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第18話 歪んだ心


 なにも言わないけれど、カンファーはどうやら図星を突かれたらしかった。ぐっと握り締められた拳が戦慄いているのは、どういう感情を抑えているからなのか、リジンにはわからない。

 でも、この兄弟(ふたり)の心に抱えた(ひずみ)はリジンの想像以上であるとはわかる。

 ボルネオは膝を抱えて俯いていた。

 先までの陽気さは消えてしまっている。


「俺も生きてんだよ。……生きてる、はずなんだ……そのはずなんだ……」


 繰り返し呟くボルネオに、涙が出た。


 彼はおそろしいほどの長い時間をこうして過ごしてきたに違いなかった。

 他者との関わりもなく、外に出られたとしても売買の話しかできず、カンファーがいない長い間をずっとひとりで過ごす。


 俺は本当に生きているのだろうか?


 なにも生み出さない、ひとりぼっちの俺は、本当にこの世のものなのか?

 生きていると思い込んでいるだけの、どこかの道端に棄てられた薄汚れた人形なのじゃないか。


 いいや違う。生きている。俺は生きている。生きているんだ、絶対に。


 その証拠を衝動的に残してしまいたくなっただけだ。


 リジンは、先の自分の行動を後悔した。

 彼に必要なのは叱責ではなかった。


 リジンはカンファーの手に持たれたままの枷を受け取り、自分の腕にガシャンと音を立てて嵌めた。


 驚いたのは兄弟だった。


 はっと振り仰ぐボルネオの顔は、笑ってなどいなかった。青空色の瞳が蝋燭の炎のオレンジに侵されて揺れている。それは戸惑いだった。

 なにをしているのだ?

 嵌めてくれるのか?

 そんな感情が綯交ぜになった目をしている。


「私は逃げたりなんかしません。カンファー様の妻になったのですから、ずっとこの家にいます。お約束します。しかし、それを信じられないのであれば、こうして繋いでいてくださって構いません。気の済むまで、どうぞ鎖で繋いでいてください。でも、私とも結婚するだとか、キスをするだとか、そういうことはしてはいけないんです」

「……俺が嫌い?」


 リジンは目頭が熱くなった。否定と嫌悪が直結している極端な思考が、可哀相でならない。

 それ以外の考えを教えてもらえなかったのだろう。リジンは強くボルネオの手を握った。


「嫌いなはずがありません。嫌いじゃないんです。本当です。でも、キスだとか、駄目なんです。そんなことをしなくても、ボルネオ様はちゃんとここにいます」


 ボルネオの唇が歪んだのは、泣きそうになるのを堪えているからだとわかった。


 処刑という特異な職業は、こんなにも心に負担を掛ける。ただ、現代ではどうしても必要な行為だ。罪人は確かに世の中にうようよといる。誰かがやらなくてはならない。

 だから外から来た自分が、兄弟の支えになってやりたいと心から思った。


「一緒に食事を作りましょう。一緒に絵を描いて、一緒に暇潰しをして、カンファー様の帰りを待ちましょう。カンファー様が帰ってきたら、3人でまたたくさんお喋りをして眠りましょう。日記を書いてみたり、小説を書いてみたり、一緒にいた証拠が欲しいのなら、いくらでも残しましょう。兄と妹として、私はいつまでもお傍にいます」


 ボルネオは苦しそうに顔を歪めて、枷から伸びる鎖を握り締めていた。

 放してやりたいのに、放してやらなくちゃいけないのに、まだ放してやれない、放したくない、放したら怖いという葛藤がその手の震えに現れている。

 リジンはボルネオのその手に枷をつけてやった。


 自分ではきっとやれないだろうから。優しすぎて、未だ迷っている彼は自分では繋がろうとしてくれないから、代わりにつけてやる。


 すると、ボルネオはリジンと繋がった枷を俯いたまま撫でた。肩の力が抜けて、安心しきっている。


「ボルネオ様が、もういいと思うまで付けていてくださって大丈夫です」


 頭を撫でながら言うと、ボルネオは子どものように膝を抱えて繰り返し謝った。


「ごめん」「ごめん」「ごめんなさい」


 その声は消え入りそうなほど、か細い。

 枷を抱き締めるようにして小さくなるボルネオは、まるで少年だった。



 彼の孤独はいかばかりだったのか。



 体が虚弱だからと見放されて、この屋敷にひとりで()()()()()()、あとから来たカンファーは寵愛を受けているように見えて──実際は虐待だったとしても、ボルネオに対するのと違って無関心ではなかったから──自分は要らない存在なのだと思い込んでしまう。

 もしかすればカンファーが来るまで、まだかつて後継者として扱われていたとき、父親の言うとおりにうまく仕事をできないことを叱責されて、そのたびに、今みたいに繰り返し謝り続けていたのかもしれなかった。小さくなって背中を丸めて膝を抱えて俯いて、壊れてしまったように謝罪を繰り返し繰り返し唱えていたのかもしれなかった。

 そんな深くて抉られた傷が、数日で癒やされるはずがない。


 俯いた(うなじ)に、背中に向かって広がる傷跡が見えた。服の中はどうなっているのだろう。


 リジンは隠してやるように項に手を置いてやった。

 彼だって、この家の長男なのだ。親からの暴力がないはずがなかった。

 満足するまで枷に付き合ってやろう。


 傷が癒えるまで。


 そう決めるには充分すぎる過去を見た気がした。


「カンファー様、私はちゃんとカンファー様をお慕いしております。ご心配なさらずとも、ずっと妻としてこの家にいます。なので、今日は怒りを鎮めてはいただけませんか」


 カンファーの目は澄んでいた。澄み過ぎていて、むしろ恐怖さえ感じるほどだった。


「……生きてるって、なに?」

「……え?」

「わからない。そういうの、よく、わからない」

「カンファー様?」

「でも、あにが、もうリジンにこういうことしないって約束するなら、怒らない。リジンはぼくの奥さん。ぼくだけの奥さん。絶対にキスしたら、だめ」


 言って、カンファーはすべての荷物を担ぎ上げた。そこでケーキの材料を見つけて目を見開く。


「これ、ぼくの、お祝いケーキ」

「……え? お祝い?」

「ぼくが家にきたとき、ははが作ってくれた茶色のケーキ。ぼくが息子になった、お祝いケーキ。作ってくれてたの、隣で見てたから材料だけでわかる。あに、ぼく、ケーキ作れない。荷物が多いから、ケーキ買ってきてもぐちゃぐちゃになるから買ってこられない。とても、たべたかったケーキ。リジン、作ってくれるの?」



(なるほど、そういうことだったのね)


 リジンは深く納得した。

 当の思慮の持ち主、ボルネオはまだ膝に額を押し付けるようにして俯いている。話が聞こえているのか、いないのか、反応はない。眠っているようにも見えるけれど、枷を抱いたままだから起きてはいるのだろう。ただ、今は返事ができそうにもない。代わりに言うことにした。


「ボルネオ様が作って欲しいと買ってくださったんです」


 カンファーはケーキの材料が入った紙袋を大切そうに抱えてパントリーへ向かった。

 優しい兄の、不器用な愛情であると、伝わっただろうか。

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