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第1話 死刑宣告


 リジンは平凡なメイドである。

 苗字もない平民以下の家に生まれたリジンのような女は、嫁ぐか、働くか、体を売るか。

 生きていく道の選択肢がとても少ない。

 リジンはその中で労働を選んだ。早くに父を亡くしたため、少しでも母を楽にしようと、10歳をほんの少し過ぎた頃からメイドとしてあくせくと働き続けている。住み込みであるため、母に会えるのは一年でほんの一握りの時間しかないけれど、その日を糧に毎日を懸命に生きている。


 そんな幼い頃から働いているため、人間関係を良好に保つには、おとなしく、落ち着いて、笑顔でいればいいと自然に学んだ。


 職場は人間関係がすべてといっていい。いくら楽な仕事であっても、人との関わりがぎくしゃくしていると逃げ出してしまいたくなる。だからリジンはいつでも笑顔で、いつでも仕事を断らず、いつでも元気に振る舞って、屋敷中の使用人と良好な関係を築き上げた。

 だが、残念ながら人間の中には、そういったお人好しを『虐げても構わない』と思い込むものもいる。


 おとなしいから殴っても罵っても大丈夫。

 落ち着いているから嫌がらせをしても大丈夫。

 嘲笑っても大丈夫。


 そしてそれは、人としての階級が下であればあるほど顕著に勘違いされた。


「ねえ! どういうことなの!? イエローのドレスにオレンジの花飾りなんて、こんな悪趣味な選び方ってある!?」


 今朝、お茶会があるからと着付けを命じられたモルファイン公爵令嬢が金切り声を挙げた。

 リジンと同じく公爵家のひとり娘だが、境遇はまるで異なる。裕福な暮らしと、働き詰めの毎日と、天と地ほどの生活にリジンも憂いた夜があったが、今となってはモルファインがお給与にしか見えないのだから成長というのは目覚ましいものだ。


 絨毯の敷かれた床に叩き付けられたオレンジの生花。


 靴の、細長い踵で踏み潰されたせいで、花弁から汁が滲み、ベージュ色の絨毯に小さな染みを作っている。拾おうか迷って、辞めた。今はとりあえずモルファインの文句を受け止めてやらねば、もっと噴火してしまう。


「そもそも豪華さが足りないわ! あんた、何年メイドやってんのよ!」


 そもそもリジンが用意した数種類の花飾りから、オレンジを選んだのはモルファイン本人である。着付けを終えたあと、本人もかなりの満足顔で出掛けたはずなのだが、お茶会で揶揄されたか、もっと美しくドレスを着こなした令嬢を目の当たりにして自信を失ったか、どちらかだろう。


 自分は悪くない。


 わかっていても精神が削られる。

 モルファインの糸の切れそうな甲高い声が罵詈雑言の限りを尽くすこの時間、リジンは耐えるしかない。

 自分はメイドで、モルファインは雇い主だから、逆らったらお金を貰えない。お金がなければ生活できない。そうなれば堕ちるところまで堕ちるしかなくなる。

 宿無しなど、まだいいほうだ。

 問題は食料。食料さえあれば生きていけるけれど、食料のために体を売るなど絶対に嫌だ。そんなことをしたら、体は生きていても、心が死んでしまう。


「聞いてるの!?」


 平手が飛んでくる。

 衝撃で頭が揺れて、視界がぐるんと変わった。ひどく頬が痛むのは、モルファインの指輪が運悪く頬骨にでも当たったのかもしれない。


 なぜ、ここまでされる?


 オレンジを選んだモルファインを褒めなければモルファインは怒り狂って、またリジンの人格を根こそぎ否定するのに、モルファインを褒めたら褒めたで、こんなふうに人として扱ってもらえない。

 まるで、玩具だ。

 都合のいいときだけ身の回りの世話をさせて、鬱憤が溜まれば発散させる道具にする。感情のあるものに対して言えば傷付くとわかっている言葉を、わざと言ってくる。そして精神的にも、肉体的にもボロボロになったリジンを見て、やっと満足して清々しそうな顔で用事を言い付ける。それが、モルファインの機嫌が治るまでの一連の流れだった。


 いつも、こう。


 でも、なぜ?


 産まれた家が貴族だから?

 産まれた家が貧しいから?


「この乞食(こじき)! 早く床を掃除しろって言ってんのよ! 口でやんなさいよ、口で! 舐めて綺麗にして!」


 頭を掴まれて、強引に床に引きずり倒された。ひれ伏した先にあるのは、命を途中で手折(たお)られたというのに、美しささえ馬鹿にされた花がある。オレンジの花弁から染み出た汁が、嘆いているように見えた。


「早く舐めろって言ってんのよ!!」


 後頭部を踏み付けられ、潰れた花が迫ってくる。


 ぐじゅり。

 固く閉じた唇の隙間から花弁の汁が染み込んでくる。甘ったるい香りのわりに苦くて、不味い。


「きゃははははは!! 醜い! とても醜いわ! あんたの母親と同じね!」


 母は顔に生まれつき青い痣がある。


 顔の半分が痣なものだから、周囲からは悪魔と罵られたりもした。だから母を愛してくれた父を、母はこれ以上ないほど大切にしたのに父は病に倒れてしまった。

 母はリジンも愛してくれた。

 ひとりで育てていくにはあまりにも貧しくて、周りから幾度も子どもを売りに出すことを勧められたのに、頑としてそれを断った母をリジンは愛している。尊敬し、感謝もしている。


 そんな母への暴言に、リジンは我慢の限界を迎えた。



「……なんて言った……?」



 押さえつけられたまま喋ると、口の中に花弁が入り込んでくる。ぺっ、と吐き出して、後頭部にあるモルファインの足首を握った。細くて折れてしまいそうな足だった。


「ちょ……っ! なに──」


 おもむろに立ち上がると、当然に掴んでいるモルファインの足も上がって、はしたない足が露わになる。ドレスの裾を必死に直そうとする姿が滑稽だった。


「もしかしてなんですけど、私が言い返しもしない、反抗もしない、気の弱い女だとでも思ってますか?」


 執拗に足首を放さないでいると、かっとモルファインが赤面した。


「放しなさいよ、この乞食! 乞食、乞食乞食乞食乞食乞食──!」


 自分のしたことを認識できなかった。

 気付いたときにはモルファインは床に尻餅をついて倒れていて、その左の頬は真っ赤になって、唇から血が、鼻からは鼻水が垂れていた。


 どうやら、足首を固定したまま逃げられないようにして殴り付けてしまったようだった。


 殴った瞬間に足首を放したおかげで尻から転んだらしい。


(おっとぉ……)


 これは──。



「パパぁぁぁぁ!! メイドがぁぁぁ!」



 肩を震わせたモルファインは、屋敷の端まで届きそうなほどの悲鳴を挙げた。



(やっぱり、そうなりますよね)


 リジンは自分の未来を考えて項垂れてしまった。



◇◆◇◆◇◆



 この国の司法は貴族に侵されている。

 法律なんて名ばかりで、貴族が圧力をかければ解釈をいくらでも拡大するし、反対にいくらでも狭義にもできる。法文を作ったのも、かつての貴族。法文を利用するのも、現在の貴族。

 だから公爵令嬢への傷害が殺人になり、なぜか外患誘致企図者になり、死刑宣告にまで至ったわけだ。


 リジンは考える。

 冷たい牢屋の中で、暗がりに沈んだ天井を見上げながらそこに母を(えが)いた。


 母は悲しんでいるのか。

 嘆いているのか。

 不出来な娘だと責められているだろうか。


 ああ、最後にせめて会って言い訳をしたかった。

 ごめんなさい、ごめんなさいと謝って、それで、なんてことしたの、と叱られたかった。母の叱責はリジンへの愛情を込めた思いやり溢れるものだ。


(だって、こんなのおかしい)


 同じ人間なのに、貧しいからって馬鹿にされて叩かれて、母親まで侮辱されるなんて、そんなの間違っている。

 そう。私は悪くない。


(……やっぱり、グーで殴ったのはやりすぎだったけど……)


 それでもモルファインのあの顔を見られたからよしとしよう。動かない玩具に噛み付かれた、あの間抜けな顔。なにも罪悪感なんてない。


(……いや、やっぱりちょっとやりすぎだったかもしれないけど……)


「ま、いっか!」


 あと少しで死ぬというのに、こんな重いことを考えるのは勿体ない。もっと明るくなれるような考え事をしよう。


 母との思い出。

 髪をすいてくれた優しい手。

 悪夢を見たときの背中を撫でてくれる優しい手。

 抱きしめてくれる両腕。


 その記憶だけでリジンは自分も優しくなれた気がする。


 ふと、頬が綻んでいたのだろう。

 牢屋の外に立っている誰かの気配に気付いて、気を引き締めた。あくまで反省している姿勢を取っておかなければ、痛めつけろと処刑人に命令が下って一撃で処してもらえないかもしれない。


 がしゃん。と音がした。

 それは牢屋に立つ誰かが鉄柵を握ったからだった。


 だが暗くて見えない。

 相手の顔はすっかり闇に溶け込んでしまって、鉄柵を握る手がぼんやりと浮かんで見えるだけだ。


 しばし、その青白い手を見つめていた。


 時が止まったように互いに動かなかった。

 けれど、急に手が意思を持ち始めた。



 手招きをしたのである。



 ゆっくりと、少ない動作で、ゆらり、ゆらり。


 もう時間なのだろうか。処刑が執行される、そのときがきたのか。


 膝を抱えていたリジンは立ち上がって手に従った。


 不思議だ。

 これだけ近付いても、相手の顔が寸とも見えない。体も見えない。


 とうとう亡霊を見るほどに窮しているのか。目をゴシゴシと擦ってみるけれど、結果は同じだった。


 亡霊だとするならば、この手には()れられますまい。



 興味本位で、その手に手を合わせた。


 とんでもなく大きな手だった。相手の掌だけでリジンの指先まですっぽりと包まれてしまいそうだった。


 とても冷たい。乾いた手で、ごつごつとしたマメが指の付け根に並んでいる。


 しばらく触れ合っていると、どちらともなく指を絡ませた。


 境界線が交わったみたいな感覚だった。


 リジンと他人という境がぐにゃりと歪んで溶け合って、混ざるような不思議な感覚。指が互いの領域を侵しながら、そのまま握り合うと、ようやく相手が亡霊でないと知る。

 人なのだ。

 そこに、間違いなく人がいる。



「なんだ、よかった……生きてるんですね」



 呟きは、自分が幻覚を見ていないことへの安堵も込められていた。

 それならば、こうしている必要はない。また腰を落ち着けて、母との思い出に浸るだけだ。そうしていたほうが、死の恐怖を感じずに済む。仕方がないもの、決まったことだから。受け入れないと、仕方がない。


 毎日が幸せだったあの頃に、心だけを戻す。


 けれど、相手はそれをさせてくれなかった。手を放してくれないのだ。


「……あの……?」


 思い付く。

 これはよもや、貞操の危機なのではないだろうか。幽閉されている女性を狙う看守がいるのは有名な話だ。たとえ死刑が間近に迫った相手であっても、性の対象としてみられる可能性は大いにある。しかも、どうせすぐに死ぬからと乱暴に扱われることだってある。


「放してください」


 全身で抵抗しても、手一本の相手はびくともしない。

 怖い。

 ぶわりと鳥肌が立って、リジンは全力で逃げようと身を捩った。


「放して! 放してくださ──」


 手をごんごんと殴り付けても、ちょっとも力が緩まない。亡霊じゃないにしても、怪物だ。姿の見えない怪物を想像して、リジンはいてもたってもいられなくなる。



「助け──!」

「助けて、やろうか」



 闇から放られた甘い誘惑。


 それはひどく枯れた、男の声だった。

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