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第14話


 唇の痛みが、先の出来事を現実だと教えてくる。

 リジンはしきりに唇の切れた傷口を舐めていた。どうしても凹凸が気になってしまうのと、じんじんとした痺れに気を取られる。

 男性に裸を見られた羞恥心以上に、キスを抗いきれなかった自分が恥ずかしかった。自分はそんなに欲求不満な人間ではない。そんな性欲など持ち合わせてはいない。


 なのに、()されてしまった。


 獰猛な獣に睨まれ、馬乗りになって上下関係を教え込まれているような、今すぐにでも喉を切り裂いてしまえるのだ、しないでおいてやるから大人しくしろと抑圧されているような、そんな感じだった。

 リジンの唇はカンファーの牙が傷を付けた。

 あの腕力や気迫は、本物の狼のようだった。


(落ち着くの、リジン。私はあの人の妻になったの。これから先、いつだってああいうことが起こる。そのたびに気後れしていたら、やっていけない)


 彼は間違いなく命の恩人だ。

 こうして温かい食事を採れるのも、彼が助けてくれたからだ。そうでなければ、今頃はリジンの首と体は引き離され、土の中に埋まっている。墓標にはなにもメッセージなど刻んではくれなくて、知名度もない名前が記されるだけだ。その未来が訪れなかったのは、カンファーのおかげである。

 それに夫婦がああいった行為をするのは、なんら不思議ではない。むしろ、あそこで留まってくれたのはカンファーの優しさともいえた。本来であれば、この国で妻が性行為に対して拒否をするなんて、あり得ない。男性優位の国では、子作りは必須なのだ。


「どうした?」


 俯いていたリジンを、ボルネオが覗き込んでくる。

 手枷は既にカンファーからボルネオに引き継がれていて、伸びた鎖が二人の間に緩やかな橋を作っていた。


「すみません。ぼーっとしていました」

「のぼせたか?」


 ボルネオが頬に触れてくる。冷たくて気持ちのよい手だった。女性のように細長い指は、カンファーと同様にかさついている。そういうところは血の繋がりがなくても兄弟で似るようだ。

 ボルネオは考えるように宙に瞳を泳がせた。


「うーん、そんな熱くもねえ気がするけど。それにしても風呂場で転んだって?」


 つい先程、風呂から上がってすぐに唇の傷をボルネオに問われて、咄嗟に嘘を付いてしまったのだ。血が出るほど荒々しくキスをされたとは、どうしても言えなかったのである。


「暗いお風呂に慣れていないせいです。すぐに慣れます」

「しばらく床にはなにも置かないようにしねえといけねえな。あとで一緒に片付けようぜ」

「わかりました。お気遣い、ありがとうございます。ところで、カンファー様はどちらに行かれたのでしょうか」


 きよろきょろと部屋を見回すも、カンファーの姿はない。いつの間にか消えてしまっていた。どちらかというと、顔を合わせると気まずいので、今はいてくれないほうが落ち着ける。


「またトレーニングするってよ。なんか、今日は調子が悪いらしい。時々あるんだ。トレーニング中は雑念を振り払えるから、集中したいときとかに何度もトレーニングに行ったりする。化物(ばけもん)だよ、あの体は」

「なるほど。では食事を多く作っておいたほうがよさそうですね」


 あの体の維持には相当な食事が必要だろう。それに、本日2度目のトレーニングになると、どれだけ要るのか想像もつかない。


 そこで手紙が出せるかを聞こうと思い付いた。


「そういえば、私達は手紙は出せるのでしょうか」

「出せるよ」

「本当ですか!」


 それは朗報だ。もしかすれば無理だと言われてしまうかもしれないと考えていたリジンは歓喜する。

 早速、母に手紙をしたためて郵送したい。

 でも──とボルネオが続ける。


「がっかりさせたいわけじゃねえが、この家からは発送できない。つまり、この家の住所も、リジンの名前も書いちゃ駄目だ。それに、公にはされてねえが、この国には手紙の検閲がある。だから処刑人の家族であるとわかるような文言は一切不可。どこにでもある当たり障りのない内容じゃねえと、検閲に引っ掛かって廃棄されるか、襲撃に利用されるぞ」

「そ、そうなんですか」


 検閲があるとは知らなかった。

 これまで、母への手紙は何度も出してきたが、何も考えずに赤裸々な内容を書いていた気がする。仕事に関する失敗談だとか、少し太ってきてお腹が気になるだとか。そんな手紙を誰かに見られていたとなると、なかなか思うところがあると言えなくもない。


「誰に出すんだ? 男か?」


 がしっと掴まれた手に驚く。今までそんな素振りなく会話していたのに、いきなり怒ったようにボルネオの目がぎらりと光った気がした。

 咄嗟に首を振る。


「ち、違います。母に出そうかと」


 言うと、ボルネオは急に興を削がれたみたいに手を離した。


「ああ、そう。ただ、今この屋敷には便箋とか蝋とか、ない気がする。あったとしても何年も使ってねえから、虫食いだらけの紙になってるはずだ。だから、今度の買い出しのときについでに買いに行こうぜ」

「いいんですか!」

「いいよ。雑貨屋なら、いいところがある。それに、名前なんか書かなくても便箋の好みとかでリジンだって伝わるだろ? 無理にこの屋敷にあるやつを使うんじゃなくて、リジンらしいのを選んだほうがいい。名前を書けねえからこそ、リジンらしくしといたほうが気付いてもらえるよ」

「ありがとうございます!」


 これは毎週の楽しみができた。毎週手紙を書いて送ろう。そうすれば母に心配をさせなくて済む。手紙を出すのを許してくれる夫は優しい人なのだと暗に伝えることもできそうだった。

 だが、ふと疑問を抱く。


「……もしかして、手紙を受け取ることは難しいのでしょうか」


 ボルネオは鎖で繋がっていないほうの手で頬杖をついた。その顔が明るくない意味を察する。


「無理だ。この住所には、なにも届けられない。俺が産まれるよりもずっと前の代に、火薬をうまく使った爆発物が届けられて以来、郵送を止めてるんだ」


 本当に世界から遮断されている家なのだ。リジンは平民としてこれまで処刑とは無縁で生きてきたから、恨みの末に処刑人を殺そうなどとは考えた一瞬すらなかった。彼らは常に命を狙われている。

 しかし、とすれば、母への手紙は自分の一方的な気持ちと近況報告だけで、母の体調や愚痴を聞いたりはできないということか。


 悲しい。


 もしかして、いつの間にか母が死んでいても、自分は気付かずに空っぽの家にずっと手紙を送り続けるのではないだろうか。呑気な内容で、母の苦境を知りもせず。そんな親不孝が許されるのだろうか。


「そんな顔すんなよ」


 そっと頬が撫でられる。

 頬を包んでくれる手に固いマメはなくて、するすると滑る柔らかな肌だった。頬を撫でる親指は、いつしか唇の傷を愛でている。


「大丈夫だから。俺達がいるから」


 けれど、母には誰もいないのだ。

 そう思うと、涙が出てきてしまった。


 母は孤独だ。


 ひとりで、自分が生まれ育った家で毎日を繰り返している。なんの変化もないかもしれない。


 涙を拭ってくれるボルネオの瞳は、優しくもあり、どこか怜悧でもあった。


 ぺろり、と頬を舐められたのは、ほんの隙を突いた一瞬だった。

 驚いて声も出せなかった。

 しかもそれだけに留まらず、唇の傷まで舐めてくる。

 さすがのリジンもボルネオの体を押して、行為から逃れた。


「な、なにをする──!」

「転んだんだろ? 唾つけときゃ治るって、言われなかったか?」

「それは、そ、そうですけど……!」

「大丈夫だって言ってんだろ。リジンの母親は、カンファーの姻族に当たる。不当な扱いは絶対にされねえし、生死や入院なんかは一報が入るはずだから、そんな顔しなくていい」

「それを早く言ってくださいよ!」


 なんだか損をした気分である。


「転んだ、ねえ?」


 意味深な笑顔を向けてくるけれど、リジンは見ないふりをした。

 この兄弟は、少しばかり野生的な仕草が多いようだ。

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