、なにを言ってあげればよかったのか。

 そんなものは気にするなと、この部屋に初めて入って、吐かない人間などいないのだと、どう言ってやれば伝わってくれるのか。

 こんなもの、土を被せておけばいつの間にか消えている。

 こんなもの、命と比べてみたらちっぽけなもの。

 こんなもの、こんなもの。

 こんなもの──


 どうすればわかってくれる?


 カンファーはどうしても、わからなかった。


 わからないから抱き締めた。

 ボルネオもだった。3人は団子みたいに抱き締めあった。


「いいから、そんなのいいから」


 ボルネオが言う。


「気にしなくていいんだよ。リジンが、いてくれてよかった」


 怪我をしていなくて、生きていてくれて、本当によかった。無事である君が最高の贈り物だというのに、なんで吐瀉物ひとつでそんなに泣きじゃくっているのだ。


「も、申し訳、ありません……カンファー様の、お仕事、なのに、妻である、私が、私、が」


 泣きすぎて嗚咽混じりの彼女は子どものようだった。腕の中で囀り泣く彼女は、あまりにも優しすぎた。


 夫の仕事を嫌悪している。


 彼女にとって、この部屋での嘔吐はそういう意味に取られかねないと案じたのだろう。

 夫の仕事を誇らしく思えない行い。

 妻として、あるまじき行為。

 床を汚したことだけでなく、リジンはそれらを謝罪しているのだ。


「いいんだよ、いいんだ。俺達の全部を受け止めてくれなんて、思ってねえから。俺達と一緒にいてくれるだけでいいんだから」


 ボルネオが言う。

 そして、羨ましかった。兄はいつも素直に言葉を紡ぐ。伝えたいことを代わりに言われてしまう。


「うん、それだけでいい」


 カンファーはボルネオの言葉を補足するだけしかできなかった。



◇◆◇◆◇◆



「失敗!? ちょっと、どういうことなの!?」


 モルファインは知らせを聞いて憤った。金のないホームレスを雇って処刑人の家に向かわせたのに、あの憎きメイドを仕留められなかったとはどういうことなのか。


 モルファインが、リジンが処刑人の妻になったと聞いたのは本当に偶然だった。父と大臣が話しているところに通りがかってしまったのだ。父を問い詰めてやりたかったが、大臣の手前、そうもいかない。


 詰問するまでにモルファインに与えられた時間は、彼女の思考を屈折させた。


(罰を受けさせてやる。このわたくしを叩いたのだから、死んでもらわないと。死が妥当なのよ、間違いなく)


 そう思ってホームレスを雇ったのに、そのホームレスの話では、処刑人の家というのは物凄い頑丈で侵入するのは不可能らしい。さらに処刑人一家は処刑をする日以外には家から出ないのだという。

 だからモルファインが考えた誘き出しかたで家から出てきたところを襲う算段だったはず。使えない新たなメイドを経由しての失敗報告では理由も聞けない。前金は払っていただけに余計に悔しい。

 気を鎮めようと、香水を振りまいた。いい香りだ。公爵令嬢である自分に相応しい。世界にたったひとつの、自分だけの香り。


「どいつもこいつも使えないわね……」


 香りに包まれても、怒りは一向に静まらない。あの女は罰を受けるのだ。幸せになんてさせてやらない。



 モルファインは、とあるパーティーでの出来事を思い出していた。


 あれは、まだあのメイドが仕えて間もないころ、モルファインの誕生パーティーを開いた日のことだ。美しく飾り立てたモルファインは優雅に広間に佇んで挨拶を繰り返していた。


 主役はわたくし。

 わたくしだけのもの。


 そう信じて疑わなかったのに、男達の目はまったく違う場所に注がれていた。


 自分に集まっていると思われた視線は、ほとんどが付添のメイドに向けられていたのだ。飾りもせず、ドレスも着ていない色白の女。

 なぜなの?


「おめでとうございます」


 そう言って恭しく挨拶してくる男達が去り際、ことごとくメイドにうっとりとした目を向けていく。

 当のメイドは男達の視線の意味に気付きもせず、せっせとモルファインのドレスの裾を整えたり、参列者リストと挨拶を終えた人とを照らし合わせたりしている。


 馬鹿にしている。


 この女はわたくしを馬鹿にしているんだわ。

 自分の美しさに気付いていないふりをして、わたくしの美しさを奪っていく盗人よ。

 罰しなくちゃ。罰しなくちゃ。


 そう思って、いつでもメイドに罰を与えてきた。叩いたり、食事を抜きにしたり。



「そうよ、わたくしが罰を与えればいいんだわ」



 今までそうしてきたんだもの。わたくしが、自分の手で殺してやるわ。

 家から出ないとはいえ、夫を出迎えることくらいするでしょう。母はいつもそうしている。どこの家庭だってそうよ。普通はそうだもの。


 なら、次の処刑の日。


 処刑人のあとをつけて、家まで行こう。そして処刑人を出迎えたあのメイドに短剣を叩き付けてやればよいのだわ。


 水曜日。

 あと7日。


 絶対に成功させてやるんだから。

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