第22話 その部屋
リジンは絶句した。
その部屋は、血の匂いが立ち込める完全な密室だった。
窓もひとつもなく、ドアはひとつだけ。しかもドアは隠し扉になっていて、外から見ても簡単にはわからない。密室であるその代わりに、六方を石で囲われており、燃やされる心配も、潰される心配もない。形状だけを見れば貴族御用達のパニック・ルームといえる。
その部屋の中央に置かれた拘束具。
木の枠から3つの円をくり抜いたそれは、罪人を斬首する際の道具のひとつだ。俯かせる要領で首と両手首を枠に嵌め、動きを封じる。そして処刑人が無防備になった罪人の首目掛けて、刃を振り下ろすのだ。
木枠は、血を吸って真っ黒に変色していた。悪臭の根源だ。
リジンはえずいて、口と鼻を手で覆った。吐くのはなんとか耐えた。
練習しているのだ。
ここは、カンファーの訓練場所。処刑の練習をする場所だ。
なにを相手にしている?
なにを、斬っている?
考えてしまったら、胃の中のすべてをここにぶち撒けてしまいそうだった。
「こっちだ」
「は、はい」
部屋にはずらりと斬首具が並んでいる。大小様々な大剣や鉈、斧があって、ボルネオは鉈のひとつを手に取った。
「他は重くて使えねえんだ」
そう言う彼は情けなさそうに眉尻を下げた。むしろその鉈ですら使いこなせる人などほとんどいない、とは言えなかった。
部屋の四隅の一角にふたりは並んで座り込み、小さくなる。
「いいか、今からランプの火を消す。真っ暗になるぞ。明かりがあると、万が一に部屋に誰かが入ってきたときに真っ先に狙われるからだ。わかるな?」
ボルネオはすっかり兄らしくなっていた。妹を諭す、頼りになる兄だ。リジンは頷いた。
胃の中身がぐるぐると回っている。
「暗闇なら俺達のほうが有利だ。目が慣れてる。それに、俺はこの屋敷の形が頭に入ってるから、動きが制限されない。絶対に俺の手を離すなよ。見つけられなくなる」
差し出された手をリジンは握った。感触を確かめるように互いにぎゅっと力を込めて握り合う。
「カンファー様が襲われているのでは……」
「その可能性もある。でも、あいつは負けねえ。大丈夫だ。俺達はあいつが戻るまで自分を守ることに専念するんだ。あの手紙は誰かが俺達を誘き出す作戦だったのかもしれない。誰も引っ掛からないとわかって、痺れを切らして屋敷に侵入してくる可能性もある。この部屋が一番安全なんだ。カンファーはすぐに帰ってくる。耐えるんだぞ」
「わかりました」
「できるな?」
「できます」
処刑人の妻だから。
ボルネオはその意志を察したのか、小さく微笑んでくれた。
ふっとランプの火を吹き消す。
暗闇に、どぷん、と落ちたみたいな感覚だった。
闇と同時に悪臭に包まれる。匂いが重く、そして強くなった気がして、リジンはやはり手で鼻を覆った。
目を瞑っても暗闇だというのに、ぎゅっと瞼を閉じてしまう。
ボルネオと繋がっている手だけが頼りだった。
◇◆◇◆◇◆
カンファーの驚愕は相当なものだった。
玄関の前に落ちている見覚えのない、紙が巻き付いた石。
なにがあったのか、想像が頭を電光のように走っていく。投げ入れられたのか、あるいは単に置かれたのか、それとも侵入者が出て行く際に置いて行ったのか、わからない。侵入されたとあれば──考えたくもなかった。
背後で閉じたはずの鉄柵を、再度、確かめる。
この屋敷までの護衛は、ただひとりにのみ許されている。護衛の中でも天涯孤独で、かつ優秀な男だ。脅迫されるネタがなく、処刑人を殺しても利益がなく、裏切ることに意味のない者。選び抜かれたその男の顔は、記憶に刻み込んであった。
振り返ったカンファーを物珍しげに見た護衛の表情からして、違うな、と思った。彼の仕業ではない。
玄関を開け、さりげなく石を蹴り入れる。
施錠をして、手紙を開いた。
「幸せになんてさせない」
「絶対に罰を受けさせる」
それぞれに書かれた手紙は女物の香水の匂いがした。
──リジン?
狙いはリジンだろうか。
カンファーがさっと施錠を確かめると、すべてが頑丈に閉ざされていた。なのに、ふたりの姿はない。
兄はいつも、襲撃の可能性があるときにはひとつの部屋に隠れていた。
炎にも圧力にも耐えうる忌まわしい部屋。
「あの部屋に、いるの……?」
リジン。君は、そこにいるのか?
君にだけは見られたくなかったその部屋に、いるのだろうか。
カンファーは侵入者に備えて、大剣をひとつ携えた。
その部屋の一見しただけではわかりにくいドアの前に立つ。存在を知るものでなければ見逃してしまう扉を、やはり秘密の手順でゆっくりと引き開ける。
灯したランプを先に入れた。
それから警戒しつつ、体を滑り込ませる。
瞳をさっと動かして、見つけた。
隅にリジンがいた。ふたりは小さくなって、並んでいる。
リジンは兄の手を握っている。兄の手の甲にリジンの指の爪が食い込んで、血を滲ませているほどだった。
ボルネオはほっとした表情を浮かべた。鉈を床に置き、隣にいるリジンの肩を揺さぶってやる。
リジンは鼻と口を手で抑えていた。
カンファーにはもう感じられない臭気が、リジンには耐えられないのだとわかると、胸を切り開かれたみたいに猛烈な痛みが走った。それが、自分のしてきたことへの反応のような気がしたからだ。
リジンの前に膝をつく。
ランプで照らすと、リジンの涙がきらりと輝いた。
「リジン、もう大丈夫だぞ」
ボルネオが肩を揺さぶりながら言って、ゆっくりとリジンの目が開いた。
瞳に炎の揺らめきが映る。
はて、彼女の瞳は何色だっただろうか。
髪の色は。
肌の色は。
炎に誤魔化されて、本当の彼女が見えないのがもどかしい。
「ただいま」
言うと、リジンの顔がくしゃりと崩れた。
泣いているのだ。
ボルネオがリジンの肩を抱いてやり、慰めている。カンファーもリジンの頭を撫でた。
もう、怖くない。もう怖くないよ。
──今は
ずっと続く平穏を約束できない環境を初めて憎んだ。




