甘い雫
「いつものを下さいませ。あと…アレを…またいただけますか」
イルヴァがいなくなって数週間がたった。それでも一人で出かけられるようになったのはこの店の気安さと黄薔薇直営店という安心感からだろう。
「気に入っていただけたようですね。父が喜んでいましたよ。座ってお待ちください。ネレム!」
何だかそわそわしているアンネリエにお茶でもいかがですかと声をかけると、非常に言いにくそうに、
「あれって、何か混ぜたりしているんですか?」
と聞いて来た。
「といいますと?」
これがイルヴァならじれったいと怒りだす場面だな、と思い浮かぶがアンネリエは静かに、けれど言いにくそうに答えた。
「なんだか…その…とても甘い気がして」
「そういえば感想をお聞かせくださったときもそういってらっしゃいましたね」
甘い、という感想には父がにんまりしていたので何かしらいい情報なのだろうけれど、レオナルドには何がいいのか分からない。
「ええ。今まで飲んでたものとは比べ物にならないくらい、その、美味しくて」
そう、うっとりとした顔つきになると少女のようなあどけなさが抜けて少し色っぽく感じられた。
「あ、でもイルヴァは甘さを感じないって言ってましたわ。あんなに香しいのに」
「個人差があるようですね」
と、ここで気付く。ネレムが来ない。
「…ネレム! 何をしているんだい!」
「はーい…ってアンネリエさんか。最近よく来るけど、いいの? お嬢様が一人でうろついて」
遅れて出てきておいてその態度。父が居たら大目玉だな、とレオナルドはため息をついた。
「外に車を待たせてありますから大丈夫ですわ。ご心配ありがとうございます」
「車なんて乗ったこともないや」
「一人で出かけるときはこうしないとお父様が許してくださらないのよ」
「へぇ、お嬢様も大変だ」
発端は自分が迷子になってしまったことがあったからだが。あの時は本当にい静かに大騒ぎになっていた。見つけてくれたイルヴァは大変感謝され未だに感謝され続けている。
「さぁ、ネレム、仕事です。このリストの品を地下から持ってきなさい」
「はいよ。あれ、いつもとちがうのな」
「お客様がいらっしゃるんですの」
「詮索するもんじゃないよ。…すみませんね、礼儀がなっていなくて」
「いいえ。最初は驚きましたけど、新鮮で楽しいですわ。それより顔色が悪そうでしたけど…大丈夫かしら」
「…疲れているのでしょう。ああ見えて結構働き者なんですよ。よく動きますし」
一応の評価は受けているようだ。
「いつも頑張っていらっしゃいますものね」
さぼる暇を見つけては寝ていることを知っているレオナルドは、このお嬢様の目を覚ました方がいいのかなやむところである。
「アンネリエさんはネレムに甘いですねぇ」
「そ、そうですか? そんなことないと思うのですけど」
世間知らずだとはイルヴァに何度も言われてしまいましたわ、と困ったように笑う。
「普通店の対応があんなだったら怒ってしまう方がほとんどなんですよ」
「まぁ、でもそうかもしれませんわ」
想像したのか、ふふふと上品に笑って見せた。
「それを心配までしてくれるなんて。優しいのか物好きなのか」
「でも本当に顔色が悪かったですわ。足元もふらついていたし」
「ご心配ありがとうございます。お客様がいないときは上で休ませているんですけど…」
最近暑いせいなのか体調が思わしくないようだ。
「っしょ、マスター、これでいい? っと、うわっってててて」
「ネレムさん!」
地下から上がってくる階段につまずく。ガチャガチャと音を立て箱の中身が散らばった。
「アンネリエさん近づいたら怪我を、」
「大丈夫、割れてないっす」
へへへ、とネレムが笑う。
「やりますねぇ」
きっと何本も割っていたことを想像していたレオナルドは父への言い訳を考えていたところだった。
「やりますね、じゃありません! 怪我なんてしたら大へ…」
腰に手を当てアンネリエが珍しく怒った。が、次第にとろんとした目つきに変わる。
「大丈夫大丈夫。ちょっと肘擦りむいただけだから。ほら」
安心させるように膝を立てるとぷっくりと赤い血が盛り上がっていた。この香りを、アンネリエは知っていた。
「え…」
「あっ…いけないっ」
レオナルドが止めるよりも早く、アンネリエはネレムに近づく。
「…この、香り…この…」
そして傷の前でスーッと息を吸い込んだ。
「えっ」
突然のことで何が何だか分からないネレムは動けない。
「ネレム! こちらへ!」
レオナルドがネレムの腕を引っ張った。だがそれより先に、アンネリエの牙がネレムの足に食い込む。
「うわぁっっ」
あの甘い香りが、より鮮明で強烈な香りがアンネリエの体にしみわたっていく。何という幸福感だろう。気持ちが高揚して、飲み込むときの感覚にさえ快楽を覚えてしまう。
「アンネリエさん!!!!」
「っくっっぁっ、アンネ、リエ…」
周りでなにか、誰かが騒いでいる。何だろう。この声は聞いたことがある。この声は…誰だったかしら。
「いけない! アンネリエさん!!」
「な、に…これ…目の前が…ぐる、ぐる…」
一気に血を抜かれ、ただでさえ調子の悪かったネレムの顔面は蒼白だ。これ以上やると。
「アンネリエさん! このままではネレムが死んでしまいます!!!」
ネレムが死んでしまう、という言葉に一瞬固まりばっと飛びのいた。
「っっ!!!?? あ…ああ…」
今まで何を誰にしていたのか。頭の中がだんだんとクリアになっていく。
「ア…ネリエ…?」
虚ろな目には口を真っ赤にした女が映っているだろう。ネレムにこんな姿を見せてしまうなんて。
「なんてことだ…こんなことになるなんて…」
父の言っていた特別とはこういうことだったのか、とレオナルドもまた理解した。
「い、や…みないで…見ないで…! いや、いや、いやあああああああああああああああ」
アンネリエは知った。なんと自分は醜い生き物なのだろうかと。そしてもう一つ。あの甘い誘惑は、恋の味なのだと。




