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第2話


「い、今、なんて……?」

「助けてやろうかと、聞いている」


 男の声は随分と高いところから聞こえてきた。かなり背が高いのだろう。このくらいに顔があるだろうかという位置を見上げてみるけれど、やはり闇が広がっている。

 低く、掠れた声だった。

 おまけに、この牢屋みたいに耳鳴りのするほど静かな場所でないと、聞き取れないほど小さい。


 助ける?

 なにを言っているのだろう。


「そんなこと、できるはずがありません」


 嘲笑してみせても、男の声は揺らがなかった。


「できる」


 だからリジンもいい加減に苛立って、早口で捲し立てた。


「騙されません。私を襲うつもりなのですか。死刑囚ならば、慰み者にしても構わないとでもお思いですか。それとも拷問? 痛みに泣き叫ぶところを観賞したいとでも? あいにくではございますが、死ぬより辛いことをされるくらいなら、潔く死を選びます!」


 きん、と静まり返った牢屋にリジンの声が響き渡る。けれど、男は相も変わらず手を放してくれない。ややあってから、がさがさと布が擦れる音がして、きぃ、と高い音がした。

 牢が開いたのだ。


「妻になれば助けてやる」


 やはり体目的か。

 いや、待てよ、それならば妻という地位は必要ない。囲いたいのだと無理矢理に引きずり出せば済む話だし、ここから出るか、出ないか、選択肢を与えてくれる必要もない。逆に襲いたいのであれば、強引に侵入してくれば、これだけの体格差だ、リジンには手も足も出ない。

 ならば、真の目的はなんなのだ。

 見極めようにも顔が見えないのだからどうしようもなく、リジンはしばらく開いた牢を見つめていた。


「どうする」


 急かされるように促され、リジンは蠱惑に負けた。

 一歩、足を引くと、手をするりと放してくれた。大きな手が闇に引っ込んでいく。

 おそるおそる牢を出ると、またどこからともなく手が現れてリジンの背を押した。所々に置いてある蝋燭の火の揺らめきだけが頼りなのに、どうにも頼りなくて足元が覚束ない。あんまりにも進めないでいると、ぐるりと視界が回転した。

 男の肩に担ぎ上げられているのだった。


「ちょ、ちょっと!?」


 男が歩むたびに上下に揺さぶられて舌を噛みそうになる。きゅっと唇を引き締めて、もはや諦念に達した。


(もう、生きる道はこの男しか残っていないのね)


 仕方がない。

 脱力すると、男が意外そうにぴくりと反応した。

 それからはどちらも喋らず、長い階段を登っていく。男が重そうな扉を引き開けた気配があって、目の前が真っ白になった。

 明るい場所に出たのだ。

 わっと騒がしくなる。人がいるらしい。




「処刑、しない」



 男が低く、ぽつりと言った。

 どよめきが起きている。担がれているリジンには見えないし、なにしろ暗順応していない瞳ではそもそも認識が難しかった。


「処刑は王命ですぞ!」

「その女はこの国の最高刑の罪を犯した重罪人であります!」

「国王陛下も処刑を今かと待ちかねているのです!」


 そこにいるらしい人達が口々に言う。

 処刑を待つとは、どんな性格の悪い王なのだろうか。いや、真実を知らない人からすれば罪人の死はご褒美なのかもしれない。あるいは、無関心な者が最も多い。


 自分の死を望まれるとは、なかなか不愉快な気持ちだった。誰かひとりでも異を唱える人はいないのか。処刑なんて無残なことはやめようと、訴えてくれる人はいないのか。


 母はきっとそうしてくれるだろう。


 そうではなくて、他人に自分の命を尊んでほしい気持ちになる。



「妻にする」



 男が言うと、一瞬、静まり返ったあとで誰かが呟いた。



「特別法だ」



 特別法?

 特別法とは、なんだったか。

 あまり教養のないリジンには、どんな内容の法律なのかさっぱりわからない。

 それよりも頭に血が上ってきたからさっさと下ろしてほしい。


「処刑人の家族は処刑されない……」


 誰かが紙をペラペラと捲る音が聞こえたあとで、法文が読み上げられた。なるほど、そういう法律か。

 いや、待てよ──。


(ってことは、この人、処刑人なの!?)


 どおりで大きな手とマメの数だ。巨大な斬首道具を振り下ろすのだから、あれくらい掌の皮が厚くなっても不思議ではない。

 でも、とりあえずひとまずは──。


「……おろしてください! 頭に血が……!」


 男の大きくて逞しい背中をぽんぽんと叩くと、男ははたと気付いた様子で、のっそりとした動きでリジンを床に立たせた。

 目眩がする。


(ふう……!)


 頭を左右に振って、まばたきを何度かすると、ようやく落ち着いた。


「帰る」


 それだけ言って、男は歩き始めてしまう。ここに取り残されても困ると、リジンも男の背を追った。



◇◆◇◆◇◆



 牢で男の顔や体がまったく見えなかった理由がわかった。

 黒ずくめなのだ。

 目から下の顔を口布で覆い、なおかつ目元を黒く塗っている。頭にも頭巾を巻いて、さらには服や靴のすべても黒色だ。肌色のところといえば手だけで、それも馬に乗る寸前に手袋を嵌めて隠されてしまう。


 黒馬に乗ると、リジンは男の前に座らせられた。

 驚いたのはその護衛の多さだ。

 リジンの乗った男の馬が一歩踏み出そうものなら、どこから現れたのか四方八方を馬に囲まれた。しかもそれぞれには屈強な騎士が乗っている。


「顔、隠せ」


 手渡されたハンカチを受け取る。どうして隠さねばならぬのかはわからなかったけれど、護衛に囲まれた中での圧力に負けてリジンは素直にハンカチを顔に巻いて目から下を隠した。


 それからはしばらく馬の蹄が石畳道を歩く軽い音が響いた。リジンはそれがどこか遠い世界の音のように聞こえて放心してしまう。


 本当に助かったのか。

 助かったと期待させて、その実、斬首台に向かっているのでは?

 これからどうなるのだろう。


 漠然とした不安と嫌な想像が胸をいっぱいにする。


 裏道を通っているのか、人影はない。家々の向こうが騒がしいのは、そちらが表通りだからだ。つまり、斬首台がある広場に続く道だ。


 つまり、死を望む集団がそこにいる。


 リジンは悲しくて怖くて堪らなかった。他人に死を望まれるのは、息苦しくなるくらいに悲しい。



「リジン……? あなた、リジンなの……?」


 はっとした。

 その声はまぎれもなく母のものだ。顔を上げると、表通りからの抜け道に、杖をついた母が立っている。足が悪いから、人混みに歩くのに耐えられなくなって裏道にきたのだろう。


「母さ──!」


 だが背にいる男によって口を塞がれてしまう。暴れてしまえばおそらく逃げ出せる力だったのかもしれないが、落馬してしまうと思うと足が竦んだ。馬に乗ったのは初めてだ。こんな高さから落ちたら──だめだ。


「リジン、リジンね? どうしたの、どうしてここにいるの? 助かるの? そうでしょ? 助かるんでしょ? 刑はなくなるんでしょ?」


 放して。

 放してください!


 両手で口から男の手を引き剥がそうとするも、敵わない。リジンの乗る馬に駆け寄ろうとする母は、護衛に阻まれている。

 顔の痣。

 その色が濃くなった気がする。

 体調が悪いのかもしれない。


(ああ、通り過ぎてしまう!)


「んんー!」


 母さん!

 今すぐ母に謝りたい。親不孝者で申し訳ないと言わせてほしい。

 それなのに、無情にも母の前を通り過ぎて、離れていってしまう。


「助かるのね? 助かるのでしょ? ね、そうでしょ? いいのよ、いいの。助かるならそれでいい。愛してるわ、リジン! いつもあなたの幸せを祈る。いつもあなたの笑顔を思い出すわ。──いってらっしゃい!」


 大きく手を振る母に手を伸ばす。


 この国で唯一、自分が生きることを望んでくれる人。


 その人に、どうして一言告げることさえ許されないのか。こんな理不尽なことってあるものか。

 リジンは渾身の力で男の拘束から逃れた。


「母さん! 私も母さんを愛してる!」


 男がさらにリジンを捕まえようとしたが、その手を振り払った。


「産んでくれてありがとう! 育ててくれてありがとう! 私、幸せ! 昔も今もずっと幸せよ! こんな、こんなことになって、ごめんなさい!」


 最後のほうはほとんど男に口を抑えられて言葉になっていなかったかもしれない。母には呻き声にしか聞こえなかったかもしれない。もっと伝えたいことがあった。


 それは、二度と会えないような気がしたからだ。

 この男に連れられて、もう戻ってこられないような気がしたから。


 いってきます


 ついぞ言えなかった。

 眼差しだけで訴えると、母はくしゃりと顔を歪めて頷いた。

 目の前で娘の首が跳ねるより、たとえ行き先が地獄でも、連れて行かれて幸せに生きているかもしれないと思えるほうが母にとっては楽なのかもしれなかった。


 護衛に阻まれる母が見えなくなると、リジンは腑抜けになった。

 自分で体を支える力もなくて、ただ馬に揺られている。


 そんなリジンが落ちてしまわぬようにと、男がしっかり抱き締めていてくれることには気付かなかった。

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