第11話
目覚めたとき、ランプは絞った小さな火でまだ部屋を照らしていてくれた。
寒い気がして顔を横に向けると、カンファーがいない。シーツに手を滑らせると、冷え切っていた。リジンが起床するよりも、もっとずっと早く起きてベッドからいなくなってしまったようだ。
逆隣のボルネオを見る。
思わず、ふふっ、と笑ってしまった。リジンとボルネオの間にしっかりと枕が縦に並べられて、境界線が作ってあるのだ。ボルネオは枕を抱いたまま、まだ寝息を立てている。
枕はカンファーが置いたのだろう。そう思うと、この兄弟のじゃれ合いが羨ましい。
カンファーはどこに行ったのだろう。
少し迷って、詮索はしないことに決めた。
彼には彼の生活がある。
「ボルネオ様、お食事の用意をして参ります」
寝ているとは思いつつも、一応、閉じた瞼に言い添えて部屋を出た。
まだまだ屋敷の構造は覚えられない。食堂の厨房、パントリー、自室とボルネオの部屋以外はなにがどこにあるのか、まったく不明瞭なままだ。
(それにしても、今が何時なのかもわからないのは困ってしまう)
時間によって、仕事も変わってくるのに。
「……少しだけなら」
窓をほんの僅かに開けるだけ。
空の明るさを見るだけ。
早朝なのか、少し寝坊した朝なのか、もう昼なのか、もしかしたらまだ真夜中なのか。
それだけ。
ほんの少し、窓を開けて見るだけ。
適当に開けた部屋は埃っぽくて、噎せてしまいそうだった。兄弟は自分達が使う範囲だけの掃除をしているらしい。
壁際の窓に駆ける。
雨戸は固く閉ざされていた。釘かなにかで打ち付けてあるのかもしれない。開けようと悪戦苦闘していると、ガタガタと音が鳴った。静かな屋敷だから、その音がやけに響いて聞こえる。
(……やめておこう)
きっと開けてはいけないと警告されているのだ。きっと、死を司る神に監視されている。わざわざ神の逆鱗に触れることはない。空腹を感じたら食事をし、眠くなったら寝る。その生活でもいいではないか。
「そうよ……私、もうメイドじゃないんだもの」
人の顔色を気遣って、先回りした支度をしなくても構わない。人のために動くのじゃなくて、もう自分のために生きていいんだ。
けれどお母さんは?
母は大丈夫だろうか。
顔に広がる痣で淘汰されていないだろうか。揶揄されて傷付いていないだろうか。せめてお金だけでも贈りたい。働かなくても暮らしていけるだけのお金を、毎月。
けれど、それをカンファーに頼むのは気が引けた。
金のための結婚にしたくない。
金で繋がる夫婦になりたくない。
でも母が気になる。自分だけこんな自由を手に入れて、罪悪感が込み上げてきた。
「……手紙……! 手紙はどうだろう」
自分が元気であること、幸せであることを伝えるだけなら手紙を送ってもいいのではないか。
「そう! きっと大丈夫! あの護衛の方にでも頼めば届けてくれるはず!」
暗闇の中で、一縷の光が見えた気がした。
そうとなれば空の明るさなどどうでもいい。早く手紙を書いて、母親を安心させてやりたい。
雨戸からそっと手を離す──
「なにしてんの」
その尖った声に驚いて振り返る。
服の乱れたボルネオが、ドアの枠に手を掛けてリジンを睨んでいた。襟口が伸びてしまった古い寝間着は、ボルネオの細い首と肩と鎖骨を顕ににて妖艶さを纏っている。けれど瞳は鋭い。
窓を開けて空を見ようとした後ろ暗い理由があるから、リジンの挙動は明らかに不審になった。
「あ、あの、その……」
「なにしてんだって聞いてんだよ!」
怒鳴り声。
パントリーで会ったあのときよりも、優しいボルネオの声を聞いているから余計に怖い。
「あ、あ、の、ごめんなさ、その」
「逃げるのか?」
口早に問われた。
リジンは、えっ、と声を漏らすしかない。
逃げる。
そんなことは毛頭も考えていなかった。
そうか、ボルネオは自分が逃亡を企てていると見えたのだ。慌てて否定した──が、間に合わなかった。
「ち、ちが──」
「ここにいるって言ったじゃねえか!!」
ボルネオは駆けてきた。
殴られる、と思って瞑った目は、けれど、やはりなんの衝撃もなかった。
抱き締められていたのだ。
ボルネオに、眠っているときよりも強く。
震えるほどに。
「ここにいるって、ずっと、ここにいるって約束したじゃねえか!」
「ボ、ボルネ──」
「許さねえ……逃げるなんて絶対に許さねえからな!!!!」
耳をつんざくような慟哭は、だが不愉快さを微塵も感じさせなかった。
彼は孤独を恐れただけだ。
恐怖が巨大に過ぎて、憤怒へと色を変えてしまった叫び。
もしかすれば、彼の執着は異常なのかもしれない。それは逆に、彼がいかに独りの時間を耐えてきたのかを物語っている。
「ボ、ボルネオ様、私はどこにも逃げたりはいたしません。今が何時なのかが気になって、空を見ようとしてしまったんです。窓を開けてはいけないと、カンファー様に言い付けられていましたのに、申し訳ございません」
「……嘘だ」
疑心に満ちている。リジンはボルネオの背に手を回して、同じように抱き締めてやった。
「どこにも行きません。今が朝なら軽いものを、お昼ならしっかりした食事をと、そんな程度の好奇心でした」
「嘘だ」
「本当です。どうすれば信じていただけますか?」
「……ずっと一緒にいる」
「それはもちろん、お約束──」
がちゃん、と重い音がした。
見れば、左手首に手枷が掛けられている。伸びた鎖は、ボルネオの右手の枷に繋がっていた。
(え?)
目をぱちくりとしてしまう。
一体、なにを?
「これで一週間過ごす。風呂もトイレもベッドも一緒。それが出来たら信じてやる」
「お、お風呂!?」
「そうだ。なんか問題でもあんのか」
問題だらけなのだが。
「あ、あの、私達は男女であります。お風呂や、お手洗いまで一緒というのは、貞操観念を疑われかねないかと」
「なにそれ」
「貞操観念」
「知らねえ。どうでもいい。一週間後に外してやる」
じゃらん、と鎖が笑った。
やっぱりボルネオの執着は、少し異常だ。
(いや、かなり)




