038
夕方に迎えに行ったミキも喜んでいたけれど、その前のナナの喜びようも尋常じゃなかった。
ミネは、しゃがみ込んだ僕の胸に勢い良く飛び込み、そのまま後ろに押し倒された僕の顔をペロペロとなめるナナの姿を見て「やっぱり、運んできた人間に一番懐くのね」と呟いていた。これが、どういう気持ちで言ったのかは、眼鏡がズレて表情が読み取れなかったので、分からないままだ。
いつもの暮らしが半日ぶりに戻り、ホッとした翌日のこと。
午前中に前日の未処理案件を急いで片付け、ホンが休みなので、ランチは適当に済ませようと思っていたところ、廊下を出てすぐに、リン秘書に声を掛けられた。入社当初から映画女優顔負けのスタイルを保ち続けている所は、いつもと変わらない。だが、僕の姿を見た途端に、自然な微笑みとは違う妖艶な笑みを浮かべた所は、いつもと違う。
「一昨日の晩は、色々あったそうね」
「えっ。ホンから聞いたんですか?」
「うふふ。噂の出所は、乙女のネットワークってところかしら」
「はぁ……」
何かの拍子にホンが口を滑らせた事が発端で、女子社員の情報網に拡散していったのだろう。きっと、情報源に聞いても心当たりが無いと言うに違いない。何やら、とんでもない脚色がなされてそうで、そら恐ろしい。
この場をどう切り抜けたものかと思案していると、リン秘書は片手に提げていた小さなハンドバッグを開け、中から瀟洒なデザインの香水瓶を取り出した。
「鎮痛と精神安定には、カモミールが効くの。ベルガモットでも良かったんだけど、あいにく切らしちゃってて」
「そんな高そうな物、受け取れません。お気持ちだけで……」
こちらへ香水瓶の底を向けて差し出したリン秘書に対し、僕は両手を胸の前で小さく振り、やんわりと断ろうとした。だけど、リン秘書は、そういう反応をするだろうと予測していたようで、揶揄うように、悪戯っぽく訊いて来た。
「あら、カモミールはお嫌い?」
「いえ、そういう事ではなくてですね……」
「だったら、良いでしょう? このバッグに比べたら、大したものじゃないのよ。受け取って?」
そりゃあ、下手したら車が買えそうな値段がするであろうブランド物のバッグに比べれば、桁違いに安物でしょうけど。
内心で、僕とリン秘書とでは住む世界が違うと感じつつ、受け取らないと許してもらえそうにないと考えた僕は、抵抗を諦めて受け取ることにした。通り掛かる人達が、遠巻きに観察してくるのも気になるからでもある。
「……有難くいただきます」
「うふふ。有効活用してね。それでは、失礼するわ」
ツカツカとハイヒールを鳴らしてエレベーター方面へ立ち去って行くリン秘書が角を曲がるのを見送ってから、僕はスーツのジャケットに香水瓶を入れ、階段で降りようと決めて廊下を直進した。