第16話 兄とお出掛け(2)
「このサイズ、ちょうどいいんじゃね?」
母が好きそうな可愛らしい便箋と桃色の蝋を購入したあと、ボルネオはどうしてか服屋に向かった。ボルネオ自身の服を購入するのかと思いきや、しかし選ぶのはリジンのものばかりで、リジンは体に服を当てれるたびに不要だと繰り返している。
「いらないですよ、服なんて」
「上はあるけど、下は足らねえじゃん」
「そんなに必要としてませんし」
「これ似合うんだけどなー」
「いらないです。兄さんのお下がりでいいです、充分です」
「まあ、確かに俺の服なら大量にあるけど」
ぶつくさと文句を言いながらも、ボルネオは目的である食材集めに移った。
道を歩けば声を掛けられるので、街では太客であると知られているのだろう。そのとおり、ボルネオはことごとく店に寄り、ことごとく食材を買い揃えていく。2人で合計8つの特大サイズの鞄を持ってきたのに、あっという間にぱんぱんに膨れ上がってしまった。しかも重い。
(私は男、私は男……)
ふらふらとぐらつきそうになるのを根性で抑え込む。非力である女の部分なんて見せてはいけないのだ。私は男。私は男。
「食料も3人分必要になるし、今日は買い過ぎたな」
「私、こんなに食べませんけど……!?」
ぜー、はー、と肩で息をしてしまう。肩に鞄の紐が食い込んで痛いくらいだった。
帰り道、ふとボルネオが足を止めた。それは製菓店の前で甘い匂いがほのかに香っている。
「なあ、ケーキ作れるか、ケーキ」
それより重い。
「か、簡単なものでしたら。オーソドックスなショートケーキ、ショコラケーキ、チーズケーキなら大丈夫ですが、タルトなどは難しいです。……重いです、早く帰りましょう」
「ショコラ。ショコラケーキがいい。作ってくれ」
「はあ……それは、もちろん構いませんが」
「材料はなにがいる?」
「えーと」
リジンは思い出しながら材料を羅列していった。そしてボルネオはさらにそれらを店員に丸ごと伝える。どん、どどん、と何人分のケーキが作れるのやらと途方に暮れる量が紙袋に包まれて、げんなりとした。ボルネオはそれを嬉々として抱え込む。持参した鞄には、もう入らないのだ。
「よし、帰ろう」
(やっと帰れる……)
外に出られるのは幸せであるし、とても楽しいのだけれど、いかんせん荷物が重たい。
やっとの思いで屋敷に続いている一軒家に辿り着くと、どっと息を吐いてしまった。
室内に入ると、すぐさまボルネオが玄関の施錠をする。そして分厚いカーテンの掛かった嵌め殺しの窓から外を随分と長い間、見つめていた。むしろ買い物よりもその監視の時間のほうが長かったように感じられる。話し掛けようか迷ったけれど、ボルネオの真剣な横顔を見るとそうもいかない。
「大丈夫そうだ。帰ろう」
「はい。なにか荷車みたいなものがあればいいんですが……」
「あの屋敷にいるとどうしても運動不足になる。動いとけ」
それもそうだなと思って、リジンはまた鞄を4つ持とうとした。
「お前は2つでいいよ」
けれど、現れたボルネオにヒョイっと鞄2つを拐われてしまう。あんなに重たい荷物を6つも持つなんて無理だ。街では自分は男だったので半分を持たせていたのだろうけれど、ここにきて女扱いされても気が引ける。
「さすがにそれは申し訳ないです」
「いいから」
「でも」
「おいリジン」
顎を鷲掴みにされたうえに、頬を挟む指でぷにぷにと悪戯をされる。今のリジンの唇は圧迫された頬のせいで鳥の嘴みたいになっている。しかもそれを見てボルネオがにやついているものだから、なんだか不愉快である。
「お前は俺の妹だろ。兄ちゃんの言うことを聞いとけ」
ぷにぷに。
「でも、重しゅぎでしゅ」
ぷにぷに。
「じゃあ代わりにケーキの材料を頼む。それでいいな?」
ぷにぷに。
「ぶふっ! 可愛いじゃん、お前」
「それはマシュコット的なやちゅでしゅか」
「違うよ」
そして急に近付いてきたかと思うと、ぷにぷにの唇に、ちゅっと音を立てたキスをしてきた。
一瞬、なにをされたのかわからず、わかったときには焦り始める。
「な、なにしゅる──」
「なんか可愛いからしたくなった」
慌てて頬からボルネオの手を離す。ボルネオは本当に自分がなにをしたのかわからないというような顔をして、きょとんとしている。
「こ、こういうことは普通はしません!」
「こういうことって?」
「だ、だから、き、き、き」
「キス? なんで? だってカンファーとはしただろ? その傷って、そのときのじゃねえの?」
見抜かれていたか。
「それは、その、えっと」
「俺もリジンとキスしたい」
「だ、だめです!」
「なんで?」
「なんでって、私とカンファー様は夫婦だから──」
「うん。夫婦だからな。でも、それでなんで俺とはしてくれねーの?」
(どこから説明をすればいいのだ)
リジンはとにもかくにも貞操観念というものについて説明しなければならないとわかっているのに、それをどういう言葉選びで説明すればわかってくれるのかがさっぱり思い付かなくて困惑した。
「俺だったら、そんな傷、作らせねえよ」
そしてまたキスをしてこようとするので、リジンは必死に手でボルネオの胸を押し返した。
「駄目ったら駄目です!」
「えー。なんで俺は駄目? 嫌い?」
「嫌いとか、そういう問題ではなくて……!」
「じゃあ好きなんだ」
「もちろんお兄さんとして慕ってはおりますが……!」
「じゃあこれは?」
今度はボルネオに抱かれた。
振り解けないほどの強い力ではないのに振り解けなかったのは、耳元でボルネオが囁くからだ。
「俺とも結婚してよ」
何を言っているのだ、この人は。この国は一夫一婦制だし、貞操を重んじる傾向にある。母からも自分を大切にするようにと言われて育てられたから、リジンはボルネオの言い分がまったく理解できない。
「ねえ、その傷さ、血、出た?」
「で、出ましたけど……」
「へえ……じゃあカンファーはキスしてあんたに傷付けて血まみれにして、それ見て喜んだんだ」
「喜んでなんか──」
「羨ましい」
ボルネオは右手だけでリジンの首をぐっと握った。細い腕だと思っていたのにボルネオの力は相当に強かった。苦しくないギリギリのラインというものをわかっているのか、窮屈なくらいで握力が止まる。
「俺も傷付けたい」
至近距離で言うボルネオの目は青空というより、海のように波打っていた。




