第20話
世界がぐるぐると回っている。
目を瞑っていると、その回転をより強く感じて気持ち悪くなりそうだった。というか、もう気持ち悪い。
水でも飲もうと重たい瞼を押し上げると、ふと、ふたつの顔があった。
リジンとボルネオだ。
ふたりが覗き込んでいる。
(ああ、どうしたんだっけ)
「あ、起きましたね」
「やっと起きたか。世話の掛かる弟だな、っんとに」
ふたりの顔は穏やかで、安らぎがある。
どうやら自分は長湯のせいで、のぼせたらしい。確かに考え過ぎて時間が経ちすぎていたように思う。
リジンを傷付けてしまう前に、避けたい。
けれど避けたくない。そんな矛盾した思考が、やっぱり今みたいにぐるぐるしていて、いつの間にか沸騰していたらしかった。
冷たいタオルが額に乗っている。
「俺が医者の勉強しておいてよかったな。ここには医者もろくに呼べねえんだから、気を付けろよ」
「……うん……考えすぎた」
手枷が自分からボルネオに移り、リジンと繋がっているのが見えるとまた頭がぐるぐるとしそうだった。そんな自分のおかしさが不愉快で、寝返りをうって蹲ってしまう。
それを気分が悪いと受け取ったのだろう。リジンが背中を擦りながら問うてくる。
「まだ、ご気分が優れませんか?」
「……もう、やだ」
「やだ?」
ふたりが声を揃えて問い返してくる。
カンファーはゆっくりと思いの丈を打ち明けた。
「リジンを閉じ込めておきたい。誰にも見せたくない。誰にも触られたくない。ぼくだけの奥さんにしたい。けど、それだとリジンがひとりになっちゃうから、したくない。リジンを傷付けたくない。でも、リジンを見ると、めちゃくちゃにしたくなる。しちゃいけないのに、わかってるのに、いつか、しちゃいそうで怖い。
処刑以外、なにもできないから
リジンも壊しちゃいそうで、もう、やだ。なんか、ぼく、変だよ。おかしい。あに、ぼくのこと、治せる?」
ふう、と溜息が聞こえた。ボルネオだ。ちゃらりと鎖が揺れた音がして、ベッドが軋む。ボルネオが膝を抱えたのだろう。長い足を、兄はよく持て余す。
「治せねえよ、そんなの。俺だって同じ気持ちだもん。ぐっちゃぐちゃに汚してやりてえけど、駄目だって、わかってる。いいって言うなら、今すぐにでもやるけど?」
「絶対に駄目です」
「だろ? だから、我慢してる。なんなんだろうなあ、こういう気持ち。よく、わかんねえよなあ。リジン、何なの、この気持ち」
「それを私に聞かれても……うーん」
リジンの声音は先までと寸分も変わらなかった。ちらりと視線を向けると、リジンは困ったように眉を下げて考え込む仕草をしていた。
え?
怒らないの?
自分が支離滅裂なことを言った自覚はある。
傷付けたい、襲いたいという言葉が決して推奨されるものでもないと知っている。怒られるかもしれない。殴られて、蹴られて、鋭い鋼の切っ先で痛めつけられて、消毒だと謳って熱した鉄板を傷口に押し付けてくることも覚悟していたのに、それほどの言葉達を自分の心の中で処理しきれずに、耐えきれずに、楽になりたいという利己的な考えで投げ掛けたのに、リジンはまったく気にしていないようだった。
(壊れてるのかもしれない)
こんな人がいるはずがない。
きっとリジンはどこか壊れてるのだろう。自分が壊さなくても、どこかが壊れて人の気持ちを忘れてしまっている。
怒らないはずがないのだから。
人は絶対に怒る。
「リジンは、怒る気持ちが壊れてる?」
問うと、ボルネオとリジンは顔を見合わせて、かと思うとふたりは慌てて洗面器につけていたタオルを絞ってカンファーの額のそれと交換した。
「やべぇな、頭が焦げたらしい」
「のぼせるって、結構、深刻なんですね。どうします?」
「安静にしておくしかねえだろうけど……」
ふたりで考え込んでいる。真剣に疑問をぶつけたカンファーは歯痒い。
「だって、ぼく、ひどいこと言ってるのに、どうして怒らないの? 怒る気持ちが壊れてるんだよ」
「え? ひどいこと? 言いました?」
「いつ?」
「だって、傷付けたいって……」
「あ、ふーん……? どうなんでしょう、ボルネオ様」
「俺に聞くなよ。言っとくがな、リジンだって怒るときは怒る。俺だって、ぶっ叩かれたぞ」
「あれはボルネオ様が悪いです。絶対に失言でした」
「えー? それに令嬢だってぶん殴ったんだろ? こいつ、意外と暴れるぞ」
「暴れてません!」
「暴力反対ー」
「くー! 苛々する!」
リジンにも怒る気持ちはある。
なのに、自分を殴らないし怒鳴らない。
よくわからないでいると、リジンが説明してくれた。
「もしかしたら、カンファー様は優しすぎるのかもしれません。私は、しっかりと怒る気持ちはありますが──」
「ありすぎるくらいだぞ、マジで」
「とにかく! 今日の会話の中でカンファー様に怒りを覚えたことはありません。なんていうのでしょう……そんなに、カンファー様のお言葉に棘はありません。だから安心してください。それより、眠りましょう。きっと、まだ体調が改善していないんですよ。考えすぎるのはよくないです」
「そーそー。寝ようぜ」
ボルネオがベッドに横たわってしまったので、カンファーに気を使いつつも、リジンも仕方なくそれに従った感があった。
ベッドの上で3人並んで寝転がる。
怒られなかった。
自分の言葉には、思った以上に棘がないらしい。
寝返りを打ってリジンを抱こうとすると、既にボルネオが絡まっていた。ぽいっと、リジンの腹の上にあったボルネオの腕をどけて自分が抱きつく。するとボルネオが同じことをやり返してくる。それが何度か続くと──
「寝なさい!!」
リジンが怒った。
(本当だ。壊れてない)
ならば自分が、全力で守ってやらなくては。
カンファーは結局、ボルネオとふたりでリジンに抱きつくことで無言の合意を果たし、眠りに落ちた。




